お華とお茶

「三田村君、暇が出来ればお華やお茶をやってみると良い。」
今は亡き先生方の共通したお話でした。
お華・・・華道をはんこ職人がする必要は何となく理解できます。
花は、一本いっぽん形状が違います。
長い流麗な葉っぱもあれば、短いが横に広がった美しい花弁を持つものもあります。
それを一つの器に自然を感じられるような自分の世界観を確立します。
印章の文字もそれぞれに形状が違います。
篆書はとりわけ、同じ文字でも色々な骨組みがあり、粗密を表現することが出来ます。
2~3種類のフォントでは、とてもそういう表現は出来ません。
あまりにも粗密があり過ぎれば、今度はフォントの意味をなさなくなり、使用できる場所や人が限られてきます。
そういう意味でも印章作製にはフォント使用は不向きです。
同型印の危険性を孕んでいるのみだけでなく、自由闊達に創造できません。

華道の重要性は、何となく理解していますが、実際には技能グランプリの時に、フラワーアレンジメントを見ているくらいです。
しかし、つい最近までお茶・・・茶道の世界は何故はんこ職人に必要かが分かりませんでした。
一時期、体を壊して入院していた時に、デイケアーとして茶道教室を経験したことがあります。
袱紗捌きがよく理解できずに、お菓子欲しさにしていたことを思い出しました。
テレビで茶道についての講座が始まったようで、たまたま1回目をみていたのですが、茶道はどうも精神が大事なようです。
華道も香道も柔道も・・・全て道のつくものはそうなのかも知れませんが、茶道は取り分けてかなと思いました。
お茶室という、これも限られた空間に入り、そこでの亭主と客との関係が重要となります。
亭主が客に気を使う・・・お茶室に入るまでの道中、お茶室の華や掛け軸等々、それはよく理解できますが、客も亭主に気を使う・・・これがスゴイと思いました。
今の商売は、お客様優先主義的過ぎて、店員がお客さんにたいしてハラハラドキドキし、場合によっては土下座させられたりと・・・
客も気持ちよくお茶をいただく為に礼儀である作法を守り、きちんと対応する姿勢は日本的霊性を表現できたものだと感心させられました。
私もお茶を習いたくなりました。

写真は、昨日の印面を洗い流すに続く、印章技術の小手先のご紹介です。
印材の輪郭を仕上げる時に、土手を付けることは当たり前ですが、印材よりも内側に輪郭を作ることは、あまり知られていませんし、しているお店も少ないかも知れません。
細い輪郭線を守り、外圧に強くなります。
輪郭線の太さは、中の文字数や画数にも影響を受けます。
そのお話は、機会がありましたら・・・
今日はここまで。

posted: 2020年 2月 5日

職人の誇り

職人の誇大事に初仕事
【作者】池上不二子

消費税の増税の煽りをくらって、昨年の暮れは、お餅が買えるのか?年が越せるのか?はんやを辞めようか!という状況でした。
今は、相変わらず忙しくさせて頂いております。
感謝です。

職人の誇りを大切にしたいものです。
最近、お客さんや同業者から聞かれることが多いのですが、現在お持ちのハンコと似たように彫ってもらえますか?とか、下地の文字デザインはあるのですが、それと同じように彫ってもらえませんか?
下請け時代は、そういう仕事もありました。
嫌で嫌で仕方がありませんが、食べていく為にしていました。
これは、職人の仕事ではありません。
(おそらく、現在はスキャンされて彫刻ロボットが代替していることだと思います。)
その思考の裏側には、職人を見下した考え方があります。
・・・職人は、言われたことをしていればよい。
意見など、主張や思考は要らない・・・字彫り虫でよい

印章作製というのは、単なる作業工程で分解されるものではありません。
それによると、機械彫り、手仕上げ、手彫りという名称だけが一人歩きします。
フォントの文字を転写し、手で彫った物が、手彫りでしょうか?

本来の印章作製は、字法、章法、刀法という分野から構成されているとするのが、常識的な印章彫刻職人の考え方です。
作業工程で示された区分は、刀法という分野のみで、あとの字法、章法という考え方はほったらかしとなります。
そのほったらかしにされたものを得る為に、手で彫刻することを学び、手で覚え込むのです。

先にお話しました今お持ちのハンコと似たような物を彫ってくれというのは、どういうことでしょうか?
職人の誇りは、その仕事にはあるのでしょうか?
仕方がないからしていたのでは、印章の価値を貶める事にはならないのでしょうか!

藤本胤峯先生は、著書の中で次のように話されています。
久しぶりの引用をお許しください。
「篆源を知らずして、楷書を折り曲げた篆書風に気品はない。篆源を能く知ってその上に一般にわかり易くするのは容易ではないが、これを行い得るとき帝王の文字の篆体は如何なる場合にもその真と美を必ず表現する。
ここに百歩譲って佳き配文を得て、佳き判下を書けたとしても、これを彫刻機で刻ればどうなる。気迫と気品はとても生ずる筈もなく。平々坦々とした凡作に終わることは必至だ。即ち彫る力が乏しく格好だけの三文判になり下がってしまうのである。すべての印章の真価を冒涜するものでしかない。」

人の判下は、人の頭脳です。
パソコンのフォントは、自分の頭脳ではありません。
人の仕上げ線は、自分の仕上げ線ではなく、人の褌を締めて試合にでることとなります。
それらを使うことは、職人の誇りをドブに捨てることです。

posted: 2020年 1月 31日

内から溢れて来る情熱

職人に口出し無用寒の梅
【作者】平野道子

連続テレビ小説『スカーレット』・・・
・・・八郎さん、出ていかれましたね。
ドラマ目線、夫婦目線で言うと、とても喜美子が身勝手で、自分がしたいことの為に家族を犠牲にして周り迷惑をかけている状態です。
職人目線ではどうでしょうか。
私は喜美子の気持ちが分かります。
一つの事に情熱を持ち続け、へこたれずにトライしていく・・・
陶芸の事は門外漢ですが、2~3度の失敗は職人仕事なら当たり前のことです。
職人は、失敗を繰り返し、恥を多くかくことで上達していきます。
それには、その道一筋、わき目も触れずに立ち向かう時期が必要です。
1級2級を問わず、技能士資格を得たからそれでよいとするのは、その程度の職人で、その程度の仕事をして、その程度の商品をお客様に渡します。
より良きモノ、さらに良きモノを追求する姿勢を持つのが、本当の職人であり、失敗や恥を逆に力とするのが本物であります。
似非職人や職人ぶる作家気取りを目や耳にしますが、全て自分に向いておられる方、次元の低い自己満足と言えるのではないでしょうか。
また、それを客寄せ材料にしておられる方には、喜美子の気持ちは理解できないかなと思います。
内から溢れて来る「陶芸が大好きだ!その色を出したい。」とする声に耳を傾けるか、平々凡々を装い自分を騙して生きるかの違いだと思います。

posted: 2020年 1月 30日

掌中ノ天

かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す
【作者】正木ゆう子


昨夜、「掌中ノ天」(作 奥山景布子)を読了しました。
伊勢根付職人の正直の弟子となり、土産物屋に置いてもらっていた栗の根付が売れ出した。
しかし、木の子の根付は一向に売れない。
何故かを考えても分からないとき、師匠が木の子を全て引き上げて来た。
その件(くだり)が素晴らしい。
師の正直の言葉を一部を繋げてご紹介します。
・・・物を作っているとね。ついつい自分が自分が、って思ってしまう。技があがればひけらかしたくもなる。ただそういう邪念は、できあがった物にはいってしまうんだ・・・
・・・わしらは職人だ。良い物を作るために技を磨く。それは当たり前だけれど、技は己を誇るために使っちゃいけない。物を持つ人の身になって考えることだ。よく言ってる、本物をそっくりに写し取るだけではだめだって言うのも、そういうことなんだ・・・

そして、今日の連続テレビ小説『スカーレット』のある場面に続く・・・
喜美子が息子の武志に言われる・・・
武志「形はできたから、後は釉薬やな。」
喜美子「それが難しいねん。」
武志「それやったら、お父ちゃんに聞いたらええやん。」
喜美子・・・
武志「同じ、陶芸家で仲良しやん。」
喜美子・・・
武志「仲良しとちゃうのん?」
喜美子「仲良しやけれど、お父ちゃんとお母ちゃんは違う人間やねん。お父ちゃんの作品とお母ちゃんの作品は、違うねん。」
武志「何となく、わかった。」

何故、「掌中ノ天」とつながっているのかは、職人さんなら誰にでもわかることかも知れません。
機械的に同じものを作るのではなく、自分の物作りへの姿勢や思想、コンセプトが表れるのが、職人の手仕事です。
だから、消費者と呼ばれるお客様は、お客様であるのと同時に鑑賞者なのです。
共鳴と共感のできないものは、誰かの模倣であり、それは見る人には、必ず伝わるということです。

そして、職人は巻頭の鷹のように飼殺されれば、それでお終いです。
自分が自分がではなく、職人としての気持ちを大切に自らを発信していきましょう。

posted: 2020年 1月 21日

素晴らしい作品とは?

何もなし机上大寒来てゐたり
【作者】斎藤梅子

景気が良くない印章業界ですが、それでも技術習得のために集う受講生は多く、大印会館5階の教室を満杯としていました。
物作りを通じて、人の暮らしに寄り添い、さらには人の心を動かす物を作ることが出来る人を職人と言います。
連続テレビ小説『スカーレット』のなかで、作品作りに行き詰った八郎さんは、ぽつりとつぶやきます。
「素晴らしい作品ってなんやろ・・・」
その答えを弟子の三津は、
「素晴らしい作品は、売れる作品です。」
と答えます。
おそらく正解なのでしょう。
いくら素晴らしい作品でも自分のモノであり、床の間に飾っていたのでは、職人として食べていけません。
だけれど、それは結果です。
売れる作品を目指したのでは、売れる作品にならないのです。
人の心を動かせる作品を職人は目指すべきだと思います。
物を作る事を通じて、人の心に触れる、そういう気持ちが職人に無ければ技は宙を巡るだけです。

写真は、ブログ友達の伊勢根付職人の梶浦明日香さんにご紹介いただいた小説です。
江戸の世で仕事に生きるおんな職人の生き方がちりばめられています。
伊勢根付のお話は、奥山景布子さんの「掌中ノ天」というお話にあります。
現在の職人が江戸期の職人から学ばなければならないのは、その技ばかりか、技の意味やそれを通して人とつながる心と心だと、読み進め乍ら考えています。

posted: 2020年 1月 20日

赤い丸に赤い文字

冬眠すわれら千の眼球売り払い
【作者】中谷寛章

世の暮らしの在り方は、時代の在り方や人々の思考により変化していきます。
その変化に応じて、暮らしの在り方が変化していくとも言えるのかもしれません。
いろいろな暮らしの在り方があり、変化した暮らしの在り方があり、しかし変わらぬ暮らしもあり、でもそれは少数になると、暮らしに寄り添う物の在り方も変化してきます。
無くなる物もあります。
物の在り方が変化するということは、それを作る職人の在り方も変化するのです。
無くなる職や職人もあります。

着物好きな方も多くおられると思いますが、江戸時代や明治時代のように、着物が日常不可欠の衣ではなくなり、洋服がその多くの位置を占める現在、成人式や結婚式のような「ハレの日」に着るということがあっても、「ケの日」には身に着けないのが日常となっています。
しかし、その着物の文様や柄は、「和柄」「和文様」という形で、我々の身の回りに多く見られます。
それを着物の文様と認識できるのは、着物の文化がつくってきた日常性(ケの文化)が、私達に浸透しているからだと思います。

赤い丸に赤い文字が、書いてあれば、それを印影(はんこの押し型)だと誰もが思います。
ましてや、篆書体で示されていれば、実印だとか銀行印だと考えます。


篆刻芸術の作品とは、また違った感性で、芸術とかそういうことではなく、「はんこだ!」と認識できるということは、着物の文様に通じるところがあると思います。
それがいくら赤い丸のなかに着物の赤い文様を施したとすれば、それは「はんこ」ではなく、着物だと思うし、他の絵であれば、それは絵を思い起こしてしまいます。
印章を残すためには、絵や文様をいくら細かく上手く彫っても残らないということです。
文字である、実用であったという実績が、その印影を「はんこ」として残し得るのだと思います。
そこには、名も無き千の眼球(多くの職人の魂)が作用し、我々に示唆しているという事を、最後の灯火となるであろう印章彫刻職人は、肝に据えるべきだと私は思います。
そして、パソコンフォントでは表し得ない唯一無二の印影づくりの技術を更に精進努力して良いモノに高めていくよう心掛けるべきかなと、生意気なことを言うようですが、生き残るべき指標として、ご提言させて頂きます。
印章が冬眠した時のために、この文章は是非覚えておいてください。

posted: 2020年 1月 17日

縦の糸は私 横の糸も私

・・・
縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない
・・・
【作者】中島みゆき

連続テレビ小説『スカーレット』のお話から・・・
三津を弟子に取ることになった八郎さんと喜美子の間に、職人としての違いが生じ始めました。
「新しいものを取り入れて進んでいく為には、古いモノは壊さなあかん」という喜美子に対して、作陶している地から取れた土や物にこだわる八郎さん。
八郎「違うんや!喜美子と僕は人間が違うんや」・・・

職人視点で、二つの事が言えると思います。
一つは、職人は各々の違いを認めて容認することが、めちゃくちゃ下手くそです。
それぞれの思考を否定してしまいがちです。
ですので、同じモノづくりの同じ職でも、それぞれの考え方の違いで流派や好みが違ってきます。
もうひとつは、職人は自分中心だということです。
自らの世界観があります。
先に挙げた中島みゆきさんの「糸」という歌詞
縦の糸はあなた 横の糸は私・・・ですが、
職人の場合は、チト違います。
縦の糸は私 横の糸も私
織りなす布は、すべて私でなければ、作品は完成しないのです。
そこに他人が入る余地はなく、仕事においては譲れないものを持っているのが、それが職人であるともいえるのかもしれません。

ましてや、八郎と喜美子の場合は職人同士です。
仕事に夫婦間の影響がでると、たぶん衝突の繰り返しだろうと思います。
他人だから我慢できるのです。
他人でも仲間内なら、自分の主張を押し付けられると、職人同士での喧嘩が起きます。
さあ、これからの展開が楽しみですね。

posted: 2020年 1月 10日

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