神との契約から人との契約へ

日本でいつごろから印章が使われるようになったかを裏付ける資料が残されていないので、それは定かではありません。

門田先生は、その著書『はんこと日本人』のなかで、次のように推理されています。

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『日本書紀』の持統天皇六年(692)九月丙午の条に神祇官が奏上して、神宝書四巻、鑰九個と木印一個を天皇に差し上げたという記事があり、古訓では木印を「きのおして」と読んでいる。「おして」というのはもともと掌による押捺、すなわち手形を指すものと解されており、このような風習があったところに大陸から印章が流入してきたために機能の同一性から、木印のことを木製の「おして」と解したという説もあるが、実際にはどのようなものかはっきりしない。

ただし、この木印は神宝などとともに進上していることからみても、公文書に使用する官印とは異なり、信仰にかかわるものであったとみられる。律令時代になって、国府の近くなどで印鑰(いんやく)神社として印章とかぎをまつるようになったのも、これらが信仰にかかわるものであったことを示している。

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下鴨神社の「おしでの大神」もこの印鑰神社としての役割を果たしてきたのだと思います。

大阪、船場界隈の商家の言い伝えでは、大きな契約を取り結ぶ時には、下鴨さんにお参りに行けという話もあるらしい。

印と鑰は契約を司る代表と言えるのではないだろうか。

以前、フェイスブックの記事に赤木先生が漆のお椀での食事は、神との交流の場であるというようなことを書かれていたのを読んでピンと来たことがあります。

印章、「おして」は神との契約が派生して、実用として人と人との契約に繋がっていったのではないかなと。

藤本胤峯著『印章と人生』には、「昔から印を刻る人はあっても、印を押捺する人はない、といわれるほどに捺印法は難しいものである。」として、印肉の付け方と印褥を使用することをあげ、最後に以下のような文章で捺印の精神を述べられている。

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印章に軽く目礼し、臍下丹田に力をこめて、ゆるやかに紙面に押し、指先で「の」の字を書く如く廻す気持で力を入れて「し」の字に引くように離すのである。

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まさに神との交流、交信の場としての捺印法であると、今更ながら藤本先生の偉大さが身に染みて理解できる年となったかなと思います。

技術的に印影を美しくとる方法を教授して頂いた先生先輩方は多くおられましたが、使用者としての捺印法をきちんと述べられた方は藤本先生以外おられませんでした。

 

少し難しいお話であったかもしれませんが、朝起きて夢うつつの記憶を記録しておきたかったので、お許し下さいませ。

 

 

 

posted: 2021年 12月 25日