節分に印章文化を考える

節分や よむたびちがふ 豆の數
・・・正岡子規

おはようございます。
年男になると、豆を数えるだけで大変ですね。
人に歴史あり、また印章にも歴史があります。
実印の制度は、明治の太政官布告が大きな役割を果たしたことは、確かな事ですが、それを支えるあり方は江戸時代に形成されてきたものです。


またその土壌になったのは、シルクロードを通じての最終地点である正倉院の律令制度の時代にも遡れます。
そしてさらには、それを受け入れた日本人の民族的礎は、「おしで」という約束事の形成の徳があったからこそであります。
即ち、昨日今日始まったものではなく、日本人のなかに少しずつ蓄積され、継承されてきた文化だということであります。
最近、実用印が無くなっても、書画の落款印や賞状のはんこ、御朱印帳の印章は無くならないという話が同業者の間で言われています。
商売上は、そこに生き残りがあるのかもしれませんが、私は少し違う観点から印章文化を考えています。
それは、印章自身の中に脈々と継承されてきた人と人との関係の表現方法としての印章というあり方で、「おしで」の思想から姿を変えつつ日本人に継承されてきた大切なものであるという文化であります。
実用は商売、鑑賞用や芸術は文化と考えるのは、狭い印章の捉え方だと私は考えます。
全てが関連していて影響を与え合っているという前提で、印章の在り方を創造をしていかないと、そこには未来はないとも考えてしまいます。
デジタルという思考も昨日今日に出てきたのではないと思いますが、デジタルの位置からいくら印章を論じても、そこには解答の欠片さえ見出すことは不可能であると思います。
世の人は、印章業界の人よりも情報過多の社会で、印章の置かれた位置を図っておられます。
デジタルでパソコンでこしらえた印章から印章を議論していたのでは、終局はもう目の前なのかもしれません。
印章を創造する力は、印章の中にありそれを継承してきた先人の知恵と暮らしに根付いた日本人の思考のなかにこそ求めるべきであります。

posted: 2019年 2月 4日