第19章 印章学による印章・・・その3

(3)印材の選択

字法、章法、刀法に相関連して大切なものが印材です。

印材は、珠玉石、黄金を初め木、竹に至るまで多種類な材がありますが、遊印、雅印は別として、実用印章に適している自然材は、象牙、水牛、柘材の三種であります。

身なりや足元を見て、その人を観るのと同じく、印材を見てその人の心を知ることが出来ます。

印材を選ぶところの所業は、なんでもない些細なことではありますが、実にその人の心が良く反映しているものであります。

一生の伴侶、家財の守護神として、信を示す宝器の印章に、いくら高級の材を以てしても決して贅沢ではありません。

現在の社会的立場が低く、経済力もないので、柘の三文判でよいとする人と、現在の手元では水牛ぐらいで良いと思うが、将来ある域に達した時を考えて、たとえ実印だけでも象牙にしようと考える人との差は、将来の人物の大差を表現したものと考えられます。

私印の印材には金、銀、プラチナ等はよくありません。

これは浪費性のある見栄えを張る性格の露骨な表現であります。

また人の上にありがちな、ただ飾り物にすぎない人に備えられる印章の材であります。

水晶印は財運不遇の統計からも避ける方が望ましいものです。

和牛、合成樹脂類は昔より印材と下は不適格であります。

印材の選定は、第一に象牙材、第二に水牛材とすれば万々間違いはありません。

次回は印材の寸法についてお話しいたします。

第19章印章学による印章

(4)印材の寸法・・・その1

寸法という言葉が、尺貫法の廃止から時間が経ちますと、今の若い方にはおわかりにくい言葉かもしれませんが、職人の世界ではこの言葉がまだまだ生きております。

商売屋さんの世界では、消費者にわかりにくいということで、西洋寸を用いますが、英六輔さんのお言葉をお借りするなら、日本の実用には本来なじまないのであります。

前置きはそこまでとして、印材の寸法を述べるには、二つの視点があります。

一つは、印面の大きさです。

もう一つは、印材の丈(長さ)です。

まずは、印面の大きさから・・・

実印においては、市区町村の条例での規定がありますが、印章の専門店としては、そんなことを逐一述べる必要性はありません。

紳士淑女がお持ちになり、堂々とご使用になることが出来る寸法を提示すべきだと考えます。

その大きさは、5分(約15ミリ)です。

嘗ては、男性実印と女性実印という言い方をしておりました。

それ以前は、女性実印という言い方はなく、婦人実印、そしてそれ以前は副印という言い方さえしていました。

もっと以前になりますと、全く封建的で「女子に印は不用」とまで言われていました。

藤本胤峯先生が『印章と人生』を執筆された時代では、その著書の中に、「婦人実印・・・妻の実印である。印面三分五厘丸(約10,5ミリ丸)より四分五厘丸(約13,5ミリ丸)まで・・・中略・・・妻の地位が確立せる今日その活動範囲は極めて広く、主人の実印と共に一家必須の宝器である・・・」とあります。

しかしながら、時代の変遷とともに女性の社会的地位の向上というより男女同権の今日、その大きさは同じであるべきだと考えます。

ただし、美が優先する印章の世界で、女性が姓名でなく、名のみを彫刻される折には、その文字数が3文字ぐらいまでなら四分五厘丸(約13,5ミリ丸)が美しく配文(レイアウト)されます。
規格的に自己判断されるより刻者とよく相談される方が望ましい印章の完成となります。

認印についても、役所業務の押印廃止にともないその果たす役割が、時代と共に変わりつつあります。それは通帳に印影が添付されなくなった銀行印についても同様のことが言えます。

(4)印材の寸法・・・その2

銀行の通帳に印影が添付されなくなって久しくなります。

銀行印の大きさは、男持ちが四分五厘丸(約13,5ミリ丸)、女持ちが四分丸(約12ミリ丸)と言われてきました。

既製の認印を銀行印にお使いの方にとっては、13,5ミリ丸は大変大きく感じられるようですが、使い慣れるとそうでもなく、メインバンクはやはり13,5ミリ丸をご用意なさるとよいかと思います。

認印は、役所ではほぼ不要になり、宅配便の荷受け印や回覧板の印が浸透印(シャチハタ式)になっているのが現状かと思います。

認印の出番が少なくなりましたが、案外年齢を重ねていくと必要となります。

少し肩の張った認印・・・何らかの会やマンションの会計監査の折の承認印や人前で押捺しなければならないような時、やはり四分丸(約12ミリ丸)の大きさが適当で貫録ある姿を示します。

 

次に印章の丈(長さ)についてです。

浅草の観音様のお姿の丈が一寸八分(約54ミリ丈)で、その長さが吉祥寸であるとか、一寸五分(約45ミリ丈)がよいとされる地域があったり、マチマチであります。

吉祥寸は、非科学的だと非難することもなく、この数字は15ミリ丸に対して、非常になじむ合理性のある長さでもあります。

この数字のよしあしは、易より出でて、その霊動力は無視できない物があります。

古来、七五三を欣び、八を開くと祝い、四を死の通音に感じて嫌う日本的慣習があります。また、数の神秘に吉凶を左右された例も事実あります。

現在は2寸丈(60ミリ丈)の長さのモノが多く一般的であります。

指の長さが長くなった現代人には合理的な長さであるとも言えます。

次に、『印章と人生』で注意を促している長さについて補足しておきます。

●八分(約24ミリ)以下の印丈はなるべき用いないこと。

●二寸一分(約63ミリ)以上の印丈も私印正印には不適。

●一寸二分丈(約36ミリ丈)は貧乏印といわれ、統計上にも有徳の人の印丈にこの寸はない。

●一寸九分丈(約57ミリ丈)は絶対に凶寸である。

→この丈は、二寸丈(60ミリ丈)の印面を削り、改刻すると多くはこの丈に近づくので要注意!

●訂正印のような小寸で事務的なものには、数理を考慮しなくてもかまわない。

寸法という数字のお話の最後に、役所での印鑑登録が可能だからといって、10ミリ以下の小寸のものや、逆に16.5ミリ以上のもの18ミリや21ミリ丸という大きな印章を登録することも常識を欠く人と取られ、却って信頼をなくす結果となりますので、要注意です。

 

posted: 2014年 7月 10日

第19章 印章学による印章・・・その2

(2)印顆の形態

遊印を除く実用の印章の形状を検討します。

印顆とは印章の体を言います。即ち印体であり、印材の形状とも言えます。

印顆は印章の体で、印面に彫刻された文字を印肉で押捺したものが印影であります。

刑法上では、印顆に対して、文書上に押捺された印影のみを印章と称していますが、普通は印章は印顆と印影を区分した考えた方が合理的であります。

印顆の姿は千姿万態ですが、本当に用いられているものは、意外と少なく一定であります。

大別すると「刳りもの」と「棒状(のべ)」の二種類です。

会社印、店判、住所印等は刳りでも構わないが、個人印章は棒状が望ましい。

よく自然の状態の牙材や角材、あるいは竹根は、一見風流に感ぜられますが、正印材としては邪道であり、却って印章の風格を損なうものです。

また、頭部に紐や環を通したものも見かけるが、これも印材としては下賤の貧相であります。

これらの材を好む者は、臆病な小心者かけちん坊であることは、意外で少し面白い統計もあります。君子は避けて用いないに限る形状であります。

刳りものの中でも天丸型といわれる会社銀行印型と呼ばれるものがあります。

これは法人銀行印としては構いませんが、社長印、会社実印となると棒状にキャップ付きが風格があり良いでしょう。

印面を顔面とすれば、印顆はその體であります。

字法の誤りのあるものを醜悪な目、耳、鼻、口とすれば、章法(その文字のレイアウト)の誤りは、如何に美しい明眸、紅唇と雖も何らの統一感もなく、バラバラに散在しているようなものであります。

字法、章法も整い、刀法も見事でも、印顆の異形異端なものは、不具廃疾の美人の如きものでありましょう。

この他に、嘗ても流行ったこけし人形の型が今また出現していますし、バット型とか、種々の形の下に印材を付けたもの・・・その意図が低級な需要者を狙っていることがおわかりかとも思いますし、心ある人は求めるはずもないと信じております。軽々しい感じの印顆は重要印章にもちうべきではありません。

たとえ若い女性でも、こけし人形の型式や樹脂材の和風と名乗っているもの、キャラクターものは、その人の常識と人柄を窺がい得るものとなります。

お気を付け下さいませ。

posted: 2014年 5月 14日

第19章 印章学による印章・・・その1

(1)現代印章の正制

<印章学の本質>

印章は自己の信を現わし、自分の分身の役目を果たす大切な宝器であることは、繰り返しお話ししてきました。

従って、自分の分身であるということは、自己の人格を表現し、その品位を印影(押し型)にも漂わせているものであるはずです。

印章史において、印章は過去数千年の歴史を有し、文字、彫刻、治金、美学、考古学、民俗学等によって組み立てられたものであることをお話ししてきました。

この複雑に交錯した諸要素によって製作された印章を、あらゆる角度から研究考査して、現代印章として系統的に組織し、あるいは分類してその正誤を問い、真に信を示すに足りる十分な機能を有しているかを検討するのが、現代印章学であります。

換言すれば、学理的に組み立てられた実際的価値より批判して、現代印章に再編成するのが、今日の印章学の本質であり役割でもあります。

印章学は、それ自身において十分な権威を備え、次に字法、章法、印顆(印態)、印材、寸法に大別して各部門より観察をくだして、これらが完備したものを以て、初めて紳士淑女の印章として及第点が与えられる。

また、これらの一つでも欠けたものは、避けるべき印章とならざるを得ないのであります。

最近の実態は、一つどころか、全面的にその大義なき印章の多いことには、驚かされる次第です。

<字法と章法>

印章三法に字法・章法・刀法があります。

以前に何度か説明させていただきましたが、「印章講座」を長らく開店休業状態としておりますので、再度簡単にご説明いたします。

字法とは、篆書の文字の形状よりどれを選択するかということです。これは章法と深く関連し呼応するものです。その章法とは、その文字のレイアウトのことを言います。

刀法とは、字法と章法により完成した印章のデザインを印面に彫刻することを言います。刀法の出来不出来でも印章はがらりと、その趣をかえますが、ここでは、あくまでも彫刻方法と考えてください。

その彫刻方法が、実用印章において、手彫り・手仕上げ・機械彫りと企画分類されて久しいですが、世はその手彫りと言う言葉のみが独り歩きする状況です。

手彫りを頂点として、高級から機械なら安物と言うレッテルが張られています。

しかし、そこには前述の残りの字法と章法が完全に抜け落ちています。

今までこの「印章講座」をお読みいただいた読者のみなさんならもうお気づきのことでしょうが、印章の出来栄えの正否を決める重要な66パーセント以上の分野が消費者の皆さんに隠されている・・・ある意味偽装されていると言っても差し支えのない状態なのです。しかも66パーセント以上です。

印章の刻字面を印面と言います。

即ち印章の目鼻立ちです。

如何に良い印材と腕の良い技術者の彫刻を以てしても、字法と章法が拙劣であれば、化け物が綾羅錦繍を纏い百鬼夜行する如きものであります。

<正しい字法>

印章文字としての正位を守る。

印篆と小篆を本源とする。

しかし、ここに考慮しなければならない点は、実用印章は対者に自己の信を示すことを要点としているので、文字を誤らず、且つ読みやすいもので、さらに気品を保つことが肝要であります。

奇を衒う如き文字は邪道と言わざるを得ません。

独りよがりの文字か絵か区別をつけることのできないような得体のしれない字法を採用することは、慎むべきであることは言うまでもありません。

<章法>

章法は秦漢の制を宗とします。

これも現代印章は、その全てを墨守していたのでは、却って章法を誤るものがあります。

我が国では円形のモノを主として使用します。

私印には特に古い章法も、実用上の利害得失の点からも、改変は当然行われたのですが、その根源は秦漢の正法に則し、朱文刻法により各種の印章の要求に応じて、姓名、社名を配文します。

そしてあらゆるものには範疇があり、その範疇内における改変は許されるものでありますが、一度その範疇を逸脱してしまうとそれはもう異端であり邪道と言わざるを得ないモノであります。

その代表的なものが怪物印とされる俗称で印相体と呼ばれるモノであります。

個々刻者の勝手な解釈に基づき篆書という範疇を逸脱し改変され気ままな方向に文字を歪めていくモノであります。結束、違う文字となったり、あるいは意味不明、誤字とまでなる者さえ出現してきます。

それだけ文字の規範は厳しい範疇に守られています。

ご自分の印章がそのような曖昧不気味なものであるかどうか今一度お確かめ頂きたいと存じます。

次回は実用としての印顆についてお話ししていきたいと考えています。

 

posted: 2014年 5月 14日

第18章 捺印法と朱肉・・・その3

(4)朱肉の使用法

<朱肉も人柄がわかる>

印章を朱肉の中へグット押し込むようなことは禁物です。

印面に肉面を軽く叩くように数回行い、たえず肉面が中高になるように心がければ、その印影(押し型)は美しく、印肉(朱肉)も永く色褪せることのない美しい色を保ち使用できます。

すり鉢型になった肉池(朱肉の入れ物)を見れば、その人の心がけもわかるし、だらしない捺印ぶりも察せられます。

安物で朱肉がつかなくなって、息をハーハーと吹きかけている様は、醜態の極みです。

年に一~二回は裏返して、小刀の先で一寸練るようにするとよいでしょう。

その折に、埃やその他の不純物が混入しないように注意してください。

容器は上質な漆器が一番です。

香合を肉池(いれもの)に使用しても良いでしょう。

合成樹脂のものは品がなく、どうも軽々しいが、かといって鉄製の物は、朱肉が化学反応を起こして、変色や硬化してしまい、直ぐに使用に耐えれなくなるので注意してください。

「ふた」は少しゆっくりしたものの方がよく、少しガタガタするぐらいを良しとします。

大きさは、15ミリ丸の実印や18ミリ丸の会社実印を捺印するには、直径6センチぐらい、3センチ角以上のモノには、やはり9センチ径以上のモノが良いでしょう。

朱肉の量が多いほどその寿命は永くなりますので、大きい目のモノを使用すると印影も美しく、朱肉も意外と長持するものです。

印章ケースに付属している朱肉の肉池は、出先で朱肉のない時に限って用いるものです。

あまりにも直径が小さく、どうしても上手く朱肉が付着しないから、捺印してもむらの多い拙い印影となります。

出先で重要な捺印をしなければならない折には、指先に朱肉を付けて、印面に叩くようにして使用するのが良いでしょう。

当店に輪郭が破損したので、彫り代えてほしいとご来店されるお客様の多くは、常にこの印章ケースの肉池をご使用になっておられます。

朱の色には、赤口と黄口がありますが、そう大差はなく、各人の好みで使用すればよいでしょうが、大体雅印や遊印は赤口を好み、実用印章は黄口が多いようです。

我が国は、紫が往来禁色であったように、中国では朱が禁色でありました。

朱は高貴を表徴する色であります。

殺風景な書類に一点の朱の印影は、信を示す重さと共に気品漂う光彩であります。

よき印章とよき朱肉は、その人柄を表現するものです。

posted: 2014年 5月 12日

第18章 捺印法と朱肉・・・その2

(2)朱肉の歴史

<神色を保つ>

様々な色彩の中で、朱の色は殊に奥深く実に美しい色合いであります。

黄色に近いものから赤っぽいもの、茶色を思わせるものまで、東洋人は朱を愛好します。

信を示す宝器である印章に、気品高き朱を用いたのも当然であります。

硃砂、辰砂を以て練成した高級な朱肉で押捺した印影は、数百年の後も燦然と不易の神色を保つものであります。

天然の朱に恵まれた中国では、昔より朱肉(印泥、印色)を用いましたが、我が国では朝廷に限られ、他は黒肉を用いていました。

室町時代より将軍は朱肉を公文書にのみ使用しました。

御朱印状による「朱印船」「御朱印地」などの語はそれによるものです。

朱は黄金と共に貴重な品であり、高価で且つ容易に手に入りにくい為、たとえ庶民に許されても到底使用は出来なかったと思われます。

朱は水銀原料の辰砂と硫黄の化合物で、石器時代の土器にも朱をもって彩ったものがあるそうで、天然朱によるものであろうと推察できます。

やがて水銀と硫黄で朱を作るようになりましたが、多くは中国からの移入したものでありました。

朱の価も高いので、黄金に等しい高価なものもあったようです。

徳川中期以降は、書画の落款印に朱印をもちいましたが、やはり印判は黒肉一色の時代は長く続きました。

明治以降印章の普及と共に、朱肉も許されて広く用いられ、本朱以外の安価な朱肉も出現し、黒肉は次第に退き今日の朱肉の時代となりました。

享保時代に印章は庶民に普及し、明治に至って朱肉が同じく普及しました。

朱肉が一般化された時は、印章も形態が今日のものに近づいており、朱文刻法による朱肉を使用する現代印章の誕生となりました。

朱肉は印章と共に大衆化し、その品位も共々に低落していきました。

辰砂製の印泥のような名品は、書画に親しむ一部の人に限られ、一般に用いられるものは、朱肉とは名ばかりの粗悪なものと成り果てています。

名人の名作の印章も拙い印肉では、その風格が十分に発揮されないことは言うまでもありません。

朱肉は本朱製を求めることが経済的にも得益が多く、押捺した時の印影も比較にならないぐらい美しさを保ちます。

重要文書は勿論の事、人目にさらされる免状の朱肉が朱液がスポンジにしみこまされたもので捺印されたものは時と共にその印影は薄くなり消えゆくようで、その免状の価値も下がって見えるのは不思議なことであります。

今日、良い朱肉を知らない人がその捺印経験の低下により多くなってきています。

一家に一つは、高級練朱肉を持っておかれると、その家の品格が向上し、正しい印章での捺印に必ずや印徳をもたらしてくれることと確信いたします。

(3)朱肉の製法

<古法に近い>

朱肉は中国では宋代に既に製造されています。

我が国へ渡来したのは鎌倉時代ですが、本格的な製造は行われていませんでした。

朱と艾(もぐさ)と油で製造されたのは、それよりずっと後のことでした。

鎌倉以前の朱印は、朱の粉末を糊で練って、指やたんぽんで印面に叩きつけて押印しました。

朱肉の製法は、艾を晒してヒマシ油の中へ入れて煮沸し、朱粉を入れるのが古くからの製法ですが、現在は艾を使用せず、紙綿、パンヤ、ちち草を用いて、朱も本朱(辰砂)は化学製品で代用されているようであるが、各々秘法としているため、その内を明かさないのが通常です。

嘗ては、石臼で手で練ったが、これが機械に代わり、朱肉の外見はよくなったが、耐久性に劣ります。

朱色の鮮やかさで朱肉の良否を判別する試金石として、一番我々によく分かるのが、賞状であります。

卒業証書や免状などは、身近に古いものが残っています。

それを見比べてください。

中には、未だに色鮮やかな朱色をはなつ印影が2~3はあるはずです。

それに比して最近の物でも、スポンジの朱液注入式の朱肉を使用したものは、色褪せ、中には消えかけの物さえあることを発見されると思います。

一生の思い出の卒業証書や、人にアピールしなければならない資格の免状の印影が消えていれば、その値打も疑われているようで、見ていて悲しくなりますね。

posted: 2014年 5月 12日

第18章 捺印法と朱肉・・・その1

(1)捺印の仕方

<印影は気分を反映する>

昔から印を彫る人はあっても、印を押捺する人はない、と言われるほどに捺印法は難しいものです。

第一に印肉(朱肉)のつけ方です。印肉は中央部が高くなる形にしておき、印面でその形を更に整えるように軽く数回叩くようにすると良い。

第二に印褥(いんじょく)であります。ゴム板では柔らか過ぎて輪郭に不同が生じます。ガラス板の上に和紙を印の大きさに応じて十枚~二十枚を敷くと、綺麗な印影を得ることができます。15ミリ丸の実印では、十枚が理想です。

第三は捺印です。印章に軽く目礼し、臍下丹田に力を込めて、ゆるやかに紙面に押し、指先で「の」の字を書くような気持ちで力を入れて「し」の字に引くように緩やかに離すと良い。

<人格と誠意を表す>

前回の捺印要領を心得て、次第とこれになじむようにしていくと、意外にも目上の人に認められることとなるでしょう。

朱の色も鮮やかな美しい印影(押し型)がどれ程に隊舎の心を動かすものか、計りがたい微妙なものがあります。

捺印は朱肉を付けて捺すだけで良いことではありますが、上品な押し方の上達は毎日の入念な押捺の末に達し得られるものです。

平素伝票などの簡単な箇所に粗雑な捺印ばかりをしている人が、いざ重要書類に晴れがましい捺印をさせられると、必ず気おくれして押し損じることとなります。

また、役所の書類関係に押印が不要になり久しい時間が過ぎておりますが、一般市民も押印回数が少なくなってきています。

そのことを合理的、ハンコが要らなくなり便利になったと考えておられる方は、市民としての押印の権利をはく奪されその経験を奪われてきているということの意味をもう一度考え直して頂きたいと思います。

印章の安物もその心に影響して忸怩の気は印影に及び人柄をぐっと見下げられて損失も大きいこととなります。

これは、日頃硬い椅子に無作法に座っているのが、社長室にある大きな安楽椅子にすわらされたもののようで、恰好がつかず落ち着かない醜態を演ずるのと同じであり、普段の心構えこそ本来肝心なことなのです。

何気なく見かける印影に、その人の捺印の態度を感じ、信念と誠意も窺がわれるものです。

人はちょっとした仕種(しぐさ)にも何か想いが伝わるもので、重要な署名捺印ともなれば、この仕種の表す感覚は、運命を支配するまでにも増幅されます。

いかに内容が充実した文書でも、そのポイントになる捺印が乱雑であれば、その誠意は疑われ、信用を失う結果となります。

捺印はひとたび誤れば一身一家を破る重大事をも喚起します。

談笑と酒杯の間に調印したりするが如きは身を誤る基です。

かりそめの契約も、自己の実力を考えた後に調印するべきです。

その捺印の慎重さは自然に印影に反映するものです。

今ここに金談が成立しても、その証書の捺印に不安がある時は、速やかに破談するのが上策であります。

契約不履行の書類の印影が何れも乱雑不正を暗示する駄印で叩きつけた捺印法であります。

posted: 2014年 5月 12日

第17章 印章の観察法・・・その8

(13)三文判

<印章の信威を落とす>

三文判とは、既製の安価な粗末なもので、昔は三文で販売されていました。

芋印、盲判、打ち込み等の別名もあります。

今は、100円ショップでも販売されています。

また一応別彫りなのですが、その素材が樹脂であるものを三文判的駄印と言います。

三文判を買い、それを日常の印章としているようなことでは、三文判的人種であります。

架空名義の第二預金等に三文判を用いて、却って疑惑を招き失敗した例もあります。

大切な預貯金に三文判を使用することは非常識であります。

三文判及び三文判的駄印の横行は印章を信用の対象とする社会の秩序を混乱させることになります。

たとえ一時の間に合わせとしても、この存在は不合理であり、自己の信用と家の名を冒涜することとなります。

三文判こそ印章の信威を卑しめる存在であり、信念軽視の表示となります。

 

<卒業記念の印>

卒業生に社会に出る餞として、印章を贈ることは大変有意義なことです。

しかし、これに形だけの三文判やそれに近い三文判的駄印を贈るのであれば、意図はよくとも却って滑稽であります。

晴れの門出の若者にピッタリとした誂えのスーツを着せずに、スニーカー履きにウェットスーツで旅立たせるようなものであります。

もし本人が無自覚のまま、三文判である卒業印を永きにわたり使用する時は、嘲笑と軽蔑を買うことになり、その損害は計り知れないほど大きいものです。

印章は人格を表しています。

三文判を以て記念とすることは極めて印章を誤る愚挙と言わざるを得ない。

出生命名と共に最高の実印を刻し、その子供のために備えるのは素封家に良く行われます。

成人の日とか、結婚の日にその印章にて保有する財産と共に印を授けるのであります。

贈られた子供たちは感激し、その印章と共に素晴らしい人生を過ごすこととなります。

印章を贈る時は、このようでありたいものです。

posted: 2014年 5月 8日

< 1 2 3 4 5 >