人間の自由と他力

隠し持つ狂気三分や霜の朝

【作者】西尾憲司

 

 

俳句には、二つのルールがあります。

「五・七・五」の17音のリズムで詠むことと季節を表す「季語」を入れることです。

定型に囚われない自由律俳句もありますが、それは感情の自由な律動を表現するためにあります。

どういうことに於いても決まり事というルールがあります。

それを不自由と感じて、決まり事を破ることを「自由」だとする考え方は、チト違うように感じています。

昨日も某役所の印鑑登録担当の方から、「印章アドバイザー」へのお問合せがありました。

今年に入り実印のお名前の文字配置についての2回目のお問合せです。

今までは、フルネームなら右の行に苗字(名字)を、左の行に名(下の名前)を配置します。

ネットショップを調べてみると、これをきちんと説明しているところと、決まりはなく好きなように文字を配置してもよいというところとに二分されています。

好きなように配置してもよいというところがあるので、印鑑登録担当者が困り問い合わせがあるのだと思います。

昨日の問い合わせについては、えっと思わせるようなものでしたが、詳しく述べると特定されてしまいますので、ここでは述べません。

趣味のハンコなら、面白いで済まされますが、実印という正印に個人の「自由」を与えてしまうと社会的規範がなくなります。

規範無き社会だから、まあそれでも良いかとも考えてしまいますが、昨日のような問合せは増えてくるだろうと予想されます。

もちろん私は、職人哲学と道徳から、そのような印章の彫刻依頼はお断りします。

何故、きちんとした職人哲学と道徳を持っていた嘗ての多くの職人は、そのような「自由」な文字配置の印章を作製しなかったのだろう。

そのヒントを柳宗悦『手仕事の日本』第3章「品物の性質」《実用と美》から考えたい。

以前お話した文章からの続きとなる箇所からです。

・・・これに引きかえ人間の自由はとかく我儘で、かえってこれがために自由が縛られることがしばしば起こります。それ故人間の自由に任せるものは、とかく過ちを犯しがちであります。人間は完全なものではないからであります。これに反して自然は法則の世界でありますから誤りに落ちることがありません。仮令誤りが起こるとも、罪からは遠いでありましょう。実用的な品物に美しさが見られるのは、背後にあかる法則が働いているためであります。これを他力の美しさと呼んでもよいでありましょう。他力というのは人間を越えた力を指すのであります。自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、凡てかかる大きな他力であります。かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。なぜなら他力に任せきる時、新たな自由の中に入るからであります。

これに反し人間の自由を言い張る時、多くの場合新たな不自由を嘗めるでありましょう。自力に立つ美術品で本当によい作品が少ないのはこの理由によるためであります。

 

 

 

 

 

 

posted: 2025年 1月 23日