強い工芸的な意思・・・その3
かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す
【作者】正木ゆう子
先日、店の看板を貼り替えました。
この地に来てから2回目の貼り替えです。
一度目は、屋号や電話番号という情報だけでなく、ネットショップを始めましたとかブログやFacebookをしていますという情報を付け加えるためでした。
その後、楽天市場から離れ、自店のショップをネットに立ちあげましたが、看板まで新しくする余裕がなく、そのままにしていました。
自店ショップを立ち上げた時に、お店のコンセプトを明確にしました。
それは、「三田村印章店は印章をきちんとデザインする印章店である」という事でした。
一般の消費者からすると、印章は既製の認印以外は、オーダー品であるという事は理解されていても、或いは彫刻すると理解されていても、それをデザインするということは、新しい事実としての発見につながるものでした。
お蔭様で、そのコンセプト(仕事の思想や哲学と言ってもいいかな)を大切にしてきましたので、三田村印章店のネットショップを見て来られるお客様が増えてきました。
確かに押しつけでは、消費者は逃げていくかもしれませんし、このコンセプトを嫌がられる人もいるかもしれませんが、私は共鳴共感してくださる私のお客様を大切にしていきたいと今も強く思っています。
コロナ禍で、自分の仕事が工芸的であると強く感じ、工芸という在り方を潰すような発信には異議を唱えます。
それは、自分の仕事を守るためです。
また、印章を技術として捉えてきた今までの自分の歩みから振り返っても、その在り方、印章の本義を踏みにじるような在り方が広まり、一昨年の政府の「押印廃止」へと繋がっていったと考えるからです。
もう工芸の分野では、それは行わせないという「強い工芸的な意思」がはたらいていることをご理解頂ければと存じます。
新しい看板には、「姿のうつくしい印章—-Designed & Crafted」を表示させて頂きました。
posted: 2022年 1月 22日強い工芸的な意思・・・その2
マスクして我と汝でありしかな
【作者】高浜虚子
昨日、「強い工芸的な意思」という言葉を使いました。
技術を黙々と習っていた時には、あまり意識しなかったのですが、印章を製作して販売するということは、とても工芸的かなと思うようになりました。
コロナ禍がそう思わせたのか、印章を取り巻く環境の変化がそう思わせるようになったのか、それはどちらでもあろうと振り返ります。
ポイントは、製作して販売するというところなのです。
製作と販売、どちらが抜けても工芸的でなくなります。
製作や技術を延長して行けば、芸術に至ります。
販売のみを通せば、印章が売れなくなると、印章には文字を彫刻するので、文字ビジネスやそれに付随する加工ビジネスへと延伸してしまう。
印章という概念を大きく逸脱して、商業主義に陥ってしまうという事です。
最近の宣伝文句に「〇×伝統工芸印章」というキャッチコピーを見ました。
いじわるを言うようなのかも知れませんが、伝統工芸という側面もあり、同じ商品で「開運〇×印鑑」という側面もあるとするなら、何を売りたいのだろうと邪推してしまいます。
工芸的とは、売りたい内容、商品の内容が「真善美」に結びついているものであることと私は思います。
ある商品のいろんな側面から宣伝するのは、それはもう工芸ではないのでは・・・。
手を動かすことは、作業です。
工芸において、手が携わっている事はとても重要な事だと思います。
しかし、それだけではなく、一番肝心なことはどのような物を作るか・・・印章においては、何を彫るのかということです。
だから、手で彫っているという様子が工芸なのではなく、商品としてお客様より提示された名前や社名、団体名をどうすれば美しく健全に布字配文(レイアウト)できるのかを熟考することが、その過程が工芸的でなければならないということで、それが実用印章という工芸品にとって一番肝要なことです。
ですので、彫り方ではなく「工芸としての意志」を繋げていかないと印章は滅んでしまうのです。
おそらく我と汝は違うのでありましょう。
我と汝はマスクをして、訣別しなければならないのでありましょう。
posted: 2022年 1月 19日
強い工芸的な意思
缶コーヒー膝にはさんで山眠る
【作者】津田このみ
漫画家の水島新司さんの訃報を伝えるニュースを目にしました。
「ドカベン」や「野球狂の詩」、「あぶさん」というよりも、野球に興味がない私でも子供の頃夢中になった「男どアホウ甲子園」のストレートしか投げない剛腕投手、藤村甲子園を思い出します。
昨年より昭和の歴史をつくってきた人々の訃報を多く耳にするようになりました。
先日の技術講習会でも、コロナ禍で伝わり方が遅いのかどうかはわかりませんが、えっ!あのお方がという人の訃報を耳にしました。
組合を離れた人の訃報は、中々伝わってこない・・・。
平成と言う時代もありましたが、昭和に生きた人々の力強さを感じる今日この頃で、私にはとても真似できないなぁと痛感するようになりました。
職人生命の限られた残りの期間で、私に出来る事は何だろうかと考えるようになりました。
やらなければならない事が多くありますが、それを一つ一つ整理しながら進みたい。
「お客様にきちんとした印章をお渡ししたい」という強い工芸的な意思に沿う事象かどうかをメルクマールにして、そうでないものは排除して、身につけなければならないモノを取り入れることに懸命になりたい。
水島新司さんのご冥福をお祈り申し上げますとともに、業界の先輩方へのご冥福も時間がたくさん過ぎてはいますが、この場をお借りしましてお祈り申し上げます。
posted: 2022年 1月 18日
あたりまえのありがたさ
初仕事コンクリートを叩き割り
【作者】辻田克巳
今日は仕事始(初仕事)です。
家族みんなで、ゆっくりとしたお正月を過ごさせて頂きました。
それが、「あたりまえ」なのです。
「あたりまえ」を維持するためには、時にはコンクリートをたたき割らねばならない事もあるかなとも思います。
一番ダメなのが、迎合です。
次には惰性です。
「あたりまえ」は革新性がなく、惰性のようにも聞こえるかもしれませんが。
「あたりまえ」なくして、革新はあり得ません。
印章においての「あたりまえ」は、誰に対してではなく、使用者その人の信を示せる道具であるという「あたりまえ」なのです。
そのためには、どのように彫刻するか以前の問題として、職人が何を彫るかということが語られないといけません。
どのように彫るかかとか、それに付随する付加価値とかよりも、何を彫るかが一番大切なのです。
たとえば、細密な文字が彫れるということが技術の最高なら、訂正印が一番価値があり、高価でなければなりません。
しかし、違いますね。
複雑な文様の彫刻できる事が最高技術なら、木口木版の方が細密な文様を表現していて、どこかのキャラクターを彫刻したものより、はるかに芸術的と言えます。
実用印章は、文字を彫るというより、人のお名前や団体や企業の名称を彫るということが肝心で、それなくしてあり得ないという事だと思います。
そこが篆刻芸術と言われているものとの大きな違いであるとも言えます。
その前提が、「あたりまえ」のように存在して、その「あたりまえ」を如何に使用者との共鳴に結び付けるか、それが印章業を営む我々の仕事ではないでしょうか。
コロナ以前の私は、印章業界の為に恩返しをすることが、今までの自分を育てて来てくれたご恩であり、後継にそれを繋ぐことが大切な事であると考えてきました。
それは少し違っていたと反省しています。
それのみに傾注すれば、迎合や惰性が発生して、自分の在り方を見失う処でした。
コンクリートを叩き割るという事ではありませんが、自分をさらに育て上げないと、印章への恩返しはありえないと思うようになり。
その場が、印章業界ではないというのが昨年の結論でありました。
今年は、それを旨に「あたりまえ」であることができるように、場を変えての活動を模索して行きたいと思います。
更に精進勉強していこうと考えています。
今年も印面に向かえる「あたりまえ」に感謝。
posted: 2022年 1月 5日来年もご贔屓に!
大晦日さだめなき世の定哉
【作者】井原西鶴
今日は大晦日。
なんやかんやがあった一年でした。
コロナ禍の社会環境が大きかったのでしょうが、自分の中にあったマイナス的な要素があぶり出された年でありました。
昨年の押印廃止に対する業界団体の態度は、そのポスターの文言から矛盾を感じ始め、「嫌なら、貼らなければよい」とするのも会員として理不尽な話だと考えていました。
技能検定の統廃合の話が出てきた時も、真剣に業界における技術の在り方を問題にするのではなく、制度存続のためのパフォーマンスのように感じた数字合わせ・・・これは残念なことに技能士の中にも多い考え方であった・・・また、我関せずの状態を多々見聞きする中で、何故統廃合のような状態になってしまったのかを考える根本がないと感じてきました。
そういう中で、民藝運動が100年続いてきて、その灯火が現在も受け継がれて来ている事に共感共鳴し、もの作りの在り方、自分の仕事の在り方のこれからが、少し見えてきた一年でありました。
来年も業界の方向とは、道を違えることになると思いますが、共通する技術という二文字のとこらへんは、堅持していきたいと考えています。
その他の事には、今度は私が我関せずを通したいと思います。
齢62は残りに向けた活動で、活動時間が限られているという事もあります。
とりわけ、現役で動き回れるのはそう長くはありませんし、業界の為に動くというより印章技術の為に動きたい。
その場を、業界団体中心から変えていきたいと考えています。
その為に、来年の技能検定対応で技能関連仕事の役割は終えたいし、大印展審査員やその裏方も来期からは外れさせて頂きます。
そう強く決意させた一年でありました。
そんな中、毎日印面に向かえるお仕事をくださいましたお客様、有難うございました。
技術を鍛え、さらにお客様に姿の美しい印章をご提供できるように精進努力いたします。
来年もご贔屓によろしくお願い申し上げます。
posted: 2021年 12月 31日技能士の責任に自覚を持つ
立ちどまり顔を上げたる冬至かな
【作者】草間時彦
技能検定合格に向けて、必死に奮闘されているみなさんには、お正月は試験終了後と思われている方が多いと思います。
それくらい技能検定の受験は大変で、死に物狂いにならないと合格できません。
経験されていない方にはなかなか分かりにくい事だとおもいますが、最近は嘗て受検された方もその時の思いを忘れている方やともすると、技能検定自体を小馬鹿にされている方の声も聞こえてきます。
技能士の資格にもっと自覚と責任を持つべきだと思っていた時に、昨夜テレビで看護師の戴帽式のニュースを見ました。
戴帽式は看護師の資格授与においてその責任を自覚させる大切な役割を担っていると言われていました。
はんこ屋、印章業の起源、名字帯刀、立行司という言葉を、携帯のメモに記録して、今日調べてみると、何と一昨年のブログに同じような内容を書いて、技能検定受検者を励ましていました。
そのままコピペして再度ご紹介しておきます。
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【技術と知識】
2月になりました。
明後日の2月3日は、印章彫刻木口作業の技能検定の全国統一学科試験の日です。
実技試験とともに学科試験に合格しなければ、いくら実技が満点でも技能検定の合格証書は頂けません。
はんこ屋職人は、ともすると字彫り職人であり、知識より経験、熟練の世界と思われがちであります。
しかし、きちんとしたはんこ屋さんは、印章についての知識や深い思考を持たれている方が多く、技能士の資格にも勿論それが要求されます。
ですので、モラルを守り世に一つだけの印章製作ができるのです。
実用印章を扱う印章業の起りについて、『印章教科書』(公益社団法人全日本印章業協会発行)では、次のように記載されています。
「この頃(戦国時代から安土桃山時代にかけて朱印が作られていた頃)、実名印(後の実印)が商人の間で使用されるようになり、これに伴って、専門の印判師ができるようになりました。秀吉が3人の板版師を選んで、印判師になるように命じ、細字の姓を与えました。これが後の印章業者の元祖となり、京都、金沢にはその子孫が残っています。」
江戸時代に入り、寛永元年に京都の印判師が江戸にくだり板木職と区分され幕府お抱えの御印判師としての看板を掲げ、帯刀を許された者もいたと言われています。
名字帯刀を許されたということでは、相撲の立行司もそうです。
権威のみならず、差し違えたら切腹するという意味で帯刀しているとのことですが、当時の印判師も権威を有していたのみならず、偽造をすれば切腹という意味もあったように思います。
元禄ごろになると、偽造を作るものも相当出てきており、幕府は元禄7年に印判をおした印影によって彫ったり、絵本のように綺麗に書いた模様のとおりに彫ってはいけないという法令を出しています。《『はん』(石井良助著)より》
今なら、フォント文字そのまま使用禁止、キャラクター印禁止と言うところでしょうか。
世間では、彫刻技術も知識もなく、フォントをそのまま使用して同型印の危険性ある商品を平気で販売している業者が多いなか、政治からは足もとをみられ、「とっくに厳格性が損なわれているはずの印鑑」と揶揄される印章不要論がニュースになり吹聴されています。
2月3日に技能検定の学科試験を受検される方は、合格するための知識としてだけに身に着けるのではなく、これを機会に印章から学び、先人の守ってきた規範とその想いにふれ、それを創造的に活かせるような技能士となっていただけるよう心より応援しております。
posted: 2019年 2月 1日
posted: 2021年 12月 22日練度と修錬
『 白露や 茨の針に ひとつづつ 』
【作者】正岡子規
昨日の”技能士の名が泣く前に!”というリブログにコメントを頂きました。
「いつも学ばせて頂きありがとうございます。私の仕事は職人とはかけ離れたものと思ってましたが意外にもそうではなく、部署の異動は定期的にあれど根本的には職人の本質と同じだと最近思えてきました。挫けそうになるときもありますが私も先生に負けぬ様に日々頑張ろうと思いますす、人間は今、俺が一番だと思った瞬間から堕落していきますので気を引き締めてやっていく所存です。」
私からの返信です。
「コメント有難うございます。
印章業界内にいると、このままでは・・・と思う事が多くなってきています。
とりわけ、昨年の「押印廃止」以降の業界の態度には、根本的に印章の本質を無視した論が、さも正論のように存在する様子には、継承現場や市場とのギャップを感じざるを得ません。
しかしながら、印章に罪はありません。
それどころか、認印一本が今まで果たしてきた役割には、社会への多大な貢献があったと思います。
それを無視した論や印章の技術部分を神棚にあげた論は、本当の意味での継承を途絶えさせることとなるでしょう。
印章技術はマニュアルや真似事で継承されるものではなく、トライを繰り返す練度と修錬で積み重ねられていくものです。
そういう意味で印章は工藝だという認識の下、それを探っていく為に、印章と先人たちの思いと相談しながら、気を引き締めて頑張る所存です。」