木口師としての生涯を全うしたい
3年前の「時代に遅れ続ける経営」の一澤信三郎帆布さんについて書いたブログを読み返して、先日テレビで観た映画『繕い裁つ人』を思い浮かべた。
神戸にある「南洋裁店」の2代目店主である市江は、「2代目は、初代の仕事を全うすること」と周りから“頑固おやじ”と呼ばれています。
ブランド化を目指そうとする誘いを断り、先代の「一生着続けられる服」の直しを懸命に続けている。
百貨店の仕立て直しを専門としている腕の良い職人が時代に遅れて仕事が無く、店を閉める事を市江に話した。
後日、市枝は「先代は病院のベットで、亡くなる寸前まで、技術指導をしてくれた。震える指であるはずなにに、縫い目には狂いなく真っすぐでありました。
印籠を渡されるまで、最後まで足掻くのが仕立て屋だと私は思います。止めないでください!」と泣きながら訴えたシーンには胸に迫る物を感じました。
今年2月の技能グランプリで紳士服製造職種は、5名集まらず競技が出来ませんでした。
技能検定の灯火が消えかけている印章彫刻職種・・・「最後まで足掻くのが木口師だと思います。」
しかし木口師の仕事は、技能検定と言う資格のみでは表されません。
変容した印章業というハンコ屋より、私は木口師としての生涯を全うしたいと強く思います。
posted: 2021年 5月 11日
相対的公平
噴水の頂の水落ちてこず
【作者】長谷川櫂
先日シェアさせていただいた成願先生のちちぶ銘仙館での和柄鑑賞講座のなかで、碁石を例に、その黒い石が収縮色で、膨張色の白より大きく作られていて、見た目を同じにしているという相体的公平についてお話をされていました。
和のものづくりに欠かせないのが、この相対的公平で、数字で表現される絶対的公平ではないとしています。
能面づくりも白洲正子『能面』によると、左右非対称に打たれるのが当たり前の世界であります。
即ち、成願先生の言う相対的公平の世界観であり、絶対的公平など微塵も入らない世界観であります。
人間の顔は正面に向かって右が神佛の顔。左が人間の顔と言われております。この考え方が能面に取られております。正面右が「悟りの世界」、左が「迷いの世界」ということになります。つまり、2つの世界に存在する人間を、一面で表した事になります。
だからと言って、能面が大きく非対称には見た目では見えないのです。
定規で測ると非対称だが、美しく見える・・・これが相対的公平であり、日本的霊性を伴う、日本人の美意識であります。
その美意識も、西洋の絶対的公平の世界観が暮らしの中や教育に大きく入り込み、またパソコンやスマホの世界は絶対的公平の世界であり、それが日本人の美意識を歪めて来ています。
印章技術講習会の講習生も、文字のセンター(中心)を意識するのに、定規を使用したり、方眼紙のメモリを目安に考えるのは良いのですが、自分の相対的公平感覚を目で見て鍛えようとしません。
それは、見た目より数字に左右されるという意識に問題があるのです。
職人の仕事は、勿論この相対的公平に依拠して成り立っています。
ですから、その尺度も尺貫法を基準として用います。
尺貫法をメートルに直すと1尺では、10/33mとなります。10割る33で0.30303・・・・・・メートルとなりますので、メートル法に直すと割り切れません。
よって、1分(10厘)は10/3300メートルであり、3,030303mmとなります。
4分丸の認印は、12ミリと考えている人が多いと思いますが、本当は12,121212ミリであります。
ミリで割り切れない空間を持つのが尺貫法なのです。
メートル法の世界観から考えられない遊びの空間を有しているのです。
それでも目で見てピタリと落ち着く宮大工の工法をメートル法ですると大変な誤差が生じてしまうのです。
実印に配字された4文字の姓名が見た同じ大きさに綺麗にレイアウトされているのは、職人の経験から生まれた知恵の集積であります。
彫刻する一つひとつのお名前が違いますし、同じようにデーターを使いまわしてフォント化して彫刻してはいけないという職人道徳は、その修練から積み上げられてきたものです。
熟練した印章の職人は目を皿のようにして探せば、今、まだ少しはおられます。
5年後はどうでしょうか。
まだ探せばいますとは、断言できかねます。
10年後には・・・
コロナ禍により子どもの数が減っているとの報道が、先日の子どもの日にありました。
お子様やお孫様が生まれれば、銀行印ではなく、一生使用できる実印を早い目に、ここ5年の間に良き職人をさがして、作製されることをお勧めいたします。
職人的に見せかけたショップもございますのでご注意をして下さい。
職人の手仕事には手間暇がかかりますので、一日にたくさんのご注文があるのに、早くできますとか安くできますとかいうところは、おそらく手仕事ではありません。
幼少期には実印は必要ありませんが、銀行や郵便局への登録印や学資保険のハンコなどにご使用頂き、時期が来たら実印として役所に登録するように親として伝え、自分の命と実印の大切さ、自分を表現したり、証明したりすることの意味を伝えてあげて下さい。
それが日本的霊性を伝えること、日本の伝統を継承すること、印章文化を守る事に繋がります。
宜しくお願い申し上げます。
posted: 2021年 5月 7日無一物
雨のふる日はあはれなり良寛坊
【作者】良 寛
春の雨は、やわらかな印象を受けますが、このゴールデンウィーク前の春雨は、コロナ禍であり、重く暗く感じてしまいます。
「無一物」を信条に74年を生きた良寛さんも雨の降る日はあはれを感じていたのでしょうか。
古来、禅の世界では、「本来無一物」や「無一物中 無尽蔵(むじんぞう) 花有(あ)り 月有り 楼台(ろうだい)有り」と言われている。
良寛さんは、物だけでなく、地位も名誉も、そもそも自分自身をも、自分の持ち物にはしなかった。
物であれ心であれ、執着することをまったく捨てはて、手放していたのである。
雨を見て、重さや暗さを感じるのは、きっと自分の中に何か執着心があるからだと思います。
このままでは、印章はどうなるのだろうか・・・とか、技能検定は大丈夫だろうか・・・とか、それはなるようにしかならないのは、当たり前なのであるが、それでもこの雨を重く暗く感じる自分の心にも素直になりたいと思います。
posted: 2021年 4月 28日3度目の緊急事態宣言1日目に、昨年を振り返りました
3度目の緊急事態宣言の一日目、昨年の事を思い返しています。
リモートワークの邪魔者にされ、行政手続きの簡素化の障壁の代表格に祭り上げられた印章。
そして、大臣による行政手続きにおける「押印廃止」に繋がっていきました。
継承現場である技術講習会は、対面講習ができなくなり、臨時休講が常態化していきました。
今年に入り、リモートによる講習や通信添削に、継承者である講習生の技術に向かう意欲の低下がみられ、現場を疲弊させ来年の技能検定受検者100名確保に一抹の不安を残しています。(100名集まらなければ、印章業界から技能検定は無くなります)
人が使用する物をつくるという事には、作り手の思いが入り込むというのが、古来日本的な考え方であります。
今、新疆ウイグル自治区において作成されているものに、強制労働というマイナスな思いが入り込んでいます。
政治的な問題、不買運動、それに抗う姿勢・・・それがないと安価に早く供給できないという問題を抱えて、そこから目をそらす企業の姿勢
強制労働によりつくられたトマトや綿花には、やはりマイナスの思いが入り込んでいると思います。
日本の伝統工芸も人の思いを大切に受け継がれてきた技術であります。
印章は、伝統工芸だと思います。
神代の「おしで」という印章の基となった考え方を土台にして、古代メソポタミアのシリンダー型印章の発明から、シルクロードの終着点である正倉院にたどり着いた印章が、「おしでの大神」に受け入れられて、公から民へ、広く受け継がれてきた道具であります。
その技術も先人よりの道筋を繋げてきた名も無き職人の努力によるものです。
だから職人道徳に守られ、唯一無二の世界を表現して来たのだと思います。
印章は、早く安くという間に合わせでできるものではありません。
作成に時間が掛かり、一つ一つ丁寧な作業工程があり、その過程で思いは表現されて行きます。
パソコンで作製されたデジタル的な印章には思いが入りません。
先人からの技術の道に乗っかっていない、本道から外れた職人まがいのものであります。
デジタルを否定しているのではありません。
印章の役割をデジタル化することや、共存すると言う姿勢に疑問を感じているのです。
デジタルで作られたものは、デジタルの中に完結します。
デジタルの中の印影は、先人がつくったプロセスを無視した結論としての印影デザインでしかありません。
そこに思いは乗らない、入り込まないのです。
デジタルの目的が、利便性や合理性であるとすると、印章は事象と事象の間に入る時間を有した人のプラスの思いを運ぶ道具です。
利便性や合理性とは対局軸に位置するものが印章です。
そこに乗っかり共存しようとする姿勢には、職人道徳が欠如し、最初から論理的に破たんしていたと私は思います。
この時間を有した印章という道具をもう一度みんなで考えて頂くことが、“日本人からなくなりつつあるモノ”を復活させて頂く一助になると強く思います。
そして、今、わずかに残された実印という概念は、職人の思いがこもった実印をお求めになられ、使用者の思いが入り込めるような良き仕事のものを選択して頂けるように消費者の皆様には、切にお願い申し上げます。
その行為が、ハンコを作製する職人とその技術を残すことに繋がります。
デジタルは、利便性と合理性の世界で、人の思いを伝えるとか、時間軸を有する道具という役割はありません。
posted: 2021年 4月 25日しっかりとした技術に裏打ちされたものを伝える
春の蔵でからすのはんこ押してゐる
【作者】飯島晴子
昨日、業界誌が届きました。
2月に実施された技能グランプリで厚生労働大臣賞に輝いた桜井優さん(長野)のことについて掲載されていました。
受賞の感想として最後に、こう述べられています。
「学んで身に着けたものを後進へ繋ぐこともグランプリ経験者に課せられたことだと思うので、今回の受賞を励みに精進していきたい。」
また南信州新聞には次のようにコメントされています。
「脱はんこの流れにあらがってなりわいを守るのは簡単ではないが、やはりはんこの文化、道具としてのはんこの大切さは伝えていきたい。しっかりとした技術に裏打ちされたものを伝える活動ができたら」
はんこ職人は、何を守り、何を伝えなければならないか・・・それをしっかりと持つことが、このご時世如何に大切かの解答をえたような気持ちにさせて頂けた。
印章という概念や、印章文化や制度を守るのではなく、「しっかりとした技術に裏打ちされたものを伝える」それに尽きるのではないでしょうか。
勿論、それがあってこそ、印章文化や制度を守るという行動に繋がります。
土台を守る、そして伝える・・・それでいいんじゃないかな・・・。
そこにはデジタルとの共存も電子印鑑もあり得ない、小手先の延命策が入り込めない世界だと私は強く思いました。
posted: 2021年 4月 6日
急ごしらえは、あきまへん
はなはみないのちのかてとなりにけり
【作者】森アキ子
温かい日差しを感じる今日この頃で、通勤途上には引っ越しのトラックがあちらこちらに見かけられます。
愛知県常滑で実施された第31回技能グランプリが終了して、間もなく一月が経とうとしています。
審査に携わった者は、その内容を口外してはいけないこととなっています。
審査の内容に関わる事ではなく、競技補佐員としての仕事を果たしながら、雑談で話していた時に一番心に残った事項をお話します。
審査に携わった人達は、勿論それぞれの技術論をお持ちの先生方です。
技術に向き合う姿勢は厳しく、それだけのことをされている方々ですが、それぞれ少しずつですが、印章彫刻の方法が違います。
傾斜台を使用する、しない
棒台で仕上げる、篆刻台仕上げ
等々・・・
ある競技補佐員の方が、「あの選手は私と同じやり方だが、やり方が間違っている。」
遠目からしか我々は選手を見れないことになっていますが、姿勢や手の動きを見ていると分かるものなのです。
その方は、「教えてあげたい!」と言われていて、競技が終了すると、すぐに作品内容ではなく、彫刻作業についてレクチャーされていました。
私もいろんな彫刻方法を見てきました。
一番なのは、姿勢と運刀のリズムだと思います。
上手な人は、リズミカルに楽しそうに坦々と作業されています。
おそらく自らの仕事場でも、同じようにされているんだ、普段がそうなのだと想像容易いリズムです。
その時だけ、その作品だけという単純な一夜漬けではダメで、そんなに甘くはないのが技能グランプリです。
普段の自分が顔を出します。
仕事もそうです。
この仕事だけ、とりわけ懇切丁寧になんてできないのです。
全てが一緒。
普段の修練が大切なのです。
坦々と同じことを繰り返す、リズミカルに楽しく、長い年月をかけて積み重ねていく・・・
それが職人仕事だと思います。
付け焼刃や間に合わせでできるものではありません。
急ごしらえは、あきまへん。
posted: 2021年 3月 17日しんかんたる否定
耕人は立てりしんかんたる否定
【作者】加藤郁乎
大臣のバカげたツイッター騒動とその後の認印のしんかんたる否定は、業界人の予想を超えて社会に浸透していっているように感じます。
それは、コロナ禍で疲れ果てた人達ではあるが、これからの真偽をきちんと見極めようとする志向が浮き彫りになってきているように感じます。
何があっても本物を求め、本物の技術を駆使する事を望む人々は、このコロナ禍であっても、やり方を変えたり、目先を変えようとはしません。
田畑の真ん中で、汗水流しながら大地を耕し続けています。
工夫は大切ですが、自然の前では、それは装飾に過ぎません。
コロナ禍だからとか
コロナ以降の世界、商売の在り方・・・
本物志向の新しい世界、ルネッサンスの再興・・・
そんなこととは関係なく、先人が教えてくれた技が自分の中に入りこんでゆく。
ひとつ、ひとつ積み上げてきたことが、
今、面白い
仕事が面白い・・・。
耕人が黙って立っているだけで、しんかんたる否定を示す。
そういう人になりたいと・・・
共鳴頂くお客様に感謝。
posted: 2021年 3月 4日