赤い丸に赤い文字

冬眠すわれら千の眼球売り払い
【作者】中谷寛章

世の暮らしの在り方は、時代の在り方や人々の思考により変化していきます。
その変化に応じて、暮らしの在り方が変化していくとも言えるのかもしれません。
いろいろな暮らしの在り方があり、変化した暮らしの在り方があり、しかし変わらぬ暮らしもあり、でもそれは少数になると、暮らしに寄り添う物の在り方も変化してきます。
無くなる物もあります。
物の在り方が変化するということは、それを作る職人の在り方も変化するのです。
無くなる職や職人もあります。

着物好きな方も多くおられると思いますが、江戸時代や明治時代のように、着物が日常不可欠の衣ではなくなり、洋服がその多くの位置を占める現在、成人式や結婚式のような「ハレの日」に着るということがあっても、「ケの日」には身に着けないのが日常となっています。
しかし、その着物の文様や柄は、「和柄」「和文様」という形で、我々の身の回りに多く見られます。
それを着物の文様と認識できるのは、着物の文化がつくってきた日常性(ケの文化)が、私達に浸透しているからだと思います。

赤い丸に赤い文字が、書いてあれば、それを印影(はんこの押し型)だと誰もが思います。
ましてや、篆書体で示されていれば、実印だとか銀行印だと考えます。


篆刻芸術の作品とは、また違った感性で、芸術とかそういうことではなく、「はんこだ!」と認識できるということは、着物の文様に通じるところがあると思います。
それがいくら赤い丸のなかに着物の赤い文様を施したとすれば、それは「はんこ」ではなく、着物だと思うし、他の絵であれば、それは絵を思い起こしてしまいます。
印章を残すためには、絵や文様をいくら細かく上手く彫っても残らないということです。
文字である、実用であったという実績が、その印影を「はんこ」として残し得るのだと思います。
そこには、名も無き千の眼球(多くの職人の魂)が作用し、我々に示唆しているという事を、最後の灯火となるであろう印章彫刻職人は、肝に据えるべきだと私は思います。
そして、パソコンフォントでは表し得ない唯一無二の印影づくりの技術を更に精進努力して良いモノに高めていくよう心掛けるべきかなと、生意気なことを言うようですが、生き残るべき指標として、ご提言させて頂きます。
印章が冬眠した時のために、この文章は是非覚えておいてください。

posted: 2020年 1月 17日