自分たちはつくり手であって、消費者にはなるな

8月が終わっちゃいますね。
お仕事以外にいろいろあって、少しバタバタしている月末となりました。
昨夜のラピュタは、後半を見逃しました。

寝る前に少しずつ考えながら読んでいる『エンピツ戦記』(舘野仁美著)の宮崎駿さんのエピソードにピンと感じるところがありましたので、ご紹介しておきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宮崎さんは私たちスタッフによく言っていました。
「自分たちはつくり手であって、消費者にはなるな」
「消費者視点で作品をつくってはいけない」
いつのまにか社会は、消費者によって占められてしまった。今の大きな問題というのは、生産者がいなくなって、みんなが消費者でいることだ。それが意欲の低下となって、この社会を覆っている。
ジブリにおいてもしかり。人を楽しませるために精一杯の力を尽くすより、他人がつくったものを消費することに多くの時間を費やしている。それはじぶんのような年寄りから見ると、ひじょうに不遜なことである。もっとまじめにつくれ 自分のもてるすべてのものをそこに注ぎこめ と言いたくなる――。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

消費者になってはいけないということが、作るという行為の中に浸透してしまっては、よいものは、クオリティの高いものは、私もできないと思います。
ただ、このことと暮らしに寄り添うものをつくるということは、次元が違う問題です。
言い方が難しいのですが、消費者水準でものづくりをしてはいけないということだと理解しました。
また言い方を変えれば、社会の動向に合わせたものづくりをしていと、そのもののクオリティが社会水準になって、平均したものしかできなくなる。
平均的な大量生産をして、大量消費に結びつける思考が今までの経営哲学の在り方です。
消費者に長年愛用していただけるものではない、消費者水準のものづくりを印章に例えますと、文字にイラストをコピペした印章、文字をパソコン機能で幾何学的なものに変化させた印章・・・それらは、消費者水準のモノづくりであると言えます。
それらは、印章とその文字を探求した職人の技を活かし、精一杯の力を尽くしたというより、他人が作ったイラストやコンピューター機能を利用したことを自分の技量と勘違いしたものづくりであるということだと思います。

また、展覧会や競技会、書道展の作品作りは一生懸命に取り組むが、お客様渡しの印章はそれなりにならまだしも、性根の入らない別物と考えているようでは、賞状や肩書が泣いておられる方もおられます。
何のための技術か!
技術者が印章の価値を落としている事例も耳にするようになりました。

「もっとまじめにつくれ 自分のもてるすべてのものをそこに注ぎこめ と言いたくなる――。」宮崎駿さんのお気持ちはよくわかります。

朝からご予約の客様がニヤミスをすることなく二組の方とのお話を終えました。
お一方は、成人された娘様へのお祝いに
もうお一方は、きちんとした印章を求めて群馬からのお客様。
遠方より有難うございました。
精魂込めてあたらせて頂きます。

posted: 2019年 8月 31日