三昧

岡山の曹源寺で、銀座の個展でご縁をいただいた梶谷さんと再会しました。

そこで勧めて頂いたギャラリー円山ステッチさん発行の『禅と工藝』を読んでいて、『工藝とは何か』で読み流していた点に気づかされました。

梶谷さんのお勧めが無かったら、気づかないままであったので、改めて感謝いたします。

 

 

 

それは、「三昧」ということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

原田老師のお言葉をご紹介しておきます。

・・・歩行三昧、仕事三昧、三昧というのは自分の意識があるけれども、無意識状態になる。繰り返しですから。だから私ら小さいときには、草引きなんかもよくさせられました。だけど、草引き、あれが三昧に入るいちばんの近道。だからね、自分の視野に入るのは決まっていますからね、座っていますから。その視野に入ってくる草をチュッチュッチュッチュッ取っとるうちに、広い場所がいつのまにか草が取れとる。そういうふうにね、人間なにも考えない、考えないけれどちゃんと効率を上げとる。そういうのがほんとだと思いますね。昔からの仕事をなさる方は、その要領を身につけておられると思います。・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

赤木明登先生は、輪島塗りの職人さんで、一月に三百個、同じお椀を作り続け三十年、一万個単位のお椀を延々とつくりつづけると・・・

赤木先生は、次のように話されています。

・・・・最初は、自分の意思でお椀をつくっているような気がしていたんですけど、だんだんお椀の方が意思を持っていて、お椀がぼくを使ってお椀が勝手に増えていっているような感じになってきて、そのときに自分がなんか「空っぽのパイプ」のようで、お椀がぼくの中をドンドン勝手に流れていくような、そんな心境になったことがあるんです・・・

 

私も、今は仕事の数が極端に減りましたが、下請け時代などは、一月に二百個以上のハンコを夜なべ仕事で彫刻していました。

その時、印面に向かう自分は赤ちゃんのように無意識に腹式呼吸をしています。

息をすれば、手元が揺れます。

息をしなければ、手元はブレませんが、息が止まり死にます。

だから、数をこなしているうちに、自然と腹式呼吸になります。

このことを原田老師は「空っぽ」、「空っぽのパイプ」とかと表現され、赤木先生は「認識を離す」と言われています。

 

 

この「認識を離す」こと、「空っぽのパイプ」になるには、私の場合・・・「いまの在り方はあなたの居場所ではなく、あなたにとって大きな役割のある方向を目指しなさい」というとてつもない強制力・・・「おしでの大神」によるスイッチの切り替えが働きました。

最近、もう一つの力である伏見の石峰寺の「五百羅漢」のやさしい微笑があったんだと気づかされました。(そのお話は、改めていたします。)

人には、今までのやり方や生活史があり、生き方や仕事、人間関係、いろいろな事への固執があります。

そういう雑念が多いのが人間だからだと思います。

しかし、そういう雑念に囚われていたのでは、自らを向上させることは、いつまでたってもできないことになります。

「三昧」は繰り返し続けることのなかから生まれてくる素晴らしい境地です。

その繰り返しが働かなくなってきているのが、今の印章であります。

手の繰り返しは無くなり、既製フォントによるパソコンでの作製やパソコン機能を用いたデザイン化は、「三昧」からは程遠い商品であり、そういう仕事です。

そこには、職人から職人へとパイプを通しての伝達力は消え失せています。

例え、そこで素晴らしいデザイン判下が出来たとしても、そこには魂は見当たらない「必要」「押さねばならない」からという形式上の「約束」を行使しているにすぎません。

これからの時代、人と人とのつながりは、さらに希薄なものとなるだろと考えます。

そういう時に、背中を押して、スイッチを入れ替えてくれるものは、工藝により仕上げられたものであってほしいし、それを望む人の為に、そういう工藝としての印章「三昧」な姿勢を発信していこうと思っています。

そのためには、工夫がいりますが、強力な助っ人、その方曰く「ウルトラCがきっとある」とおっしゃってくださいました。

とても力強い励みになっています。

が・ん・ば・り

ます!

posted: 2024年 10月 17日