民藝と印章

【 民藝と印章 】

 

「民藝と印章」について書いて行きたいと思います。そもそも印章は、柳宗悦の時代には民藝として姿をあらわしませんでした。柳の時代には、印章は書の一環としての篆刻芸術という地位にありましたし、それを作品に捺して名を残すことを民藝は嫌っていました。また、1937年に発表された柳の『書論』の中に、重要印章に使用される「篆書」という書体について次のように記しています。「文字らしい文字は周篆から始まる。二千五百年の古(いにし)え、実に孔夫子が書かれた文字も此の篆書であった。そう考えるとかかる古体も仮初には想えぬ。書の長い歴史はそこから発した。併しいつしか死書となって時を経ること既に久しい。今では僅かに印章等に名残を止めるに過ぎない。」と「死書」とまで断言しています。使用されているのは「印章」くらいだということのようです。そんな「印章」を民藝とするはずはなかったのだと理解できます。また、次のようにも記しています。「篆書は書としては若く、従って未だ充分な美しさに熟してはおらぬ。」と「若い書」としています。何故、歴史的に一番古い書体の篆書を「若い書」としたのかは、「書の美」について書かれている項を見ると理解できます。柳は、書の美しさを工藝の見方から規定していたのです。次のように書かれています。「・・・美しい書はどこか個人の性を超える。そうしてどこか模様の性質を帯びる。裏から云えば個人の出たものは美しさに徹することが出来ぬ。模様に熟さぬものは美しさを尽くすことが出来ぬ。」

 

 

しかし、印章は柳の時代から100年の時を経過しています。印章史からすると短い期間ではありますが、印章は私印というカテゴリよりも、さらに民に降りていき、そのなかで「篆書」が書の域を離れ、工藝の域である模様化に変化していったと私は考えます。

何故なら書は歴史に制約を受ける作品であります。印章は、民の名を刻す工藝なのです。民の名は漢字とは言えない文字もあり、書の世界に入れません。それを模様化して篆書の持つデザイン性の豊かさを取り入れてきたのが現在の印章であります。そこに活路はあると思うのですが、そこに従事する印章業者のほとんどの方はこれを工藝であるとは認識しておりません。山梨と東京は、伝統工芸として登録されていますが、伝統工芸士でないとそれを名乗れないという制約を有していて、民藝ではこれを非常に嫌います。それは制度上の「工芸」であり、個々の工人が認識して製作に臨むための工藝ではありません。以前にもお話しましたが、印章技術講習会で「印章は工藝である」というお話をしていて、講習生と講師に尋ねました。「みなさんが、毎日製作している実印や銀行印、認印は、工藝だと思う人?」・・・どなたも手を上げられませんでした。ここから変えていかないと、消費者には到底、「印章は工藝である」とは思っていただけないだろうな。これは大変だ!私だけではとても出来なことだ、業界組織は技能検定廃止後の受け皿として伝統工芸の方向を模索しているが、あくまでも制度としての後押しであり、全国的には不可能に近い状況です。そこをどうこうするのは無理だと考えました。そこで新業態をつくり、印章の持つ工藝的要素を私から発信していきたと考えた次第です。それが「OSHIDE」です。これに止まらず、更なる展開を考えています。

「OSHIDE」のサイトは、こちらから↓

https://oshide-gift.studio.site/

 

posted: 2026年 10月 3日

第一に愛、第二に技術。

第一に愛、第二に技術。

by建築家アントニ・ガウディ

 

サグラダ・ファミリアの主塔完成記念式典で、夜空に没後100年のガウディの自画像と彼の言葉を作り出すドローンでの演出を今朝のテレビニュースで見ました。その言葉を検索してみると「物事を上手くやるために必要なこと。第一に愛、第二に技術。」とあります。

 

日本の印章業(印鑑屋さん)の起こりは、(公社)全日本印章業協会の『印章教科書』によりますと、次のように記載されています。

「この頃(戦国時代から安土桃山時代)、実名印(後の実印)が商人の間で使用されるようになり、これに伴って、専門の印判師が出るようになりました。秀吉が3人の板版師を選んで、印判師になるように命じ、細字の姓を与えました。これが後の印章業者の元祖となり、京都、金沢には、現在その子孫が残っています。」とあります。

細かいところに異論もあるでしょうが、大まかにはそういうことだと私も思います。それから延々と今日まで続いてきているのが印章業であります。何故続いて来たのか、世界で唯一の印章制度とそれにまつわる法律があるからだと考えられます。しかしながら、そういうことにのみに依拠していると、社会に制度的変更やそれに伴う押印機会の減少が、印章の価値を低下させてしまいます。その時が今で、そう言う状況下で、「ハンコは本人の意思を確認するための強力なツールとして法的に認められている」という正論(上から目線)ばかりを述べていても、社会から受け入れられるとは到底思えないのです。現に需要が減り、印鑑屋さんが減ってきています。どうにかしないといけない状態です。明治の「廃刀令」で召し上げられた刀は、その後に美術刀剣としての位置を確立して現存しています。令和の「廃印令」により生じてきている印章を取り巻く環境悪化は、このままでは今の刀にもなり得ない、価値低下の進行をくいとどめないといけないと考えています。今の需要は、先輩方がつくりだしてくれた余波であります。今年の急速な需要減をみていても、5年後、10年後、どのようになっていくかは、却って消費者の方かよく知っているのかもしれません。

 

 

ガウディは第一に技術とか経営とか、組織論ということではなく、第一に愛といっています。愛という根本思想があれば、その他は後からついてくると思います。敢えて第二に技術を上げているのは、それを疎かにしてマーケティングだの経営論だのと息巻いても、継承なき技術は、もう元の技術ではなく、本質から外れた在り方しか提示できないモノになっているからということを、この間、いやというほど見てきました。しかし、そんなことよりも愛が第一なのだということが、私も今頃になってガウディに共感できるようになったのは、新商品である『OSHIDE』の企画立案をさせて頂き始めてからです。印章において「愛」は「約束」であります。いろんな人の愛にもお世話になり、神様からの愛にもお世話になり、さあ!忙しくなり始めました。みなさん、よろしくお願い申し上げます。

posted: 2026年 6月 11日

「OSHIDE」の思想を残すために

柘駒を使った新商品「OSHIDE」のパッケージの相談に村上紙器さんへ行ってきました。「OSHIDE」について説明お話していくなかで、もう少しきちんとお話できる内容に高めておかなければということを感じましたので、少し文章化しておきたくキーボードをたたいています。

先日、ナンシー関さんの消しゴム版画を「消しゴムはんこ」という表現をしている新聞記事についてご紹介しましたが、お亡くなりになられて24年になります。彼女は消しゴムはんこ作家ではなく、版画家でありコラムニストであります。

版画の素材が消しゴムなので、消しゴムはんことはこれ如何にですが、わずか24年の間に消しゴム版画家としてのナンシー関さんの仕事と生き方の本質が変えられてしまいました。「版画」を「はんこ」に変えただけなのです。

印章が中国からの伝来であるということは、だれも疑うものではありません。金印に始まり、律令制度とともに始まった印章制度は、現存する養老公式令文により具体的資料の存在をもって日本印章史は始まっています。それ以前は資料の不在とともに歴史がないのも同然なのですが、何も土壌がないところに印章制度が受け入れられるはずもなく、不確かなものとして日本書紀「きのおしで」や神様「おしでのおおかみ(印璽大神)」として音で存在している「お・し・で」がどのようなモノでどのような形で行われていたことなのかを知ることはできません。しかし和訓としての音は残っているのです。それが「OSHIDE」であることはハッキリしている事実なのです。ここからは、私の想像なのですが、それはナンシー関さんの版画をはんこというくらい、似て非なる物であったと思います。日本の印章の専門誌などには、「おして」や「しるし」という表現であったり、それは掌(てのひら)に朱肉など(その時代に朱肉があったのか?)をつけて、べったりとおしたものという表現がされているものもありますが、何ら根拠がないことです。しかし、和訓の「OSHIDE」という音は存在していて、印章以前の印章の在り方だと言われています。

そこには、おそらく神と人との「約束」があり、それが人と人との「約束」を具体的に示す手段であったろうとの推測を私はしています。それは全ての工藝的なモノに共通することであるということが、工藝を勉強していくと見いだせることです。そして、そういう「OSHIDE」という土壌があったから、大陸からの印章やその制度を受容できたのが我々の祖先であったのです。「OSHIDE」と印章は少し違います。「OSHIDE」は制度に基づかないものであり、それ自身が「約束」という言葉の代替をはたしていたのです。大陸からの印章は、律令制に付属した印章制度に依拠したもので、印章制度が無くなると消滅するものです。ですので、現在の中国には実用の印章は見当たりません。印章から遊離していった篆刻芸術は文化として存在していますが、印章制度のない中国には実用の印章は無くなってしまったのです。

今の日本は、印章の制度をなくそうとしています。正確にいうと印章制度を形骸化しようとしています。印章制度に依拠している印章は、それと共になくなりつつありますが、長年、少なくとも木口彫刻技術が民間の間で「約束」を基軸においた道具を作られてきた技術としての在り方が、「OSHIDE」の本質を貫いてきたのです。その技術は「OSHIDE」という思想と共に残す価値のあるものだと強く感じているので、新商品名を「OSHIDE」と名付けて世に問うていきたいと考えています。「印章」や「はんこ」、「印鑑」という名称で「OSHIDE」の本質を伝えていない制度のみに依拠して存在しているオチャラケ品は淘汰されていくのが自然の理であると私は思いますし、そういう時代にいよいよ突入したという実感があります。印章技術者は、工人としての自己の在り方をしっかりと見つめ工藝として印章を位置づけたブランディングが求められています。その技術者もこれからの厳しい印章をめぐる環境のなかで、おそらく自然淘汰されていくものだと、最後に予言して長文を締めくくります。

 

 

印章彫刻において、「デザイン」という言葉はあまり使いません。印面デザインとかレイアウトという言葉を私が使うのは、消費者に分かりやすく説明したかったので、出来るだけ専門用語を使わないで印章の要は、印面のデザインであり、それを駆使することにより生まれる美の在る印章が良き印章であるということを知って頂きたいためであります。

最近、印章彫刻の職人や技能士と呼ばれる人のものよりデザイナーのハンコを良しとする風潮があるように感じています。デザイン業界の、たとえばグラフィックデザイナーがパソコンを利用して製作した印面デザインが、今までの伝統的ではあるが古く見慣れたものより、印章として見たことのない文字デザインや今までにない形状、規範を無視したレイアウト方法が市場に紹介されています。良し悪しは置いておいたとしても、少なくともそれは「OSHIDE」という印章の根幹をなす思想とは結びついていないということは言えるのではないだろうか。「OSHIDE」と印章は少し違うというお話をしましたが、大陸から伝来した中央集権的な政治制度のなかに内包された印章制度に依拠してきた印章ではありますが、400年くらい前の織豊時代からの木口彫刻の技術は、それ以降の社会と民のなかで鍛え上げられた工藝としての在り方を多く含み、社会的接点を多く持ったものとして今日に至っています。

その彫刻方法は、他の工藝と同様にデザインありきではなく、彫刻優先型のデザイン(彫刻の後に示されたデザイン)でありました。

それというのも、書や紙に描いたデザイン、今でいうパソコン画面のデザインではなく、印刀によるデザインであります。

その印刀は、基底刀と呼ばれるもので、通常の和的な彫刻刀とは随分と仕組みも彫刻方法も違います。その事は以前にもお話しましたので、ここでは述べません。

その印刀の基底の幅は1号刀と呼ばれる極細の幅から5号刀、6号刀とその幅を大きくしていきます。

印章に使われる文字、篆書はご存じのようにクネクネと画数が多く、縦横の文字線の間隔の数字で一つの文字が構成されます。その間隔のことを書の言葉を用いて分間といいます。この分間が如何に等しく、見ている者の目に飛び込んでくるかによりその印章の良し悪しがきまっていきます。文字線よりも空間が美を決めていきます。それを覚えていくのに、前述の印刀の幅の違いが職人の腕に自然に染み込んでいくのです。それは先人からの教えを受け継ぐという結論に達します。先人の思いは「OSHIDE」としての「約束」を重んじる道具をきちんと表現する(彫刻する)ということにつながっているのです。印刀がバトンとなり、繋がって今日の印章彫刻技術と職人を作っているといっても過言ではないのです。

そのバトン無きデザインは、印章ではないということで、ましてや「OSHIDE」では決してないということなのです。

工藝のデザインとして有名な芹沢銈介や柚木沙弥郎」のデザインは染色という仕事の結論としてのデザインであり、その仕事の中に柳宗悦の民藝という思想が乗っかり、さらに良きデザインに、我々を魅了してくれるのであります。

何処かから湧いて来たデザインが印章や染色に乗っかっても、それは本物ではないということです。

posted: 2026年 6月 6日

生業が無くなるような日本文化ならいらない

二十年前に5部初めで止まっていた流転の海シリーズを9部までを読了した。

約一月半くらいで5冊を読んだので、今少し松坂熊吾ロス状態であります。

第4部で、熊吾が一番頭をさげたくない相手である海老原太一に名刀・関の孫六兼元を買い取ってもらい、それが第9部で再び熊吾にもどってきた。・・・「ああ、関孫六兼元。もうわしのところに舞い戻ってくることはないじゃろう。どんな人のもとに行ったのかのお。あの名刀は人助けをする業物じゃ。わしらは二回助けて貰うた」・・・

その関孫六兼元という名刀を輩出した関の刃物産業の実情が、毎本日付の毎日聞のトップ記事として大きな見出しに目を奪われました。堺や越前のそれと違い、関には伝統工芸士が一人もいなく、大量生産の工業化の道を選んできた関の刃物職人はピラミッド構造の最下層の替えが利く「一業者」として扱われるようになっていました。

1インチを研削する単価は3~4円で、一日10時間働いても2万円で、日当は1万円、年間300日働いても生活は苦しいようです。それへの挑戦を刃物職人・横山浩充さんが「技術に対してお金を出せない業界ならもうやめる」とやめる覚悟で「関の異端児」と呼ばれようが奮闘した様子が記事にされていた。「僕らが価格決定権を持てるようになり、見せ方と伝え方を工夫する。価値のあるものと受け止められれば、必要なところに必要なコストを投じることができる」と刃物職人の待遇改善や後継者育成につながることと信じていると記事は結ばれていました。

うちの業界とまた少し違った問題に臨まれていると思いますが、業界の異端児とされ、いろんなことに挑戦されているのは私と似たところがあるかなと思います。儲からなければ業は滅びます。刃物が日本文化であり、印章もそうだとしても、それを営む生業が無くなるような日本文化ならいらないと私も思います。

 

土曜日の午後から店を閉めて輪島の塗師・赤木明登さんのトークを聴きに、阪急の「日本の漆」というイベント会場へ行ってきました。会場の最前列で聞いていると、「三田村さんの印章でも」というお話を頂き驚きました。赤木さんいわく、漆椀は「神人共食」の器であり、印章も神との約束の道具であるとおっしゃっていただいたのには、とても勇気づけられました。

赤木さんの工房が参加している阪急うめだ9階ギャラリーは、明日18日(月)まで展示販売されています。漆に触れてそのぬくもりを感じて下さい。

posted: 2026年 5月 17日

【 伝えなければならぬ二つのこと 】②

【 伝えなければならぬ二つのこと 】

 

伝えなければならぬ二つのことの一つとして挙げさせて頂いた「OSHIDE」のキーワードは、「約束」です。印章をどんどんと広義に解釈していくと、stamp的な要素にまで拡大していきます。技能の側面からは、手で行う仕事という観点から手彫りゴム印も印章部門となりますが、使用者サイドから見ると、それはstampであります。Sealとしての側面でも解釈がいろいろありますが、大陸からの制度的な文化としての印章は、個人の意思確認や所有の証明などとなります。それが伝来してきた以前の日本の「OSHIDE」、主に縄文の意識は、おそらく「約束」なのです。「約束」は、これも広義に解釈すると先の個人の意思確認や所有の証明も含まれます。契約なども「約束」の一部となります。そういうところを大切にしているのが「OSHIDE」であり、後世に伝えなければならないことであると考えています。

 

 

もう一つの伝えなければならぬことは、令和の廃印令までの400年以上にわたり継承されてきた印章木口彫刻技術です。これをきちんと工藝として位置づけること、それが二つ目に大切なことだと考えています。

印章自体が日本に姿を見せたのが大陸からの金印です。それからはるか先に大宝律令が701年に制定され、時を同じくして印制が始まりました。それらのほとんどが鋳造印で、現在の印章彫刻技術とは違った技術となります。印制導入以前から印の導入が行われ始め、国土統治の一翼を担ってきました。それから時はまた経ち、室町後半から戦国時代、織豊時代と呼ばれる頃に、印章の制度的充実のために、技術開発が行われたようで、それが印章店(印章業)の始まりとなりました。その技術は徒弟制度をもとに普及され、その後の印章需要に対応出来る量質ともに向上してきました。今やそれらが量質ともに低下を始めています。理由はいろいろありますが、ここでは控えさせて頂きます。しかしながら、400年もの長きにわたり培われてきた技術であり、とりわけ戦後から高度成長期に業界で発展してきた職人の技を提示してきた展覧会や競技会での作品は、業界の技術の発展に寄与しただけではなく、社会的な宝であるとさえ感じています。それが、印章の社会的在り方の変化により、ともに消えてしまうことには、今まで向上に寄与してきた先生・先輩方の苦労が水の泡となっていくことだろうと、残念でなりません。

 

 

そこで、この二つを伝える柱にして、今まで進めてきた①煕菴の遊印②姿の美しい印章「捺捺捺」③HANKO KIANと共に事業の一形態として「OSIDE」を新規事業として、みなさまにご提案していきたいと考えております。

何卒よろしくお願い申し上げます。

posted: 2026年 5月 11日

【伝えなければならぬ二つのこと】

今まで、「おしで」をアルファベット表記にするのに、「OSIDE」として来ました。70年ぶりに文化庁がヘボン式に変更されたことを鑑み、「OSHIDE」と改めさせて頂きます。

印章がその根本精神であるsealとしての在り方を後世に継承していくためには、大切なことが二つあると考えています。

その一つが、「OSHIDE」であります。何故、「おしで」や「オシデ」「ヲシデ」としないか、また漢字で「印璽」として「おしで」と読ませないか・・・ここが大変重要なことです。日本に印章らしきものが大陸からもたらされたのは、弥生時代の金印で、それは決して印章文化や印章独自の在り方ではなく、大いに権力と結びついていた大陸からの政治制度に帰属していたと言えます。いわゆる統治するためのツールであったことに間違いがありません。大陸においても、王朝の出現と同じくして印が出現し、殷墟からはそれらが発掘されました。その在り方を日本の支配者が真似ようとしたのは当然のことであります。仏教の伝来などとも相まって、奈良時代には印制が律令制度と共に確立していった。

Instagramで拝見したのですが、縄文時代から続いていた勾玉などの翡翠文化が奈良時代にきれいさっぱりと見られなくなったらしい。大陸の影響は大きく社会の在り方や生活環境、文化に到るまで激変させていったのだろうと推測できます。戦後にもたらされたアメリカの生活様式に影響されて、高度成長の頃に定着したアメリカ文化への憧れが、当時の日本の貴族たちにもあったのだろうと思われます。

「OSHIDE」は音しかなく文字が無かった時代からある「約束」を代弁する何かであったのだろうと思います。当時の自然神や崇める何か神のようなものへの「約束」から人と人との「約束」に転化していったのが、その後日本書紀にしかあらわれない言葉の「おしで」であろうと思います。そして、その後一切姿をみせなくなりました。文字にするより音で表現したいので、表音文字であるアルファベットで示すこととしました。

 

 

継承のためのもう一つは、現在の印章の彫刻技術(木口彫刻)をきちんと工藝として位置づけることです。

長くなりましたので、この説明は次回にいたしますが、「OSHIDE」とは大いに関連してくることですので、くどい説明になるかも知れませんがお許しください。

posted: 2026年 5月 10日

仕上げ刀と共に

大丈夫づくめの話亀が鳴く

【作者】永井龍男

 

 

先延ばしにしていた事項を昨日片づけました。

仕上げ刀(判差)の柄を外して、柄から先の部分を長くとるという作業をしました。本来、とても面倒くさがり屋の私です。しかし、柄から先の部分が短くなりすぎると砥ぎの作業がやりにくく、そう効率的ではありませんので、重い腰を上げました。合理的かつ効率的な在り方が時短であり生産性優先の在り方だとすると、職人の作業は非効率的なのかもしれませんが、柄から刃先までの距離を自分のスタンスできちんととるのは、仕上げ刀を砥ぎやすくするためです。それは仕事を早くするためというよりは、切れる仕上げ刀をつくって仕事に向かい、良き仕事をするということにつながる効率であります。効率的な作業ということと、効率的な仕事はそれを捉える視点が違うのです。

刀身から柄を外して気が付いたのですが、鋼が付いている部分が短くなってきています。

 

 

刃付けをすることができるのが、言い換えれば、この仕上げ刀で仕事ができるのが、後10年くらいかなと思います。仕事量の減少から考えると、プラス3年くらい追加されるかもしれませんが、75歳を最終地点で考えると、後9年の仕事となりますので、この仕上げ刀を大切に使おうと思いました。この仕上げ刀は、東村山の名工の作で、当時一振り1万5千円でした。2万円のものも持っているのですが、どうも今のものと相性がよく、それを使い続けています。

作業のついでに、刃付け角度を変えました。荒砥から砥ぎ直すと、名工の作は硬さが違うのが手にひしひしと伝わってきて、半日仕事となりました。良き仕上げ刀となり、印面に向かう愉しみがまた一つ増えました。

 

 

posted: 2026年 2月 18日

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