印章は工芸である

昨日、千里山の万博記念公園内にあります大阪日本民芸館に行ってきました。

目的は、秋季特別展の「濱田庄司と柳宗理―ふたりの館長」を学芸さんのギャラリートークを聞くためです。

とても上手な説明で、初めて行かれる方にはご推薦いたします。

展示内容から気づきというか閃く物を頂きましたの、備忘録を兼ねてご紹介させていていただきます。

柳宗理さんのプロダクトデザインらしい展示のコーナーで、「インク壺の容器」という展示説明に魅了されました。

その説明自体も柳宗理さんのエッセイ集からのもので、一部をご紹介させて頂きます。

「・・・(前略)・・・さてこの木製の容器は轆轤という機械で造ったものですが、木肌の故か、手工藝的な暖かさをもっております。河合寛次郎さんは機械は手の延長したものであるとよく言われましたが、なるほど、人間が造るものを、手工藝と機械工藝とに分けるのは、素直でないような気がしないでもありません。いずれにせよ、手工藝的製品であれ、機械工藝品であれ、良いものは良いのであって、その良いという絶対的な美の世界には、手工藝的とか機械工藝的とかいう区別された二元の世界は、自ずと解消されてしまうといえないでしょうか。」

 

 

 

 

 

 

 

 

印章もある時期に、「手彫り、手仕上げ、機械彫り」という作業区分的な見方を結論として市場に与えてしまいました。

そうすることにより、使用者からの見方に枠決めをされてしまい、「手彫り」は付加価値を得ましたが、「手仕上げ」から「機械彫り」という括りをグレーな価値観として位置づけされました。

その後、それらの言葉に規範を与えることなく市場を独り歩きして、印章の価値を低落させ、「唯一無二」の信用を無くした印章の足元を見られて「押印廃止」の号令に繋がる結果となりました。

 

柳宗理先生が言われるように、人がつくるものを手と機械に分ける発想自体が工芸的に素直な気持ちではなく、商業的な側面からの分類に過ぎないという結果が今日の印章の位置づけをもたらしたと私も思います。

 

では、どうしていったらよいのか。

「印章は工芸である」という観点が求められていると思います。

おそらく商業主義的な大方の業界人から反発を頂くことになる発想かも知れませんが、山梨の伝統工芸としての位置づけなどにみられるような取り組みとその屋台骨である思考の転換を強く求めるものです。

posted: 2022年 9月 12日