印章無用論から学ぶ

「印章無用論が或る新聞に掲載されて、その反駁文を求められたことがあった。その論文は、印章に対する現代の認識は日用品の石鹸、ちり紙、雑貨品に対するものと異ならず、印章に重大な意義を持たすのは、ただ煩雑に過ぎず無意味であるという論旨であった。
敢えてこの論文に対して、反駁はしなかった。成程、現代の印章は俗印が横行し、社会機構は極端に形式のみを要請するのであるから、印章に関する現状から判断すれば、無用論の説えられるのも無理はないと思う。・・・中略・・・・・
しかし、印章の雑品なみに普及し転落したのでは、無用論の肩を持ちたくもなるような事態も体験させられる。・・・中略・・・
個性もなく品位風格は勿論かけらもない駄作の印章と、更に木屑に近い仕入印に信憑性としての権威を与えるのは、まさに不自然である。・・・以下略。」

以上は、昭和31年(1956年)に出版された藤本胤峯著『印章と人生』からです。

昨日、五月の鬱屈した気分を転換するために、散髪に行きました。
理容店のご主人から、「今、ハンコはいらないと言われて、大変ですね。いじめられていますね。」と声をかけて頂いた。
この間、あまり多くの人とは話していなく、そういわれたことが、却って新鮮に受け止めることが出来た。
印章の価値を低落させるパソコン印章やフォント印章のお話をしてきましたが、今やその存在さえも社会からは否定されていることが、多くの人に広まっていることは事実であると確信しました。
この状態から、印章の価値を復権させることは、並大抵の事ではありません。
あらゆる方法を駆使していかねばならないと思います。
そして、この間の状況が示している通り、もう組織団体には頼れない状況というか、限界かなと思います。
自らの頭で考え、それを行動に移していかないと、とても生き残れそうにない気配を感じています。
ここで、目新しいことやパフォーマンスをしてももう駄目であることは、自明の理であります。
これまで、意図的にかどうかは知りませんが、印章の印面の美をきちんと発信されない(隠していたともとれる)印章業界の、逆手をとり、印面美を職人の創作物としてきちんと発信していくことを怠らないことが、大いに求められてくると思います。
一人ひとりの職人の個性が光る、それが印章であり、その個性を表出しているのは印面であるということです。
とりわけ実印については、その〇という輪郭の中に自由闊達に篆書をレイアウトできる美を大いに発信すべきことであると思います。
印章無用論のニュースに寄せられたコメントを丁寧に読んでいくと、多くはそれへの同調や煽りの文体ですが、中には、それでも重要な印章はいりますよねという内容が含まれているものも少なくはありません。
また、本物は残りますと励ましてくれる、私のお客様やブログ友達の声をも大いに依拠できる所だと確信を持っています。
6月の始動が各地で見られます。
その息吹に呼応していきたいと強く決意致します。

posted: 2020年 6月 1日