中庸を定める生き方
連日の新型コロナ感染者数の拡大が人の心の中に不安をもたらしています。
今朝も、フェイスブックで友人がコンビニで買い物をしていると、マスクを外して大きなくしゃみをする人がいたと話されていました。
このような世情で、どう生きるかが問われているような気がします。
昨日もフェイスブックのあるグループにある書き込みを読みながら、このご時世を利用してと・・・カミュの『ペスト』を思い出すと書いたら、変な風に誤解されたので、作品のあらすじをコピペしておきました。
そのあらすじを検索していると、カミュ『ペスト』が書店での売り上げが急激に伸びているとの記事を見つけました。
また、小松左京『復活の日』も同様であるとのこと。
中庸という言葉が、昨夜の夢で頭の中をよぎりました。
儒教の教えでもあり、四書の最後に学ぶ書でもあります。
中庸と中道は、かなり違います。
音の響きから真ん中を意味するように感じますが、真ん中であるという事は、自らの指針や生き方をきちんと持たないとなかなか難しいものです。
声の大きい方に靡いたり、忖度したり、お金の方に引き寄せられたリと・・・
その中庸に生きるのはかなり至難の業であります。
技術をしていると、単独では上を目指せません。
一つの道というのは、先人からの流れであり、後ろには後進が続いているものです。
教えを乞うという事が必要なのが技術に生きる人の定めであります。
私もまだまだ教えを乞いたいのですが、今は亡き先生方より優れた方には出くわしていないのが現状です。
私は多くの先生に教えを乞いました。
在る先生は右が正しいと言われる。
その逆を言われる先生もいました。
どちらも大先生です。
だけれど、作品作りで考え方が違うのです。
手技の技術の場合、杓子定規に真ん中を行くとはならないことが多くあります。
A先生は4と言われる。
B先生は2が良いと・・・
C先生は6が正しいと・・・
数学的な思考では、4+2+6=12
12÷3=4
解答は4です。
そうはならないのが、手技の修業です。
その中庸を定めるには、各先生の指導の想いと意図を計らねばなりません。
それが修業で、その時の作品の在り方より、その後ず~っと生きて来る解答を自らの中に作ることとなります。
中庸とはそういうことではないかなと、この頃強く感じます。
新型コロナウイルスの感染が広がる中で、強く自分を保ち生きたいですね。
追加記事・・・
私の関わってきた先生方は、作品に対しての意見が違っても、相手の良いところを認める力を持っておられました。
決して、自分の掌の中に人を集めようとしませんでした。
集めると安心感を得るのは、自らの技術に自信がないからです。
陣取り合戦のように、敵味方を区分するやり方は、技術の世界では考えられない方法です。
去る者は追わず来る者は拒まず
そういう先生方だから尊敬できたと振り返ります。
