強い工芸的な意思・・・その6
ゆりかもめ消さうよ膝のラジカセを
【作者】佐藤映二
朝ドラ『カムカムエヴリバディ』・・・ジョーと京都で暮らす、るいから再び「あんこのおまじない」が聞けましたね。
小豆の声を聴けえ。時計に頼るな。目を離すな
何ゅうしてほしいか小豆が教えてくれる
食べる人の幸せそうな顔を思い浮かべえ
おいしゅうなれ。おいしゅうなれ。おいしゅうなれ
おいしゅうなれ。おいしゅうなれ
おいしゅうなれ。おいしゅうなれ
その気持ちが小豆に乗り移る。うんとおいしゅうなってくれる
甘えあんこが出来上がる
あんこをハンコに置き換えて
ハンコの声を聴けえ。パソコンやパソコンのフォントに頼るな。印面から目を離すな。
何ゅうしてほしいかハンコが教えてくれる
押捺する人の幸せそうな顔を思い浮かべえ
美しい印面になれ。美しい印面になれ。美しい印面になれ
その気持ちがハンコに乗り移る。うんと美しい印面になってくれる
美しいハンコが出来上がる
今日も印面に向かえることに感謝。
posted: 2022年 1月 26日
強い工芸的な意思・・・その5
NHKの民藝を特集された番組で、松本の「ちきりや工芸店」の店主インタビューで、共感するところがありました。
何回かお話しているかもしれませんが、アナウンサーが「お客様にどんなアドバイスをしますか?」という問いに、店主は「お客さまの直感で見て選んでいただきます。いろんな情報はいらないんです。お客様が良いと思われたものが良いのです。」と・・・。
その後、松本に立ち寄った時に、「ちきりや工芸店」と松本民藝館に行きました。
「美しいものが美しい」という丸山太郎の直筆の書には、その直観の大切さを教えてくれています。
「今初めて見る」という思いで向き合うこと。
偏見を持たず謙虚な姿勢で物事を受け入れること。
それが美しいもの、真なるものを見出す極意であると柳宗悦は『物偈』稿本に書いている。
と、「今見マセ イツ見ルモ」芹沢銈介が和紙に型染した作品の説明文にありました。
お客様が直観で使用者になる
製作者が違う次元から受け取った感覚を形にして使用者に繋ぐ
それが工芸ではないかなと、「強い工芸的な意思」という表現をしてみました。
少し分かりにくい説明でしたが、私も最近の境地ですので、追って説明出来ればなと思います。
私の3点の完成デザインもこれに起因していたんだなと思えるようになったのも最近のことです。
「美しいものが美しい」と発信するには、製作者のそれなりの覚悟がいるとも思います。
写真の立杭焼のコーヒー茶碗は、「ちきりや工芸店」にて直観で選んだものです。
今も愛用しております。
posted: 2022年 1月 25日強い工芸的な意思・・・その4
昨日は、早起きをして家内と一緒に菩提寺のお墓参りに行きました。
墓地の裏手は、高津神社の木が茂っていて、そこが鴉の寄り合い場所となっていました。
十羽以上の鴉の集団がカーカーとうるさい、まだ夜明け前で暗闇に近い空に黒い体が、「ここは自分たちの縄張りだぞ!」と飛び回っているようです。
それが嘗ての自分を見るようで、なんだか嫌な気分になりました。
それからすぐに仕事量調整のために職場に行こうと思っていたのですが、帰宅すると疲れて少し寝入ってしまい、職場についたのは11時くらいでした。
技術講習会や大印展準備、技能検定などの日曜日以外は、仕事量調整というか、仕事をする休日を多く過ごしてきました。
どうも元来の怠け者で、自分を律するには、自分なりの掟をもたないと、直ぐに自堕落になっていきます。
お客様に完成デザインのご提案を、個人印章は3点、法人印は2点をすると決めました。
鉛筆書きのラフなデザインではなく、完成品に近い状態まで手で書き上げ、赤コピーをし直して、お客様がイメージできるようにしてご提案する。
それは商売上云々ということではなく、自分を技術の場にきちんと据える、工芸的な自分であるためにそうしています。
完成デザインを3点、その人の情報からその人を頭に置き、篆書という印章文字を駆使していくことは、とても大変な事です。
すんなりと、布置配文(レイアウト)される場合もありますが、何日も頭の中をクルクルと文字が回り続ける時もあります。
そういう時は、どうしても仕事量調整をするために休日を使用しなければなりません。
齢62になると、他事が入ってくるととてもしんどくなってきました。
しかし、それを妥協するとダメになり、自分が工芸的でなくなることも自分はよくわかっています。
嘗て、少し怠けていたわけではありませんが、他所事が忙しくなり、考えが纏まらない時に、3点の内、1点だけ自分が満足するデザインにして、後の2点に力を入れなかった時があります。
何と、お客様が力足らずのデザインをお選びになられたのです。
そうすると、自分の中に悔いが残ります。
作製者に何らかの意図みたいなものがあったとしても、お客様は「直感」でお選びになります。
そこが大切で、芸術と実用が二分される理由なのです。
人が使用する物を、使用者をとおして工芸的な自分が作らせて頂いている。
使用者を通して、何か別の次元と繋がることが工芸であると強く思うようになりました。
今日も印面に向かえることに感謝。
posted: 2022年 1月 24日強い工芸的な意思・・・その3
かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す
【作者】正木ゆう子
先日、店の看板を貼り替えました。
この地に来てから2回目の貼り替えです。
一度目は、屋号や電話番号という情報だけでなく、ネットショップを始めましたとかブログやFacebookをしていますという情報を付け加えるためでした。
その後、楽天市場から離れ、自店のショップをネットに立ちあげましたが、看板まで新しくする余裕がなく、そのままにしていました。
自店ショップを立ち上げた時に、お店のコンセプトを明確にしました。
それは、「三田村印章店は印章をきちんとデザインする印章店である」という事でした。
一般の消費者からすると、印章は既製の認印以外は、オーダー品であるという事は理解されていても、或いは彫刻すると理解されていても、それをデザインするということは、新しい事実としての発見につながるものでした。
お蔭様で、そのコンセプト(仕事の思想や哲学と言ってもいいかな)を大切にしてきましたので、三田村印章店のネットショップを見て来られるお客様が増えてきました。
確かに押しつけでは、消費者は逃げていくかもしれませんし、このコンセプトを嫌がられる人もいるかもしれませんが、私は共鳴共感してくださる私のお客様を大切にしていきたいと今も強く思っています。
コロナ禍で、自分の仕事が工芸的であると強く感じ、工芸という在り方を潰すような発信には異議を唱えます。
それは、自分の仕事を守るためです。
また、印章を技術として捉えてきた今までの自分の歩みから振り返っても、その在り方、印章の本義を踏みにじるような在り方が広まり、一昨年の政府の「押印廃止」へと繋がっていったと考えるからです。
もう工芸の分野では、それは行わせないという「強い工芸的な意思」がはたらいていることをご理解頂ければと存じます。
新しい看板には、「姿のうつくしい印章—-Designed & Crafted」を表示させて頂きました。
posted: 2022年 1月 22日強い工芸的な意思・・・その2
マスクして我と汝でありしかな
【作者】高浜虚子
昨日、「強い工芸的な意思」という言葉を使いました。
技術を黙々と習っていた時には、あまり意識しなかったのですが、印章を製作して販売するということは、とても工芸的かなと思うようになりました。
コロナ禍がそう思わせたのか、印章を取り巻く環境の変化がそう思わせるようになったのか、それはどちらでもあろうと振り返ります。
ポイントは、製作して販売するというところなのです。
製作と販売、どちらが抜けても工芸的でなくなります。
製作や技術を延長して行けば、芸術に至ります。
販売のみを通せば、印章が売れなくなると、印章には文字を彫刻するので、文字ビジネスやそれに付随する加工ビジネスへと延伸してしまう。
印章という概念を大きく逸脱して、商業主義に陥ってしまうという事です。
最近の宣伝文句に「〇×伝統工芸印章」というキャッチコピーを見ました。
いじわるを言うようなのかも知れませんが、伝統工芸という側面もあり、同じ商品で「開運〇×印鑑」という側面もあるとするなら、何を売りたいのだろうと邪推してしまいます。
工芸的とは、売りたい内容、商品の内容が「真善美」に結びついているものであることと私は思います。
ある商品のいろんな側面から宣伝するのは、それはもう工芸ではないのでは・・・。
手を動かすことは、作業です。
工芸において、手が携わっている事はとても重要な事だと思います。
しかし、それだけではなく、一番肝心なことはどのような物を作るか・・・印章においては、何を彫るのかということです。
だから、手で彫っているという様子が工芸なのではなく、商品としてお客様より提示された名前や社名、団体名をどうすれば美しく健全に布字配文(レイアウト)できるのかを熟考することが、その過程が工芸的でなければならないということで、それが実用印章という工芸品にとって一番肝要なことです。
ですので、彫り方ではなく「工芸としての意志」を繋げていかないと印章は滅んでしまうのです。
おそらく我と汝は違うのでありましょう。
我と汝はマスクをして、訣別しなければならないのでありましょう。
posted: 2022年 1月 19日
強い工芸的な意思
缶コーヒー膝にはさんで山眠る
【作者】津田このみ
漫画家の水島新司さんの訃報を伝えるニュースを目にしました。
「ドカベン」や「野球狂の詩」、「あぶさん」というよりも、野球に興味がない私でも子供の頃夢中になった「男どアホウ甲子園」のストレートしか投げない剛腕投手、藤村甲子園を思い出します。
昨年より昭和の歴史をつくってきた人々の訃報を多く耳にするようになりました。
先日の技術講習会でも、コロナ禍で伝わり方が遅いのかどうかはわかりませんが、えっ!あのお方がという人の訃報を耳にしました。
組合を離れた人の訃報は、中々伝わってこない・・・。
平成と言う時代もありましたが、昭和に生きた人々の力強さを感じる今日この頃で、私にはとても真似できないなぁと痛感するようになりました。
職人生命の限られた残りの期間で、私に出来る事は何だろうかと考えるようになりました。
やらなければならない事が多くありますが、それを一つ一つ整理しながら進みたい。
「お客様にきちんとした印章をお渡ししたい」という強い工芸的な意思に沿う事象かどうかをメルクマールにして、そうでないものは排除して、身につけなければならないモノを取り入れることに懸命になりたい。
水島新司さんのご冥福をお祈り申し上げますとともに、業界の先輩方へのご冥福も時間がたくさん過ぎてはいますが、この場をお借りしましてお祈り申し上げます。
posted: 2022年 1月 18日
あたりまえのありがたさ
初仕事コンクリートを叩き割り
【作者】辻田克巳
今日は仕事始(初仕事)です。
家族みんなで、ゆっくりとしたお正月を過ごさせて頂きました。
それが、「あたりまえ」なのです。
「あたりまえ」を維持するためには、時にはコンクリートをたたき割らねばならない事もあるかなとも思います。
一番ダメなのが、迎合です。
次には惰性です。
「あたりまえ」は革新性がなく、惰性のようにも聞こえるかもしれませんが。
「あたりまえ」なくして、革新はあり得ません。
印章においての「あたりまえ」は、誰に対してではなく、使用者その人の信を示せる道具であるという「あたりまえ」なのです。
そのためには、どのように彫刻するか以前の問題として、職人が何を彫るかということが語られないといけません。
どのように彫るかかとか、それに付随する付加価値とかよりも、何を彫るかが一番大切なのです。
たとえば、細密な文字が彫れるということが技術の最高なら、訂正印が一番価値があり、高価でなければなりません。
しかし、違いますね。
複雑な文様の彫刻できる事が最高技術なら、木口木版の方が細密な文様を表現していて、どこかのキャラクターを彫刻したものより、はるかに芸術的と言えます。
実用印章は、文字を彫るというより、人のお名前や団体や企業の名称を彫るということが肝心で、それなくしてあり得ないという事だと思います。
そこが篆刻芸術と言われているものとの大きな違いであるとも言えます。
その前提が、「あたりまえ」のように存在して、その「あたりまえ」を如何に使用者との共鳴に結び付けるか、それが印章業を営む我々の仕事ではないでしょうか。
コロナ以前の私は、印章業界の為に恩返しをすることが、今までの自分を育てて来てくれたご恩であり、後継にそれを繋ぐことが大切な事であると考えてきました。
それは少し違っていたと反省しています。
それのみに傾注すれば、迎合や惰性が発生して、自分の在り方を見失う処でした。
コンクリートを叩き割るという事ではありませんが、自分をさらに育て上げないと、印章への恩返しはありえないと思うようになり。
その場が、印章業界ではないというのが昨年の結論でありました。
今年は、それを旨に「あたりまえ」であることができるように、場を変えての活動を模索して行きたいと思います。
更に精進勉強していこうと考えています。
今年も印面に向かえる「あたりまえ」に感謝。
posted: 2022年 1月 5日