『工藝とは何か』を深く読み込む

『工藝とは何か』をじっくりと考えながら読み進めています。
ふと、何かを感じる件があります。
そのまま読み進めていくと、その感じたところが消えていきそうな気がして、拙い文章に記憶させてようと思います。
以前、柳宗悦の「書論」(1937年発表)の中に次のような文章を見つけた。
「篆書は書としては若く、従って未だ充分な美しさに熟してはおらぬ。」
篆書を飯の種にしているだけでなく、その美に囚われている私にとっては少しショックなことばでありました。
民藝の人の文字は、わりと可読性の中に美を見出しているのは、その為かとも思っていました。
柳は、「書としては」としており、その論考の出だしには「文字らしい文字は周篆から始まる。・・・中略・・・今では僅かに印章等に名残を止めるに過ぎぬ。」としています。
印章における篆書は書ではないと考えています。
私は図象だととらえ、古代人との意思疎通のツールとも考えています。
正確には、私の脳はそう捉えています。
印章は、輪郭という有限の中に、無限の変化をもつ篆書により構成されるデザインです。
輪郭という有限というのはルールであり、「約束」であります。
『工藝とは何か』 「一章 黒田泰三さんに会いに行く!」の中で黒田さんの決まり事(ルール)を三つあげています。
それは、「単色、轆轤成形、うつわ」であります。
黒田さんは、「ルールがあるということは自由なんだとわかったわけ。白磁をつくることによって、僕は初めて自由になれたんだ。」
また、「個性的なものをつくりたい人がいるけれど、それは変わったものをつくりたいだけじゃないの。僕はそれがいやなの。ふつうって何かも、いまだにわからないもの。」
民藝では「無心」とよく語られます。
何も考えずにただつくりつづけることかなと私も思っていましたが、最近、「境地」という事を考えます。
ふと、そういう域に至ることがあります。
あ~これなんだ。
言葉では上手く表現できない感覚。
私も印章という普段使いのものをつくって来て、そのなか中に「輪郭、篆書」という「約束」を見出し、それをフレームにして、この世界の深奥を覗いているのかもしれません。
今日はここまで。
posted: 2024年 3月 16日