「継ぐ」と「接ぐ」

継ぎ接ぎて延ばすいのちや梅雨に入る
【作者】清水基吉

人の命ばかりでなく、継承されてきたことの延命のためには、力ずくの延ばし技が必要とされる時もあるだろう。
しかしながら、自然の「継ぐ」から人為的な「接ぐ」への変容は、もともとの継承を蔑ろにする場合がある。
「接ぐ」行為は、とても目立ちます。接続、接触、溶接・・・
「継ぐ」行為は、あまり目立たない地味な事の繰り返しである。
本質や本義、大儀に通じているのは、「接ぐ」ではなく「継ぐ」ということで、「接ぐ」では見られないものを「継ぐ」では見せてくれる。
きちんとした継承に目を向けずに、溶接ばかりしていたのでは、物事の本質は隠されて行くだけだ。
溶接者は、過去と現在を繋ぎ合わせているようで、現在の凸凹したものを平に見せようとしているだけである。
そのうち、溶接された「目新しいモノ」もさらに新しい時代の波に洗い落されて、再び凸凹は、我々の前にその醜さを露呈してしまう。
何故、本質に目を向け「継ぐ」という行為に真摯に立ち向かわないのだろうか、いやそれどころか、凸凹を埋めるためだけに奔走するのだろうか。

本質は、一つの事象においてのみ存在するのではなく、あらゆる事象の中にある。
一つの事象が本質を見失っても、他の事象に目を向け学び直せば、その本質は取り返す事ができはずである。
今、それしか実用印章の本質を取り戻す道はないように思う。
そして、その継承は機械やデジタル、AIでは果たせず、人によって連綿となされるものである。

posted: 2020年 6月 13日