工芸と印章
「印章は工芸である。」
それは、今まで誰も言わなかったことです。
山梨県の伝統工芸、京都府の工芸としての「京印章」や東京都の江戸工芸品、各都道府県での生業としての名称は耳にしますが、業界全体としての位置づけや運動はなされてきませんでした。
代わりに、国(厚生労働省)の技能検定制度に昭和45年から参加してきましたが、近年では受検者数の激減から国に統廃合の検討職種として位置づけられています。(令和3年度後期技能検定では100名以上の受検者を確保しましたが、統廃合の検討職種であることには違いがありません。)
工芸とは、人間の日常生活において使用される道具類のうち、その材料・技巧・意匠によって美的効果を備えた物品、およびその製作の総称とされています。(「日本大百科全書」より)
またブリタニカ国際大百科事典では、高度の熟練技術を駆使して作られた美的器物またはそれを制作する分野としています。
実際は、工芸の規定から思考を出発させるより、工芸が歩んできた道を学ぶ方が、工芸の本質に近づいていくことであり、印章との関係をより深く捉えられると私は考え、近年より民藝を通して工芸の在り方を学び、印章とその技術のこれからの在り方を探求することを始めております。
工芸は、民藝・生活工芸・伝統工芸・美術工芸などと分岐して、商業資本に誘惑された若干のものを含めても、共通して言えることは、大量生産、大量消費とは程遠いところに東洋的な意志を持っているという事です。
ともすると、物を作り、それを販売していると「儲けたい」とするのは商売人として当たり前の事でありますが、それが行き過ぎると、何かに取り付かれたように資本の誘惑に駆られてしまうのが、悲しきかな現実であるようです。
コロナ禍の現在も「売れれば何でもよい」と、売れるために「かわいい」「きれい」というレッテルをはり、中身のない弱さに装飾させて、思わず「儲けたい」と聞こえてくるような商品に出くわします。
その事を大げさに非難しているのではありません。
それらは、やはり工芸とは違う方向で、印章とその技術の向かう道ではないように感じて、やはり印章は工芸であると再確信いたします。
また日本大百科全書によりますと、「工芸の工の字は象形文字で、握りのついた「のみ」、あるいは鍛冶(かじ)をするとき使用する台座を表したものといわれ、そこから手先や道具を使って物をつくることを意味し、さらに物をつくるのが上手であることをいうようになった。さらにそのような職人や細工をさすこととなり、技能、修練を積んで得た特殊な技を意味する芸の字とともに、巧みに物をつくること、巧みにつくられた物を工芸とよぶようになった。」とされています。
大量生産が出来ない熟練の職人技を必要とするものが、工芸であると私の中に配置づいてきました。
ですので、現在の市場における印章全てが工芸であるなどとは、とてもそう呼べない状態であることは、既に消費者自身の認識となっています。
100円ショップのハンコ、はんこ自販機、既製フォント作製による同型印の危険性を有する印章などは、その象徴といえるのではないでしょうか。
そういう職人不足と継承現場の疲弊という業界の足元を見ての行政における「押印廃止」(2020年)には、必然性があったのだと思います。
印章が工芸であるという認識が業界共通のものであれば、「押印廃止」という形では世に現れなかったことだろうと推察します。
工芸として位置づけが難しいことであることは、印章という商品の特殊性から来ている事とも思えます。
それは、作品としての印面美を世に発表出来ない工芸であるからです。
どんなに名工の印章でも、印面という個人情報の公開は、「唯一無二」という印章の持つ意味を無くすこととなるからです。
しかしながら、戦後長らく続いて来た実用印章の展覧会や競技会などの多くに印影は存在しております。
何故、公開流布という美の発信をしなかったのでしょうか?
私が聞いたことのある逸話では、全国競技会の優秀作品を某有名週刊誌の広告に、その主催団体が出したところ、会員より「その印影の店を宣伝することとなるので、直ぐにやめよ」との抗議があり、次回よりそれがなくなったとのことです。
実用印章の競技会や展覧会はありますが、業界内部の事で終始してきました。
(近年では、印章展などで消費者に向けての展示を一部されていますが、その後の発信は殆どされない状態という事には変わりがありません。)
技術展などの実用印章の印影を宣伝流布することを嫌がってきた歴史に問題ありと考えます。
佳き印影、美しい印影、技術力を感じる印影を流布すると、困る人達がいるのです。
佳き印影の印章の為に精進努力するという工芸的な姿勢ではなく、職人を介せずに大量生産を可能とする駄印をも印章であると消費者に信用させることをよしとして、単に慣例や制度に守らそうとしてきたことが現況を作り出しました。
印章(銀行印)がいらない通帳やネットバンク、行政手続きでの押印廃止という制度崩壊その結果が全体をダメにして、印章の価値を低下させる役割を果たしてしまったと言えます。
現在の市場での印章の良否を示す指標は「手彫り・手仕上げ・機械彫り」という彫刻方法という一方向からの見方であります。
しかし、印章は過去には彫刻されずに鋳造されていたという期間の方が長い歴史があり、現在の天皇御璽や国璽も鋳造された印章であります。
本来の印章の価値を知るには、古人の教えである印章三法(篆刻三法)である字法・章法・刀法のメルクマール(指標)がその観察法の大きな一翼をになってきました。
ですので、今の市場の「手彫り・手仕上げ・機械彫り」という概念は、刀法のほんの一部の見方という事が言えます。
印章は工芸であるとして位置づけるなら、その印章三法の刀法以外の字法と章法を突き詰めていくと、それはとても工芸的であると思います。
工芸は設計図を大事にする芸術の一分野であると考えると、設計図にあたるのが、この字法と章法であります。
実用印章の設計図の書き方は、篆刻の字法と章法を駆使した印稿の表現とは少しばかり違います。
手のみで仕事をしていた嘗ての職人は、あまり印稿という設計図は描きませんでした。
印面に直接、文字を入れ、荒彫りで形を修正しながら分間を計っていきます。
そして、仕上げで線の強弱や筆意の表現をしていきます。
それで、印稿は頭で作製して、新たに紙の上に描く必要はありませんでした。
光電式彫刻機が出始めて、印稿をきちんと書かないと、仕上げが大変になりますので、判下という印稿をきちんと書くという作業が必要となりました。
やがて光電式がパソコン内蔵型の「ロボット」と呼ばれる機械に取って代わっていきました。
そこでは、手で書く技術よりも、パソコン機能をいかに上手く駆使するかの技術に替わるのは必然的でした。
古の先人たちは、その印稿(頭に入っていた職人さんもあり)が印章の良し悪しを決める重要な設計図であるとして来ました。
それを印面に彫刻した印章が、「押印廃止」として邪魔者にされ、社会的信用を失っていく状態ですが、印章の本義はそれでは廃れません。
印章の歴史を振り返っても、いろいろな印章不要論が出ては消えを繰り返しています。
花押というサイン文化が印章よりも重宝された時代もありました。
しかし、彫刻の技術は歴史と共に変わりました。
鋳造印から基底刀による彫刻技術の伝来(織豊時代)、機械彫刻もペンシルや大野木式からロボット彫刻へ、残っているのは、その設計図です。
いちばん大事なものは、この設計図です。
実用印章が一旦姿を消すと、篆刻の世界でそれは受け継ぐことも出えきますが、実用印章のそれは継承がない限り消滅してしまいます。
そこで、実用印章の字法と章法を残したいという思いに駆られています。
また、篆刻とは違う実用印章の美を多くの人に知っていただきたいと思いました。
篆刻は書の分野に自ら入り芸術として発展しています。
実用印章の彫刻法の大元である活版印刷の技術としての木口彫りは、写真写植に変わられた時点で、芸術分野に属して西洋木口木版として変化に対応して版画の世界に生き残り、印章と隣接して芸術分野としての「木口木版」となり日本でも不普及されています。
実用印章も「工芸」としての生き残りを考えるなら、まず自らをきちんと位置付けることです。
そして佳き印影の力強さを発信し、継承現場をよみがえらせる工夫をしていくこと、工芸として情報発信を怠らずしていく事が肝要かなと思います。
印章は工芸であるとするなら、「想いが伝わる印章」の製作継承は可能となります。
しかし、製作現場はそうはなっておりません。
職人(人)の仕事をパソコンに代替させて、「想いが伝わらない印章」製作に励んでいるのが現状です。
嘗ての技術継承は、徒弟制度であり、技術と共に職人道徳(してはいけないこと)を徹底的に教育されてきました。
徒弟制度が崩壊していったなか、技術講習会が盛んとなり、組合に入っている事の意味を感じた方が多かったと思います。
しかしながら、その継承現場も随分と変わって来ました。
変わってきたというのは、講師や講習生の在り方です。
嘗ての徒弟制度でいう親方と弟子の在り方は、親方が黒と言うと、弟子は白い物でも黒と言わなければなりません。
そういう関係の中から技術を盗み、職人としての在り方を学んでいったのです。
今、講習会でそういう教え方をしたら大変なことになります。
講習会では、技術的な事をある程度、その組織のルール内で実施されます。
嘗ての講習生はそれをよく理解していたので、講習会の外での自習・・・習ったことを繰り返しする(練度を高める)自主練をしました。
今は、なかなかそれをしません。
ほぼしません。
講習会を学校のように思われていて、それを管理している組織自体も社会的なルールに基づいての運営となりますので、それ以上のこと師弟関係を強制するとパワハラとなります。
大学の講義は単位制で、出席日数という時間を獲得して、試験を上手く通り抜ければ得られます。
しかし、技術は手から手に覚えさせるもので、適当に学校の椅子に座りさえすれば得られる技術など何もありません。
気の向いた時に席に座る、好きな講義だけ出席して単位を取る・・・技術習得とは程遠い考え方ですが、それも今流とすると、職人道徳はなかなか伝わらないものとなります。
しかし、講習会運営や組合運営はそれで然りなのかも知れませんが、印章を工芸と考えた場合、「きちんとした職人」は育たなくなります。
徒弟制度の崩壊から久しく、国家認定の訓練校もなくなり、講習会もその在り方を考え直さないと、それが技術継承の場にならなくなりそうな気がしております。
そして、それを運営していく組織や人達の本気度をみると・・・これでいいのかな?とも思います。
人(職人)がいなくなり、パソコンが残っても、印章やその技術は生き残らないと考えます。
設計図は消えていきます。
自分の時はよかっても、次に伝えなければ、足もとから崩れ去ってきます。
現場を見ていると、もう間もなくという気がしてなりません。
徒弟制度が消えていって、訓練校が休校から廃校へと・・・いろいろ見て来たので、そういう事も考えてしまいます。
自分のお尻の火は自分で消さないといけないし、見本を見せないといけない、もう少し頑張りますが、価値観の違い過ぎるところとは距離を取って、学びを頂けるところへと身を移動して行きたいと考えています。
「想いを伝える」印章製作のために・・・。
印章は、認印、銀行印、実印などの用途が示すように、実用生活に必要を問われて活躍するものです。
「必要だから捺す」という押印行為をしていた人には、その印影から伝わる「美」や盛り上がる朱肉の輝き、気品あるその匂いなどは関係ないのかも知れないけれど、押印所作も含めた押印経験は、その人を伝えるには充分なものでありました。
しかしながら、どうしても「必要だから捺す」人達のかなには、印面「美」など関係なく、迅速に事が進んで欲しいが優先されます。
また、大切な節目に押捺するので、きちんとした易学ではない単なる「占い」を付加価値として上乗せした商品として位置づけやすく、最近ニュースにもなっている霊感商法として使用されている「美」とは縁遠い太いミミズがのたくり回っているような開運印鑑をも誕生させました。
「これからを生き抜くために」・・・印章を工芸としてきちんと位置付ける。
印影の中に「美」を見出す作業。
篆刻芸術などでは「方寸の美」など当たり前の事でありますが、何故か実用にはそれがなく、それがあるのは、芸術性に止揚されているのは「篆刻」であるということを、篆刻をされている印章業者自身が発言されているのが現状です。
そういう意味では、実用印章は民藝的であります。
そして「工芸である実用印章」という位置づけをしていくことが、実用印章とその技術を本当の意味で残すこととなります。
posted: 2022年 10月 9日