第20章 印章開眼と処理・・・その2

(3)印章の処理

<死印処理>

印章はその人一代限りです。

故に親の死後その子供が、親の印章をそのまま使用するか、あるいは印面を抹消して(削り落として)、自己の名を彫刻することは、下剋上の悪因として避けなければなりません。

死者の印は印面を抹消するとともに、その人に成り代わり相続人である後継者が丁重にその功績をたたえ、印章に感謝する心で埋没するのが最も良い方法であります。

以上が藤本胤峯先生の教えですが、若い頃はそれが理解できませんでした。

良い材料であれば、再利用する方がエコで地球にやさしいのではないか、そう思っておりました。

あるお寺のハンコの復刻をしていて実感したのですが、作成者の想いと使用者の想いというモノが混在しているのが印章であり、その想いも一角ならぬものです。

私の体験は、そのおそらく二百年以上も前のお寺の三宝印の復刻で、その文字がどう処理されているか悩んでいた時に、夢の中にその印の刻者の匠が現れ、文字の配置を教えてくれたということがありました。嘘のようなホントの話です。

それ以来、作成者と使用者の想いについて考え、簡単に死者の印を改刻(彫り直し)すべきではないという結論に至り、現在は改刻はお断りしております。

その改刻印章の使用者にもよくないし、刻者である私にも想いが跳ね返ることとなります。

藤本先生には易者さんのお友達が多く、先生は小声で、「易者は良い悪いにかかわらず、ろくな死に方をしない。それは10人中9人まで良き占いをし、喜んでもらえても、一人の人から恨まれる。それが積み重なり恨みの積み重なりは恐ろしいものだ。」と教えて頂いた事があります。

印章はその使用者と生涯の苦楽をともにする宝器であります故に、そういう想いは他のモノより小さな中に凝縮しています。

(3)印章の処理

<悪印処理>

たとえ自己の使用しているモノが悪印であっても、これを破損し放棄することは、心のない仕方と言わねばなりません。

たとえ悪印でも、昨日までは自己の信を托したモノであるから、これを洗い清めて白紙に包み生存中は必ず保存する。

よく象牙材、水牛材を惜しんで人に与えたり、不吉不用のモノとして保存を嫌うようなことは慎むべきことです。

印面は顔です。

如何なる場合でもその人が生存している限り、印面の削除は禁物です。

印面抜生は不吉の行事です。

 

終わりに・・・・

長らくお読みいただいた「印章講座」はこれにて一旦終了とさせていただきます。

お読みいただき、有難うございました。

posted: 2014年 7月 15日

第20章 印章開眼と処理・・・その1

(1)名を敬う儀式

<印の開眼>

如何に入念に調整された完全無欠の印章が出来上がったとしても、ただそれだけでその印章が直ちに盛運をもたらす宝器となるとは言えません。

印匠が精魂込めて彫刻された印章も、ただ単なる一個の物体であります。

これに魂を入れ活動力を与えるには、持ち主自信の精神を活入せねばなりません。

これを「印章の開眼」と言います。

<先霊に捧げよ>

印の開眼といっても何も難しい法式は必要としません。

まず身を清め、新調された印章を神仏壇に捧げ燈明をかかげ、自らは正装し襟を正してその前に端坐します。

これは印面に刻んだ姓が、先祖連綿の尊き文字であり、名は祖先の遺徳によりこの人生に生まれてきた自己を表現するが故に、まず印章を祖先に捧げ、改めて祖先より一身一家を托すべき印章を賜らんとするものであります。

そのようにして祖先の霊に対し、この印章を使用するに当たり自己の良心に恥じず、正義公道を守り、家業の盛運に努めることを誓うべきです。

その式典の盛大なること質素なることは問うところではなく、肝心なのは精神であります。

また、印章の種類や価格によりその差別を付けてはなりません。

皆ひとしく自己の信を托する宝器になんらの差違はないのです。

求めた価格の高下にかかわらず、ひとたび自己の神仏壇となれば、それに合掌する心に差別がないのと同様に、印章もまた値の如何にかかわらず、これに開眼合掌すべきであります。

護摩を焚きそこで懸命に祈られた印材に如何に名工が作成した印章でも、使用者の魂が入らず祖先への感謝の気持ちがない印章は、逆に一物体にすぎずに、使用者の印章への薄い気持ちが事故を引き起こす元となりかねません。

印章開眼の法則は古来一定の法則があったようです。

印判秘訣集には「印形開眼並びに供養得益」の項にその作法を述べていますが、これを現代印章に当てはめるのは疑義を生じ、一般には行われ難いてんがあります。

このように入魂開眼してこそ、印章の使用に当たっても充分慎重を期する精神力が養われるのです。

(2)印章の清掃

<月一回は必ず励行>

新印を調整した場合、実印なら前述の入魂開眼をおこなった上、直ちに印鑑届を為すべきです。

改印なれば手続きは市区町村役所にて即座に簡略に出来ますので、必ず怠ってはいけません。

愈々使用にあたりて、月一回はいずれの印章においても、この徳に報ずるための感謝を行うべきです。

何の形式ばった事ではなく、心に充分の謝徳の念を以て各印章を清めることであります。

即ち月に一回の印章の掃除であります。

この謝恩の心行は必ず印徳をもたらすものであることを心得るべきことです。

posted: 2014年 7月 15日

第19章 印章学による印章・・・その8

(8)字頭(じがしら)

前印とも称し、捺印時に印章の前後をわかりやすくする為に、印顆(本体サイド)の中程に附したものです。

指当、象眼、丹入、鋲付の4種類があります。(関西では、象眼や丹入は使用しないので、写真にはありません。)

この字頭は殆どの印章についているものですが、この字頭を頼りに指でさぐって押捺するので、却って乱雑な印影になることがあります。

「さぐり」という俗称はここからきています。

字頭がない方が、押捺の際に印面を確認しなければならないし、よく注意するので、印肉のむら、塵埃の付着などもすぐわかり、押し損じが生じず、位置も正確に立派な捺印ができるとともに、その物件に対して冷静な態度で処理することになります。

捺印の慣習も備わり一挙両得であります。

字頭が無ければ不便であるという人がいます。

これは印章の捺印を軽んじている人であります。

印章を慌てて捺印して信用を失うのみならず、証印事故で身を亡ぼすことにも発展しかねない。

関西では昔から高級印材には字頭は一切ついていなかった。

今は既製の認印をはじめ大衆的な印材には全てつけられています。

しかし字頭を凶とすることは、誤妄の説です。

字頭を指して、印材を傷つけることは人体を傷つけることと同じであるとする説は行き過ぎた迷説で、前であるということで附したので、決して傷ではありません。

字頭は個人正印の外は法人印、その他には附しても差し支えがありません。

個人印でも副印には附してもかまいません。

只それには指当と鋲打に止めるべきで、象眼丹入は避けた方が良い。

金銀プラチナ等の挿入は印章の品位を損なうものであり、浪費と増長心を意味するものとされています。

字頭のない印は最初は確かに押捺が難しいが、すぐに正確に美しく捺印できるようになるものであります。

いつまでも不正確な印影しか得られない人は、その人の粗野と不信の反映であります。

 

posted: 2014年 7月 10日

第19章 印章学による印章・・・その7

(7)具備すべき印章

<銀行印>

銀行取引に主として使用する実印に準ずる印章です。

重要物件にても実印を必要としない場合に用います。

特に銀行等の預貯金、小切手等資産印として金銭の出入りを司る印章ですので、その善悪は家運の盛衰にも関係するところが多いと言われています。

寸法は実印と同様の五分丸(約15ミリ丸)・・・姓名入りの場合

ないしは、一回り小さい四分五厘(約13.5ミリ丸)・・・姓のみの場合

が良いかと思われます。

上記の通り、刻字は姓と一文字姓の場合は印字法を使用する(役所と違い、ダメな金融機関はありません)。

姓名によっては姓名合わせて彫るのもかまいません。

これも刻者とよく相談が肝要です。

銀行印は実印を混用せず必ず区分すべきであります。

銀行等への用向きは代理人をしてなされることもありますので、このような場合実印を紛失、悪用の恐れもあり、銀行専用印を使用するのが万策です。

その他印鑑証明の不要な重要文書一切に使用される。

●実印は銀行印と離して別個に奥深く秘蔵すること。

●銀行印は法人と個人を区分し、兼用は不可。

●銀行印と認印は、その人の地位や役職に応じて、その副印を何顆でも備えてよい。(同型印は不可)

●小切手、手形に使用する銀行印は象牙材が特に好適である。

 

<認印>

俗に裏印とも称せられる名称の起こりは「認めた」「承認した」という意味で押したことに由来しています。

「認」という字は「言」(ことば)に「忍」(しのぶ)を組み合わせた諧声文字です。

現今の法律では実印と認印の間に何等の差別も設けられていません。

これは認印であるから、仮に承認したまでだという遁辞は認められていません。

効力は何れも同一でありますが、例えば実質上同等であっても、衣類にも正装と作業着の区別があるように、その使途を区分して備えることが至当です。

また実際上において、このことで不測の災難を未然に防いでいる場合が多いことも事実であります。

認印を実印にすることも出来ますが、その印章の取り扱いにおいても信念においても粗漏を来すことは当然と言えます。

対人、対金銭の保証印を安易に只漫然と押して後日の悔いを残している人々には、軽重二重の印章を用意していない人が実に多いということです。

その印面の大きさは三分五厘(約10.5ミリ)丸が主流でありました。

しかしながら、役所での押印廃止や、インクの浸透する方式のスタンプ(巷ではメーカー名のシャチハタ式が通り名です)の大量普及で、認印の捺印回数が意識的に激減させられています。

そのために認印の役割が少し変容してきていると感じます。

これは試案としてのご提案ですが、肩の張った認印・・・少し重要な箇所に朱肉を使い捺印する・・・その折には三分五厘という10.5ミリ丸は既製の認印10ミリ丸とどんぐりの背比べとなります。

そこで、三分五厘以外に四分(約12ミリ)丸の認印をお持ちいただくことが良いかと思いますし、これが重宝する時代になってきていることを実感します。

言うまでもなくそれより大きい認印は、押印欄からはみ出し見苦しさとその人の人格の虚栄を垣間見させることがあり、避けるべきであります。

尚認印の使用が頻繁であれば、その材は象牙にされることが得策です。

そして実印・銀行印・認印のなかで一番小さい面積の印面となりますので、文字の太いばかりの印相書体では朱肉が文字間に詰まり見苦しくなりますので避けられる事が好ましいのは当たり前ですが、分かりやすい文字の楷書や古印体は、上記肩の張った認印としてその気品には欠けます。

やはり印篆の増減法と那依法を利用した小篆の流麗さが対人の美意識を捉えることでしょう。

posted: 2014年 7月 10日

第19章 印章学による印章・・・その6

(7)具備すべき印章

藤本胤峯先生は著書『印章と人生』で、日常生活において最も必要な印章を5顆として、その内容を次のように示されました。

1、実印

2 認印

3、銀行印

4、家庭印

5、婦人実印

その意図するところは、家庭を中心に考えられていました。

ある意味、これは順序であり、女性実印は5番目に位置づけされていました。

これを材料として「印章5本セット」として販売されている所もあると聞きます。

しかしながら、時代の変遷と共に考え方が、家から個人に変わっています。

ここでは、考え方は勿論藤本流でありますが、時代的考慮を含み、実印・銀行印・認印というコンセプトのもとお話を進めていきます。

 

<実印>・・・その1

男性実印、女性実印という区別なく、お話ししていきます。

実印は、一生を共にする宝器であり、世に一つの物でなければならないことは、これまでにも何度もお話ししてきました。

実印に良印を持つために不知不識の間に向上している人もあれば、反対に悪印を所有するために如何に業務に焦り身を粉にして働いても落ち目々々に転落している人も決して少なくありません。

石川啄木は『一握の砂』のなかで、「働けど働けどわが暮らし楽にならざる

り じっと手を見る」とした生活歌がありますが、これを印章論として換言すると、じっと手を見るのではなく、己が実印を心にとめてみるべきであります。

この運命のカギと言っても過言ではない実印の調整に当たっては、特に慎重を期さねばなりませんが、残念ながらこの実印の篆書に実に誤りが多いことが事実であります。

一つには、太く醜い印相書体なる怪物印がまだまだ横行していることにそのほとんどの原因がありますが、もう一つには篆書や印相体として販売されている業界にソフトに誤りが多いということもあります。

その誤った文字の実印を平然と使用していて、開運などあるはずもなく、啄木の歌の中を繰り返すこととなります。

実印には、正しい篆書体をお勧めすることは当然でありますが、その上に今までお話しさせていただいたような真善美を求めて頂ければ幸いであります。

<実印>・・・その2

印面の大きさは五分丸(約15ミリ丸)をお奨めいたします。

既製の印鑑の10ミリ丸を普段使用していると、15ミリ丸というのは、非常に大きいという印象をお持ちになられる方がおられます。

堂々の風格を要する実印が小さいということは、品位を卑屈にし、何となく自己の品格まで狭量卑縮のように思えるものです。

だからと言って、六分丸(約18ミリ丸)や7分丸(約21ミリ丸)の厖大なる実印を使用することは一見して、その人を誇大妄想狂ならずやと不信嘲笑を蒙り、知らない間に大きな損害を被るものです。

中庸中道の五分(約15ミリ)丸の意は、陰陽和合の吉寸であり、印の品位にも最適であります。

姓名共に彫刻することは差支えがありませんが、必ずその中に姓名の名を刻すことが肝心であります。

それは、実印が自己を表し、親兄弟、配偶者にも貸し借りができない、この世に唯一つだけの自分のものであるが故なのです。

よく未婚の女性の実印は、結婚して姓が変わるから名のみで彫刻すればよいというような説明をされるハンコ屋さんがありますが、それは役所の論理で、名のみでもよいとするのは実印の主要字が名であるという印章の本義からきている事なのです。

また、名前によりましては、名だけの方が寛容且つ重厚に配文が得られる場合があります。

一字名の時は「印」または「之印」を加えるとよき配文(レイアウト)となる場合がありますが、登録が出来ない市区町村もありますのでご注意ください。

その辺は、彫刻者とよく相談されてお作り頂くと宜しいかと思います。

不動産登記、公正証書、長期契約物件、印鑑証明を要する物件、その他重要物件には印鑑届を為した実印をもって為すべきであります。

posted: 2014年 7月 10日

第19章 印章学による印章・・・その5

第19章 印章学による印章

(6)字体と刻法

<よき文字、よき配文>・・・その1

ハンコ屋さんも知らない人が多いので、少し難しいお話ですが、しばらくお付き合いくださいませ。(どちらかというと、ハンコ屋さんへの啓発でなく啓蒙かもわかりません。)

●何故、ハンコに篆書体を使用するのか?

●その篆書体は、現代印章において、何故朱文(浮彫彫刻)なのか?

●篆書があるから、自分のハンコが他のハンコと区別が出来るようになります。即ち、他に類のないあなただけのハンコが出来ます。→これは、何故なのか?

●何故、他の書体では無理なのか?

 

以上の説明に入ります。

中国印章史、唐以下を今体とし、秦・漢・魏・晋を古体とします。

これは印の正制であります。

今体は朱文を要としたる六朝以来の変制であります。

この制こそ現代印章の祖というべきであり、六朝の頃は変化があったが、「未だ偽誤に至らずこの時代の朱文には尚印篆に拠れり」といいます。

よって、現代印章は朱文を以て篆源を正しくして、機宣に応じて小篆を用いるも正法を守り、芸術的香気ある作品でなければなりません。

正しい印章は、各氏名に調和する印篆を用いるのですが、ここに印篆について概略の説明をいたします。

印章の文字をこれを印篆と称して、秦八体の一つにして方正質直にして(文字画数の)増減の法があります。

故に姓名学に則して悪姓名を改名する必要なく、正しい増減法を以て画数を損益して、良い数理を表して用いることが出来ます。

印篆は秦漢のとき印章のために設けられた一体であります。

この篆法も唐に至り断絶して雑体篆を用い、大篆、古文、奇字等までも使用したのです。

元の時代に至って吾子行が印篆を見出し再び世に現れ、これを基として印章道は大いに改まり、清の名印時代がこのようにして出現しました。

「秦ニ至リテ八体ノ書アリ、ソノ一ヲ摹印篆ト云フ、古ヲ去ルコト未ダ遠カラズ、其ノ法由来スル所アリ、秦漢ノ制ヲ承ケ公事ニハ官印アリ、家ニ私印アリ、牽強杜撰ノ失ナシ、魏晋ヲ歴テ六朝ニ至リ少ク改易アリト雖モ大体ヲ失セズ、サレバ数代ヲ歴テ天地更変スレドモ、独リ印章ノミ守リテ制ヲカヘズ、誠ニ信ヲ示スノ重キヲ見ルベシ」と。

また古書、印判秘訣集(享保)にも「文字ハ説文ノ古文字ヲ用ウルナリ、異国ニハ八体ノ中ニ刻符篆ノ字アリ、多クハ是ヲ鏤メ用ウルナリ」と。

現代印章はこの制にかかわりなく変体文字が横行しています。

相当に研究を積んだ印人であっても正印は奇字を用い正法のあることを知らない者少なしとしない実情であります。

印篆小篆こそ印章の正しい字体であります。

長くなりましたので、次回とさせていただきます。

<印例の規格なし>

藤本胤峯先生は多くの著書を残されました。

その著書の中で、最後の『財運と印章』にはお弟子さん方の多くの印例が載っていますが、先生の作は一つです。

唯一印例が示されたのは、昭和9年の『印章の常識』であろうと思います。

その後、そのことを『印章と人生』の中で触れて、次のように記されています。

「印例を示すや、外形のみに追随し、その刀法排劣にして人心を迷わせる愚作の横行を見た。<鵜の真似をする鳥、水に溺れる>というが、これらの似非の輩はいつか馬脚を現して世人の嘲笑のうちに霧散したが、尚一部が蟠踞しそれらの印章に起因する幾多の災難を想うとき、その一端をも示すことを恐れるのである。」

印章の正しい刻法は、判下(ソフト)によるものだけではなく、印刀を筆として印材を紙として、精魂込めて彫りあげて、初めて気品高き名印を生ずるのであります。

机上の印章論は窺がうに易く、その字体を得ても(ソフトを有しても)、これを布置配文(レイアウト)し、那依し正則俯仰、渾然一体となり情意豊かな印章はできません。

唯々刻者の技術と人格がその印字を生かして人生の宝器としるか、瓦礫の駄印とするかにあります。

字体の外形のみに囚われることは無用であります。

小篆、印篆は調和よき良印を得る上、時には調和を破り奇樸を求めることが出来ます。

この奇は怪奇の奇に非ず、自然の秀色であり美術であります。

「凡ソ印刀ヲ執リテハ何事ニモ妨ゲラレズ、小篆印篆ノ出典ヲ明ラカニシ、印ヲ能ク知リ印面ニ書クガ如クスベシ、然レバ細大、疎密整斉、風流ハ自然ニ生ズルモノナリ、コレヲ古撲典雅トイフ」

<印影は範(かた)ありてなし>

印章は姓名の組み合わせであり一様でありません。

同一であってはいけないのです。

それぞれに個性のあるところに妙趣が生じ、偽造も生じないし、変造も出来ないものです。

印文のレイアウト、これを配文布置(もじのくばり)と言います。

それは、各姓名に応じて千姿万態であらねばなりません。

楷書・行書・隷書・草書より更に変化の多い篆体の妙を遺憾なく発揮するところに、真善美の印章があり、世に一つしかない印章が出来上がります。

文字の芸術性ということでなら、篆書以外の書体、とりわけ書という分野においてはその存在は大きいと思いますが、文字のデザイン性においては、篆書を抜く書体はないと思います。

最近のことですが、デザイン関連の職業の方とお話をしていて、「均斉、対称性、その変化性においては抜群の能力が本来ある書体ですね、それを小さな世界で表現されることはすごいことです。」と称賛をいただきました。

配文の要諦は「妙」の一語に尽きます。

技術の優れた刻者とは、妙手を足るに達した人です。

ほんとうに一寸した妙手が印を活かし気品を備えるものです。

印例でも口でも説けず、言わない境地といっても過言ではありません。

「妙」という字は、少(わか)き女のみだれ髪、結(い)うにいわれず、解くにとかれず・・・。

印章はそのもつ特性が印章の信を示す意義であります。

小篆印篆の自由闊達の一人舞台であります。

印例のみに拘泥しては良印は求められません。

posted: 2014年 7月 10日

第19章 印章学による印章・・・その4

第19章 印章学による印章

(5)会社印・・・その1

リーマンショック以降、会社の倒産はよく聞く話でありますが、設立が急激に少なくなりました。

このところ会社設立が以前よりは増えてきだしたかのように思えます。

会社組織にする段においては、個人商店ではさほど重要でなかった程度の書類にも、いろいろな印章が必要となります。

しかし、印章は金庫や空調機器、コンピューターなどから比べると価格が低いので、慎重に選択することが少ない買い物であります。

印章に関する限り、多くは軽々しく考えられているようです。

極端な例では、2~3店に見積もりのFAXを入れて、安い所に注文をいれたり、更にひどい所は、入札を行ったりしていると聞きます。

印章に関して、一概には言えませんが、価格が安いということは、まずいということです。

印材が粗悪であり、技術も拙劣であります。

価格に選定の基準をおいて低額なモノを求めれば、最低なものを要求するのと変わりません。

まずい印章を持つことは、単にそれを持っているということに止まらず、そのまずさが書類を通して広く社会に広がっていくことになります。

会社の信用上に悪影響を及ぼすだけでなく、必ず何処かで笑われていることでしょう。

無心な会社印、役職印などが意外な注意をひくものです。

見積書、契約書などは相手に様々な感銘を与えるものですが、これに風格、貫録ある印を押捺すれば、それによって内容に充実感を与えるものです。

その結果、信用が増大し、実際の業務内容にも反映し、一層の貫録を備えることとなります。

会社乱立の時代では、粗末な社印でも気づかなかったが、もはやそういう混沌時代は過ぎ去り、稚拙な印章は見苦しく恥ずかしい存在となることでしょう。

これからは気品ある社印が商戦のアイテムとして活躍する時代となるでしょう。

機先を制して立派な印章を整えることが商機を捉え繁栄する条件となることでしょう。

(5)会社印・・・その3

<割印>

割印は契印として用います。

実印、銀行印、認印など、あらゆる印章は全体で一個の形として調和を採れるようにレイアウトされています。

その一点でも欠けると全体の美を損なうようになっております。

それに対して、割印は印影(押し型)が二つに分かれることに機能の本質を置き、レイアウトされています。

以前は何某、何社割印、契印と彫刻することが多かったが、最近は割印、契印の文字は容れないで、唯その名称のみを彫刻いたします。

これは仕切印、または副印として兼用されるようになったためで、差支えのないことです。

しばしば小切手などに銀行印や会社実印(役職印)を使って契印にしておられるのを見かけますが、これは名を割ることで、社名、家名に対して無礼不敬の仕業であり、衰亡を招くと言われる。

姓名を軽んじることは厳に慎まなければなりません。割印は必ず具備するものであります。

(5)会社印・・・その4

<社長印>

社長印は会社を代表する人の印章であり、その会社で最も重要な印章であります。

所轄官庁へ届け出たもののほかに、使用回数の多い小切手、手形などに使用するものとして、他に副印として作るのもかまいません。

社長印には一般的に二つの形式があります。

一、社名まき・・・周囲を社名で取り巻いて、その中に社長印(代表取締役印)と入れます。

二、社名をまかない場合・・・これは社長○×之印、○×社長之印、○×社長、代表取締役○×、とレイアウトします。

社名も社長の姓も入れないで単に社長之印、あるいは代表取締役印と彫ってある物を時折見かけますが、これは極めて軽薄な感じを受け、レディメイド(既製品の延長)式であり、印そのものに何ら権威もなく、品位を示さないので、避けられることが賢明かと思います。

それが登記できるとかできないとかいう問題では、勿論ありません。会社の信用の問題なのです。

社長印の大きさは六分丸(18ミリ丸)が最適であります。

副印としては、5分5厘(16.5ミリ丸)。

これ以上に大きなモノは、大は小を兼ねるというより、会社の常識を疑われます。

印材は、最高品の象牙が良いでしょう。社名まきの場合はなおさら象牙を使用すべきであります。これに次ぐものが、水牛材です。

柘材は社長印として、これほどうらぶれた感じを与えるものはありません。

一見してその内容を見透かされ、不利益この上もありません。

印章選択でケチり、重要な契約を逃したのでは、元も子もありません。

社長印には品格が必要です。

社名まきの社長印で社長の姓が入っていないものは、歴代社長がこれを使用してもかまいません。

しかし社長の更迭と共に社長印を改めることは、捺印の責任という点からも、安全という見地からも賢策と言えます。

 

posted: 2014年 7月 10日

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