伝承の道に今いる人の責務
今朝BSのNHKで、2年前にお亡くなりになった染色家の吉岡幸夫さんの番組をたまたま見ました。
日本には伝統的な色があります。
藍、紺、群青、露草…青系色だけで20以上の名称があり、世界には例のない日本独特の文化でもあります。
それらの色を染色により表現する技術は、ほぼ失われています。
色という抽象的な概念があっても、それを表現して来た日本の伝統技術の継承は絶えています。
色の概念の欧米化は印刷技術とともに、化学的な染色技術も進化させました。
それと共に、実用に伴う本物の概念としての色は絶滅してしまったのです。
吉岡さんは、染色家として美しいと思う色が、化学的なそれでは表現できていないので、染料となる植物を求めて山中を探し、自ら草を植え、色抽出の手法も奈良時代にまで文献を遡り、日本人が愛 (め) でてきた「色の世界」とは? 失われた色を求めた、時空を越えた旅を続けられました。
その吉岡さんでさえ、まだ正倉院の色には追い付いていないと言われました。
一度失くした技術は、後でどのように探求しても元通りにはならないし、そこにそれを使用した天平人はすでにいないのが現実です。
印章もコンピューター技術を用いて、パソコンで簡単にフォント文字から印章デザインを表出して、機械で彫刻するという、誰にでもできるものとなり果てています。
そこに規範はありません。
その隙間を狙われて、古より続いて来た印章への、日本の伝承への攻撃にさらされています。
日本の伝承である本物への挑戦は、まだ続いておりますが、灯火はいつ消えてもおかしくないのが、継承現場の現実であります。
継承現場が無くなれば、技術は途絶えます。
そのメルクマールである印章彫刻の技能検定が危機に直面しています。
昨日、後輩よりのうれしい連絡がありました。
「あがき」のために、もう少し奮闘いたします。
それが、伝承の道に今いる人の務めですので・・・。
職人スピリットの崩壊
梅雨ごもり眼鏡かけたりはずしたり
【作者】ジャック・スタム
梅雨と言うより大雨警戒レベル3の大阪でしたが、小降りになってきています。
印章の命は印面であり、そこに彫刻されている文字の姿とレイアウトの美しさが、その良否を決めると言うと、もっともらしい話であります。
いわゆるデザインが肝要である。
しかし、そのデザインだけを一生懸命追求しても身につくものではない。
ある人いわく、「今は彫刻機がデザインさえあればその通りに、却って手で彫るよりも綺麗にできる?ので、唯一無二を表現するデザインの勉強をすれば良い。彫刻は彫刻機に任せればよいのであるから。」と・・・。
結論から言うと、印章デザインのみの勉強で、美しき印影を得ることは出来ません。
これは、少し印章を勉強した人には理解できることです。
印章には字法、章法、刀法という印章三法(篆刻三法)があります。
その刀法を彫刻機械に委ねて、後を勉強するという事だろうと思います。
この三法は敢えて三つに分解したもので、本当は密接に関連しあっています。
その理屈は以前にもお話したことがありますが、専門的になりますので、ここでは止めておきます。
修錬ということで、その説明をさせて頂きます。
修錬とは、それを通して何かを身につけることであり、その過程が大きな役割を果たします。
印章を作製するには、多くの作業工程を経て出来上がるものです。
他の職種も、手で作製されるものはみんなそうだと思います。
その過程で、形や形状、そしてその物の本質に深く触れることが出来るのです。
最初と終わりだけでは、目立ったところだけを拾い上げても、その物の全ての製作過程に携わらないと、その一部の意味が認識できません。
利便性やスピードを職人の育成にまで問われている今日、本当の意味での「ものづくり」や職人仕事というのは、スピリットの面で既に崩壊しているのかも知れません。
自分で書いていて、怖いこと書いているなと思います。
posted: 2021年 5月 21日技術継承現場はアナログなのに
あいまいな空に不満の五月かな
【作者】中澤敬子
世はデジタル化に向かう社会で、脱アナログのスピーディな生活を求めているように感じます。
デジタル化≒スマートな生活とつい思いがちでありますが、コロナワクチン接種の予約状況を見ていてもそうとも言い切れないなぁとも考えてしまいます。
印章製作の基本技術を習得するということは、アナログであります。
自らの技術が今、どのあたりにあるかをチェックする場が、嘗ては多くありました。
今残るのは、大印展(大阪府印章業協同組合主催)と全国印章技術大競技会(公益社団法人全日本印章業協会主催)の二つとなりました。
大競技会は隔年開催です。
大印展は毎年開催でしたが、今年隔年開催を表明し、大競技会のない年の開催となります。
嘗ては、業界誌の誌上講習会(毎月)や各地の競技会、講習会が多くありました。
その作品作りに追われたものです。
当時は、追われたという認識でしたが、毎月のチェック機能が全国的技術の向上に大きな役割を発揮してきました。
今、デジタル化社会なのに、そういうチェック機能を果たすものは、ドンドンとなくなり、過去の印影や情報ばかりが過多になり、自らの技術をチェック出来る場も人もいなくなり、独りよがりな仕事となり始めています。
これは、印章だけの問題ではなく、技術継承があり成立する世界の減少を意味するのかなとも思います。
とても便利なデジタル化、我が業界もそれに準えようとしています。
あちらこちらで、その断片を感じざるを得ません。
それは一見良い事に見えますが、本義をドンドンと潰していることに気が付けばと強く訴えたい。
自分は手で覚えてきた技術があるから、それでOKでは、技術は繋がりません。
自分の所だけ何かをしている、それでも全体としたら疲弊していきます。
それで、良いのでしょうか・・・。
木偶の坊には成りたくない
五月雨ややうやく湯銭酒のぜに
【作者】蝶花楼馬楽
4月の稼ぎは薄く終わり、このままではどうなるのだろう「湯銭酒のぜに」もでなくなるかなとため息ばかりでございました。
デジタル庁法案のついでのように、再び行政手続きによる「押印廃止」という言葉を重ねて宣伝して頂き、新社会人の「就職祝いとしてハンコは贈らない・・・。」結婚もコロナで減っていますが、「結婚祝いにハンコはならない」という雰囲気が漂い蠢いています。
まるで、妖怪のようです。
先日、還暦を迎え実印を新調したいとご連絡を賜り、ご来店下さいました。
嘗て、同じ技能士ということで法人印を作製頂いた表具師さんです。
表具師さんと言うと、掛け軸や絵画の表装という文化的な仕事や襖の貼り替えというイメージがありますが、そんな仕事ばかりではなく、現場ではクロスや床の貼り替えを短期、安価な仕事ばかりが増えて来ているとのことです。
いくら働いても表具技能士としての自らの技術を活かせない、技術や伝統にしがみつくところは廃業に追い込まれるとの厳しい現状をお話しくださいました。
大阪の表具職業訓練校も休講状態(実質の廃校)とのことを以前お聞きしました。
技術が現場で活かせないので、継承現場が有名無実化するし、現場の仕事と遊離していくのかと思います。
修業や修錬と呼ばれるものは、ただテキストを覚えたり、ノウハウを身に着けることではありません。
技術を身に着ける過程で、その業に必要な基本的な考え方を身に着ける事であり、職人としての道徳を一つ一つの工程を覚えることで感じ取っていく事だというお話を致しました。
印章の技能検定継続が危なくなってきているという事から、本当は1級技能士という資格を頂けば、それ以上の仕事や技術を探求する能力を頂けたということで、技能という枠にとらわれないで、高見を目指せるはずだと話も致しました。
継承現場が疲弊しているのは、技能検定すら維持できない業界意識や今のコロナ禍によるところも大いにありますが、職人としての立ち位置をもう一度各自が胸に刻み直さないといけない時期に来ているのではと、互いの奮闘を誓い合いました。
昨夜、テレビで『雨あがる』を久々に観ました。
今の心境と、原作者の山本周五郎の座右の銘「人間の真価は、その人が死んだとき、なにを為したかではなく、彼が生きていたとき、なにを為そうとしたかで決まる」というテーマを宮崎美子演じる妻である才女の言葉として表現されたシーンに胸を打たれました。
「主人には賭け試合をせぬよう願っておりました、でもその願いは間違いで御座いました、主人も賭け試合が不面目で有る事は知っていたと思います、止むに止まれぬ場合が有るのです、あなたたちのような木偶の坊には分からないかもしれませんが、大切なのは主人が何をしたかではなく、何の為にしたかではありませんか。」
技能検定廃止への対策のみならず、今、木口師という職人として何を為すのがが、問われています。
木偶の坊だけにはなりたくはありません。
posted: 2021年 5月 17日
木口師としての生涯を全うしたい
3年前の「時代に遅れ続ける経営」の一澤信三郎帆布さんについて書いたブログを読み返して、先日テレビで観た映画『繕い裁つ人』を思い浮かべた。
神戸にある「南洋裁店」の2代目店主である市江は、「2代目は、初代の仕事を全うすること」と周りから“頑固おやじ”と呼ばれています。
ブランド化を目指そうとする誘いを断り、先代の「一生着続けられる服」の直しを懸命に続けている。
百貨店の仕立て直しを専門としている腕の良い職人が時代に遅れて仕事が無く、店を閉める事を市江に話した。
後日、市枝は「先代は病院のベットで、亡くなる寸前まで、技術指導をしてくれた。震える指であるはずなにに、縫い目には狂いなく真っすぐでありました。
印籠を渡されるまで、最後まで足掻くのが仕立て屋だと私は思います。止めないでください!」と泣きながら訴えたシーンには胸に迫る物を感じました。
今年2月の技能グランプリで紳士服製造職種は、5名集まらず競技が出来ませんでした。
技能検定の灯火が消えかけている印章彫刻職種・・・「最後まで足掻くのが木口師だと思います。」
しかし木口師の仕事は、技能検定と言う資格のみでは表されません。
変容した印章業というハンコ屋より、私は木口師としての生涯を全うしたいと強く思います。
posted: 2021年 5月 11日
相対的公平
噴水の頂の水落ちてこず
【作者】長谷川櫂
先日シェアさせていただいた成願先生のちちぶ銘仙館での和柄鑑賞講座のなかで、碁石を例に、その黒い石が収縮色で、膨張色の白より大きく作られていて、見た目を同じにしているという相体的公平についてお話をされていました。
和のものづくりに欠かせないのが、この相対的公平で、数字で表現される絶対的公平ではないとしています。
能面づくりも白洲正子『能面』によると、左右非対称に打たれるのが当たり前の世界であります。
即ち、成願先生の言う相対的公平の世界観であり、絶対的公平など微塵も入らない世界観であります。
人間の顔は正面に向かって右が神佛の顔。左が人間の顔と言われております。この考え方が能面に取られております。正面右が「悟りの世界」、左が「迷いの世界」ということになります。つまり、2つの世界に存在する人間を、一面で表した事になります。
だからと言って、能面が大きく非対称には見た目では見えないのです。
定規で測ると非対称だが、美しく見える・・・これが相対的公平であり、日本的霊性を伴う、日本人の美意識であります。
その美意識も、西洋の絶対的公平の世界観が暮らしの中や教育に大きく入り込み、またパソコンやスマホの世界は絶対的公平の世界であり、それが日本人の美意識を歪めて来ています。
印章技術講習会の講習生も、文字のセンター(中心)を意識するのに、定規を使用したり、方眼紙のメモリを目安に考えるのは良いのですが、自分の相対的公平感覚を目で見て鍛えようとしません。
それは、見た目より数字に左右されるという意識に問題があるのです。
職人の仕事は、勿論この相対的公平に依拠して成り立っています。
ですから、その尺度も尺貫法を基準として用います。
尺貫法をメートルに直すと1尺では、10/33mとなります。10割る33で0.30303・・・・・・メートルとなりますので、メートル法に直すと割り切れません。
よって、1分(10厘)は10/3300メートルであり、3,030303mmとなります。
4分丸の認印は、12ミリと考えている人が多いと思いますが、本当は12,121212ミリであります。
ミリで割り切れない空間を持つのが尺貫法なのです。
メートル法の世界観から考えられない遊びの空間を有しているのです。
それでも目で見てピタリと落ち着く宮大工の工法をメートル法ですると大変な誤差が生じてしまうのです。
実印に配字された4文字の姓名が見た同じ大きさに綺麗にレイアウトされているのは、職人の経験から生まれた知恵の集積であります。
彫刻する一つひとつのお名前が違いますし、同じようにデーターを使いまわしてフォント化して彫刻してはいけないという職人道徳は、その修練から積み上げられてきたものです。
熟練した印章の職人は目を皿のようにして探せば、今、まだ少しはおられます。
5年後はどうでしょうか。
まだ探せばいますとは、断言できかねます。
10年後には・・・
コロナ禍により子どもの数が減っているとの報道が、先日の子どもの日にありました。
お子様やお孫様が生まれれば、銀行印ではなく、一生使用できる実印を早い目に、ここ5年の間に良き職人をさがして、作製されることをお勧めいたします。
職人的に見せかけたショップもございますのでご注意をして下さい。
職人の手仕事には手間暇がかかりますので、一日にたくさんのご注文があるのに、早くできますとか安くできますとかいうところは、おそらく手仕事ではありません。
幼少期には実印は必要ありませんが、銀行や郵便局への登録印や学資保険のハンコなどにご使用頂き、時期が来たら実印として役所に登録するように親として伝え、自分の命と実印の大切さ、自分を表現したり、証明したりすることの意味を伝えてあげて下さい。
それが日本的霊性を伝えること、日本の伝統を継承すること、印章文化を守る事に繋がります。
宜しくお願い申し上げます。
posted: 2021年 5月 7日無一物
雨のふる日はあはれなり良寛坊
【作者】良 寛
春の雨は、やわらかな印象を受けますが、このゴールデンウィーク前の春雨は、コロナ禍であり、重く暗く感じてしまいます。
「無一物」を信条に74年を生きた良寛さんも雨の降る日はあはれを感じていたのでしょうか。
古来、禅の世界では、「本来無一物」や「無一物中 無尽蔵(むじんぞう) 花有(あ)り 月有り 楼台(ろうだい)有り」と言われている。
良寛さんは、物だけでなく、地位も名誉も、そもそも自分自身をも、自分の持ち物にはしなかった。
物であれ心であれ、執着することをまったく捨てはて、手放していたのである。
雨を見て、重さや暗さを感じるのは、きっと自分の中に何か執着心があるからだと思います。
このままでは、印章はどうなるのだろうか・・・とか、技能検定は大丈夫だろうか・・・とか、それはなるようにしかならないのは、当たり前なのであるが、それでもこの雨を重く暗く感じる自分の心にも素直になりたいと思います。