仕事の拠り所

秋立てば それに従ふ 天地かな  星野立子

関東中心なテレビ局は、台風への警戒をわめき立てるなか、立秋を過ぎても暑すぎる大阪です。

先日、39度を超える京都での納涼会に寄せて頂いた道すがら、京阪電車の車中で、積読にしていた三谷龍二著『すぐそばの工芸』(講談社)を速読いたしました。
読後感を絡めて、最近思っていることをお話いたします。

私のつくる印章は、暮らしに寄り添う実用道具としての印章です。
そこから離れるつもりはありませんし、それが自分の思想であり、職人としての生き方ですので、誰に文句を言われる筋合いもありません。
「生活工芸」の考え方や「民藝」の思想は、私の仕事の一部をなすもので、すべてではありません。
しかし基底にあるもので、揺るがないものです。
バーナード・リーチが言ったように「自覚的な方法を持つ芸術家」と「自覚と無縁な職人」のつくるものは、天の円卓におかれた時に、どちらも「美しい花」であります。
「美しい花」に工芸、美術といった垣根はなく、芸術家のつくったものも、職人のつくったものも、美しいものには優劣はありません。
しかし何に依拠するかで、ものの本質は変わり、そこから生まれる感覚も少しずつ違ってくるように思います。
人が暮らす地面から浮き上がってしまった「工芸」への批判として、「民藝」が大地性を重んじ、「生活」を見失ってしまった作品群への自戒を持つことが大切だと主張する点に、私も共感いたします。
それは、なにげないようでいて、とても大切なことだと私は考えます。
そういう自覚を持つことが、今後の職人の在り方を決定づけるように思えてなりません。
現実は、ドンドン簡単にハンコができてしまう「無自覚な印章」を社会に輩出ではなく排出しているのが実態です。
それに対して、職人たる自覚を持ち「自覚有る印章」を消費者に提供するのと同時に、自らの言葉で「歴史ある印章の本質」を伝える事が大切だと思います。
著者の三谷さんは次のように話されています。
「ものの本質は、人の心に響くということだと思います。上手に話す人の言葉が、必ずしも人の心に届くものではありません。朴訥と、決して上手くはない喋り方の人の話がむしろ心に響くことは誰もが経験してきたことだと思います。」
今は、誰にでもできる、いろいろな発信方法があります。
「自覚と無縁な職人」のままでいれば、いくら美しいものを追い求めても、業が息絶えていては、無用の長物としての技能か、趣味と同一化した自己満足の技術屋ごっことなってしまうこと然りであります。

お盆を前にして、バーナード・リーチの言われた「無名の工人」が帰ってきておられます。
先人に合掌を。

posted: 2018年 8月 8日