職人なき時代への警鐘
いそがせる 心は別に 冬に入る
【作者】稲畑汀子(いなはた ていこ)
ラジオから「今日は立冬ですね」という声が聞こえ、はたと落ち着きのない自分を感じさせられました。
昨日、厚労省からの「現代の名工」のプレスリリースがあり、業界からは京都の前川幸夫氏が選ばれました。
前川先生は、大印展の審査員を務めて頂いております。
おめでとうございます。
最近、この「現代の名工」や黄綬褒章に輝く職人の取り扱い方が雑なような気がします。
雑ならまだしも、受章者のお名前も報道しない新聞もあるようです。
大阪にも「なにわの名工」という誉がありますが、これに至っては、10年前くらいから地方版に掲載されなくなりました。
社会は、伝統文化だの、技術の継承だのと、美辞麗句は並び立てますが、結局はその文化や技を継承されている人・・・職人という在り方を蔑ろにしているような気がいたします。
問題となっている行政手続きに不要と思われる押印廃止においても、それを感じざるを得ない場面や対応があります。
本来、印章は唯一無二をモラルとして成立するための一手段として職人が彫刻すべきものです。
「押印廃止」と誰が彫刻したのか知りませんが、完全に職人の仕事を愚弄する行為だと思います。
それは勿論なのですが、印章は、作り手と使い手の間に共鳴が生まれなければ成立しない人と人との約束事・契約「おしで」という日本古来の思想の伝承であります。
作り手は、それが認印に使われるのか、実印として登録されるのか、銀行印になるのか、そういう用途も重要であるのですが、彫刻作製する段においては、使い手のお名前を懸命に彫るという、実にアナログな作業です。
このアナログな作業により作られる印章がデジタルと共存するはずがありません。
世のデジタル化は進んでいくと、それは私も思います。
デジタルの中に印影が存在する事はできるのかも知れませんが、何か意味がるのでしょうか、それが職人が作るものであり、使い手との共鳴点は見つかるのかなと、疑問を抱きます。
捺印と押印は違うらしいのですが、ハンコを押すという人の行為である機会が減少することは、デジタルの中に印影が残ることにより解消するのでしょうか、それも疑問です。
経験や体験の減少からの消滅は、それを意識しなくなるという事です。
実用から遠ざかった物を時折意識させるためにあるのが、博物館や美術館です。
それを人は、文化と呼ぶのかも知れません。
「村の鍛冶屋」という歌があり、それは職人の歌であると私は思います。
しかし、村の鍛冶屋はほとんど見られませんし、その歌も文部省唱歌から外されました。
本体から飛んでしまった首をさらすことが、職人の仕事になるとは、私は到底予想がつきません。
職人なき印章・・・それを誰が望み信用するのでしょうか?
職人無き時代、職人を大切にしない国策、職人を大切にして欲しいはずの業界の職人不在の製作現場・・・これが如実に弊害や同調圧力となり表れ始めていることに危惧を感じます。
以下、わたしのブログ記事にいただいたコメントです。
「昨日NHKの番組を観ましたが最早彫刻の技術云々ではなく電子決裁をどのように推進するかを検証する編集のようで悲しい気持ちになりました。井村屋さんの方達が使う印章も浸透印のような・・。印章不要という方もどの様なアンケートかは不明ですが74%に及ぶと・・。知らない間に文化、伝統どんどん追いやられる感がありますが本物の印章が残りますように、と願わずにはいられません。パソコン印章、占い印章等それはそれで生活の手段ですがやはり印章を粗末にした業界のモラルにも自らの首を絞めた責任があると感じます。」
posted: 2020年 11月 7日