うぶな心

四十二、今 見ヨ

イツ 見ルモ

 

四十三、見テ 知リソ

知リテ ナ見ソ

 

『心偈』は、「こころうた」と読む。柳が晩年に体が不自由になってから作った短文のうたである。(今井雅晴の解説から)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コロナになった時、リモートワークの邪魔者にされた認印、そして行政書類からの「押印廃止」となった時に、ああ!もう印章はダメだなと思いました。

印章は法により守られているというよりも、それらから派生した制度により「習慣」化したものであります。

その「習慣」を取り除くのですから、自然と認印は忘れられていくことだろうと予想されます。

今ももちろん要り様な場面はありますが、要らなくなった場面の方がはるかに多くなりました。

「習慣」が無くなれば、忘れられるのです。

そう思い込んでいました。

それは、もちろん誰の眼にもそうなのですが、柳宗悦の「直観」から学び直すと、案外と「押印廃止」の号令も悪いことばかりではないのではと、思うようになりました。

柳の「茶道を想う」という作品のなかに、次のような文章が見られます。

「・・・どう見たのか。じかに見たのである。「じかに」ということが他の見方とは違う。じかに物が眼に映れば素晴らしいのである。大方の人は何かを通して眺めてしまう。いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、ある者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める。・・・」

 

印章は身近な道具であったから、見慣れている・・・丸のなかに人の名前が彫刻されている・・・ただそれだけの物、そういうところから解放された次元に入っていける。

柳は、「今 見ヨ イツ 見ルモ」の補足説明のなかで次のように言っています。

・・・私は「どうしたら、美しいものが見えるようになれるか」とよく聞かれる。別に秘密はない。初めて「今見る」想いで見ることである。うぶな心で受取ることである。これでものは鮮やかに、眼の鏡に映る。だから何時見るとも、今見る想いで見るならば、何ものも姿をかくしはしない。たとえ昨日見た品でも、今日見なければいけない。眼と心が何時も新しく働かねば、美しさはその真実の姿を現してはくれぬ。・・・

 

 

「習慣」からの解放である。

とりわけ印章は、捺印という行為が人生の岐路にあたるので、いろいろな雑念が多く入る物であります。

必要だから捺すということも然りであったのですが、欲目が多く入り、運命学や易学ならまだしも、「儲かるハンコ」「縁起の良いハンコ」などなど、時により開運商法や霊感商法などとも結びついていきました。

それらからの解放は、印章に美をもたらす好機であるともいえます。

篆刻の美は芸術の美です。

実用印章にも美があります・・・それは文(あや)の美です。

実用印章を彫刻する手が考えた文字は、模様や絵のように伝統と社会により洗練された工藝であります。

それを伝えることが、今ほど求められている時はないと思います。

 

『HANKO KIAN』の美をあなたの「うぶな心」で受けとめ、眼の鏡に映して下さい。

 

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posted: 2025年 2月 15日