掌中ノ天

かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す
【作者】正木ゆう子


昨夜、「掌中ノ天」(作 奥山景布子)を読了しました。
伊勢根付職人の正直の弟子となり、土産物屋に置いてもらっていた栗の根付が売れ出した。
しかし、木の子の根付は一向に売れない。
何故かを考えても分からないとき、師匠が木の子を全て引き上げて来た。
その件(くだり)が素晴らしい。
師の正直の言葉を一部を繋げてご紹介します。
・・・物を作っているとね。ついつい自分が自分が、って思ってしまう。技があがればひけらかしたくもなる。ただそういう邪念は、できあがった物にはいってしまうんだ・・・
・・・わしらは職人だ。良い物を作るために技を磨く。それは当たり前だけれど、技は己を誇るために使っちゃいけない。物を持つ人の身になって考えることだ。よく言ってる、本物をそっくりに写し取るだけではだめだって言うのも、そういうことなんだ・・・

そして、今日の連続テレビ小説『スカーレット』のある場面に続く・・・
喜美子が息子の武志に言われる・・・
武志「形はできたから、後は釉薬やな。」
喜美子「それが難しいねん。」
武志「それやったら、お父ちゃんに聞いたらええやん。」
喜美子・・・
武志「同じ、陶芸家で仲良しやん。」
喜美子・・・
武志「仲良しとちゃうのん?」
喜美子「仲良しやけれど、お父ちゃんとお母ちゃんは違う人間やねん。お父ちゃんの作品とお母ちゃんの作品は、違うねん。」
武志「何となく、わかった。」

何故、「掌中ノ天」とつながっているのかは、職人さんなら誰にでもわかることかも知れません。
機械的に同じものを作るのではなく、自分の物作りへの姿勢や思想、コンセプトが表れるのが、職人の手仕事です。
だから、消費者と呼ばれるお客様は、お客様であるのと同時に鑑賞者なのです。
共鳴と共感のできないものは、誰かの模倣であり、それは見る人には、必ず伝わるということです。

そして、職人は巻頭の鷹のように飼殺されれば、それでお終いです。
自分が自分がではなく、職人としての気持ちを大切に自らを発信していきましょう。

posted: 2020年 1月 21日

素晴らしい作品とは?

何もなし机上大寒来てゐたり
【作者】斎藤梅子

景気が良くない印章業界ですが、それでも技術習得のために集う受講生は多く、大印会館5階の教室を満杯としていました。
物作りを通じて、人の暮らしに寄り添い、さらには人の心を動かす物を作ることが出来る人を職人と言います。
連続テレビ小説『スカーレット』のなかで、作品作りに行き詰った八郎さんは、ぽつりとつぶやきます。
「素晴らしい作品ってなんやろ・・・」
その答えを弟子の三津は、
「素晴らしい作品は、売れる作品です。」
と答えます。
おそらく正解なのでしょう。
いくら素晴らしい作品でも自分のモノであり、床の間に飾っていたのでは、職人として食べていけません。
だけれど、それは結果です。
売れる作品を目指したのでは、売れる作品にならないのです。
人の心を動かせる作品を職人は目指すべきだと思います。
物を作る事を通じて、人の心に触れる、そういう気持ちが職人に無ければ技は宙を巡るだけです。

写真は、ブログ友達の伊勢根付職人の梶浦明日香さんにご紹介いただいた小説です。
江戸の世で仕事に生きるおんな職人の生き方がちりばめられています。
伊勢根付のお話は、奥山景布子さんの「掌中ノ天」というお話にあります。
現在の職人が江戸期の職人から学ばなければならないのは、その技ばかりか、技の意味やそれを通して人とつながる心と心だと、読み進め乍ら考えています。

posted: 2020年 1月 20日

赤い丸に赤い文字

冬眠すわれら千の眼球売り払い
【作者】中谷寛章

世の暮らしの在り方は、時代の在り方や人々の思考により変化していきます。
その変化に応じて、暮らしの在り方が変化していくとも言えるのかもしれません。
いろいろな暮らしの在り方があり、変化した暮らしの在り方があり、しかし変わらぬ暮らしもあり、でもそれは少数になると、暮らしに寄り添う物の在り方も変化してきます。
無くなる物もあります。
物の在り方が変化するということは、それを作る職人の在り方も変化するのです。
無くなる職や職人もあります。

着物好きな方も多くおられると思いますが、江戸時代や明治時代のように、着物が日常不可欠の衣ではなくなり、洋服がその多くの位置を占める現在、成人式や結婚式のような「ハレの日」に着るということがあっても、「ケの日」には身に着けないのが日常となっています。
しかし、その着物の文様や柄は、「和柄」「和文様」という形で、我々の身の回りに多く見られます。
それを着物の文様と認識できるのは、着物の文化がつくってきた日常性(ケの文化)が、私達に浸透しているからだと思います。

赤い丸に赤い文字が、書いてあれば、それを印影(はんこの押し型)だと誰もが思います。
ましてや、篆書体で示されていれば、実印だとか銀行印だと考えます。


篆刻芸術の作品とは、また違った感性で、芸術とかそういうことではなく、「はんこだ!」と認識できるということは、着物の文様に通じるところがあると思います。
それがいくら赤い丸のなかに着物の赤い文様を施したとすれば、それは「はんこ」ではなく、着物だと思うし、他の絵であれば、それは絵を思い起こしてしまいます。
印章を残すためには、絵や文様をいくら細かく上手く彫っても残らないということです。
文字である、実用であったという実績が、その印影を「はんこ」として残し得るのだと思います。
そこには、名も無き千の眼球(多くの職人の魂)が作用し、我々に示唆しているという事を、最後の灯火となるであろう印章彫刻職人は、肝に据えるべきだと私は思います。
そして、パソコンフォントでは表し得ない唯一無二の印影づくりの技術を更に精進努力して良いモノに高めていくよう心掛けるべきかなと、生意気なことを言うようですが、生き残るべき指標として、ご提言させて頂きます。
印章が冬眠した時のために、この文章は是非覚えておいてください。

posted: 2020年 1月 17日

縦の糸は私 横の糸も私

・・・
縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない
・・・
【作者】中島みゆき

連続テレビ小説『スカーレット』のお話から・・・
三津を弟子に取ることになった八郎さんと喜美子の間に、職人としての違いが生じ始めました。
「新しいものを取り入れて進んでいく為には、古いモノは壊さなあかん」という喜美子に対して、作陶している地から取れた土や物にこだわる八郎さん。
八郎「違うんや!喜美子と僕は人間が違うんや」・・・

職人視点で、二つの事が言えると思います。
一つは、職人は各々の違いを認めて容認することが、めちゃくちゃ下手くそです。
それぞれの思考を否定してしまいがちです。
ですので、同じモノづくりの同じ職でも、それぞれの考え方の違いで流派や好みが違ってきます。
もうひとつは、職人は自分中心だということです。
自らの世界観があります。
先に挙げた中島みゆきさんの「糸」という歌詞
縦の糸はあなた 横の糸は私・・・ですが、
職人の場合は、チト違います。
縦の糸は私 横の糸も私
織りなす布は、すべて私でなければ、作品は完成しないのです。
そこに他人が入る余地はなく、仕事においては譲れないものを持っているのが、それが職人であるともいえるのかもしれません。

ましてや、八郎と喜美子の場合は職人同士です。
仕事に夫婦間の影響がでると、たぶん衝突の繰り返しだろうと思います。
他人だから我慢できるのです。
他人でも仲間内なら、自分の主張を押し付けられると、職人同士での喧嘩が起きます。
さあ、これからの展開が楽しみですね。

posted: 2020年 1月 10日

想いは伝わる!

今日は、俳句無しの『スカーレット』の世界から・・・
常治お父ちゃんが病床で、喜美子らの作った大きな皿を目にして、自らの反省も込めてつぶやいた言葉が印象に残りました。
「想いは、伝わるもんやな・・・。」
お父ちゃんは、喜美子らの想いを知り、あの世に旅立ちました。

想いは物に込められるし、必ず伝わります。
これがなければ、モノづくりなどに職人は必要ないし、機械で済ませればよいのです。
人が人にたいして作るから、想いが込められるのです。

新聞に、長らく紅白の司会を務められた山川静夫さんが、AIでよみがえった美空ひばりさんは、良くないと話されていました。
美空ひばりさんと再び会えたことには、ファンは感涙するかもしれませんが、ひばりさんが終われば、次は誰でしょう・・・石原裕次郎さんのAIでしょうか?
復活の技術、AIの効用についてが、結論として残ります。
そこには、その人の想いや歌の魂は存在するのでしょうか。
人が人(他者)に向けるから、想いや魂が入り伝わるのです。

写真は、八郎さんと喜美子の起業した「かわはら工房」の角印です。
ネットやマスメディアでは、角印は法的根拠がないから、必要ないという事を、敢えて大声で叫んでいる人達がいます。
角印は、その会社や工場、商店の想いを代表する顔であります。
領収書や見積書に捺されたその想いは、相手に伝わります。
そう思って下さる人に向けて、発信を怠らないように頑張ります。
明日は、仕事納めです。
くる年も人の想いを大切に伝えるお役目を引き受けさせて頂きます。
八郎さんと喜美子、ガンバレ!
かわはら工房、ガンバレ!

posted: 2019年 12月 26日

60、還暦、半世紀の技能検定

行く年しかたないねていよう
【作者】渥美 清

年末の過去ブログやアーカイブスを見ていると、来年こそ印章にとって、業界にとって明るい希望を抱こうという話をさせてもらってきました。
今回も、少しでもプラス思考といろいろ知恵を働かせたのですが、あまりそういう話は何処にもなく、希望の芽などどこにもあり得ないので、事実を述べるしかありません。

齢(よわい)60の還暦にして、少しこの数字にかけて思う事があります。
私が生まれた昭和34年(1959年)は、戦後の貧困から、朝鮮特需、神武景気を経て復興の兆しが見えてきた岩戸景気の真っ只中が、昭和34年であり、映画「三丁目の夕日」の時代であります。
この年に、第1回の技能検定が実施されました。
今年、技能検定は私と一緒に還暦を迎えることになりました。
印章彫刻職種が、業界の強い要望により技能検定の全国実施に至ったのは、昭和45年であります。
来年の廃止が決定しているゴム印彫刻技能検定は、業界が技能検定を導入してから50年の節目となります。
先人が苦労されて、導入した技能検定が50年、私がその運営に携わったのは、ほんの20年(間5年はお休みさせて頂きましたが)くらいのことです。
それも先輩の背中に乗ってのことでしたので、それほどの労苦はなかったのですが、大阪では、その後継はいないので、私が走り回って頭を下げているというのが実態です。
厚労省が統廃合検討会の議題にありますよとご指示頂かなくとも、運営者がいないので、受検者がいても、そのうち業界自体が投げ出すことになるのは、火を見るよりも明らかであります。
受検者がいないというのも事実ですが、それは何度も繰り返し述べてきたように、業界自体が継承現場に力点を置いていない、スローガン倒れであるということ以外の何物でもありません。
人を育てなければ、次はないのです。
そういう意味でも、私自身が検定実施運営者の後継を見出せなかったことへの反省は大いにあります。

巻頭の寅さんの句ではありませんが、今年の暮れは、仕方がないという気分が蔓延しています。
私自身は、このラストのゴム印彫刻技能検定の運営を最後に、最前線からは身を引こうと思います。
寝ているわけではありませんが、それは業界の意志であり、仕方がないことだと決意しております。
決意とは、変な言い方かもしれませんが、「ねていよう」というにも強い意志がいるのです。
寅さん、ありがとう。
年始は、50作目の寅さんを観にいこうと息子からの誘いがありました。

posted: 2019年 12月 24日

職人の精神

連続テレビ小説『スカーレット』が、面白い。
流石に『夏子の酒』の脚本を担当した水橋文美江さんの本だと感心しています。
モノづくりへの姿勢をきちんと表現されています。
ともすると、雰囲気や恰好だけの職人を取り上げるドラマが多い。
今日も、八郎さんが「このコーヒー茶碗で美味しそうにコーヒーを飲む人の笑顔を思い浮かべながら作るんや。フカ先生が踊りながら楽しそうに絵付けをしはるみたいに」というと、「絵付けとは全然違う」と喜美子はコーヒー茶碗を作陶する難しさを口にした。
八郎さんは、「そんなことはない。モノづくりに共通することは、使ってくれはる人のことを想って心を込めるということや。それは必ず伝わる。」と・・・

ドラマ上では、昭和35年になっています。
昭和51年には、陶磁器製造部門として、手ろくろ成形▽機械ろくろ成形▽鋳込み成形▽絵付け▽原型製作-の五つの検定が新設されました。
おそらく、そういうことはドラマの上では出てこないことだろうと推察します。
『夏子の酒』も減反や農薬という原作では描かれていたことが、シナリオ化されていません。
今や、伝統工芸のみならず、日本のモノづくりやその精神が危機に瀕しています。
印章も陶芸も来年の技能検定統廃合検討会の検定廃止という議題に上っています。
陶芸の業界のことは、よくわかりませんが、おそらく印章とよく似た状況なのかなと推察できます。
職人、陶芸家、信楽焼ということでは、良きキーワードとなっているのかもしれませんが、そのままにしては、それで終わります。
大切なことは、八郎さんが言われた「想いを込めた心は、必ず伝わる」という職人の精神だと思います。
それを引き継ぐためには、なんとしても技能検定を継続させる業界を挙げての努力が求められます。
印章に於いては、業界の意識を疑うようなお話や技能士のところにおいても職人同士を分断する操られの単独プレーが目立ちます。
職人は一つに纏まらないというのは良く存じていますが、経営者的視点から考えても、このままでは印章そのものが・・・と毎日の『スカーレット』を見て考えています。

posted: 2019年 12月 17日

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