【 三田村煕菴個展へのプロローグ② 】
【 三田村煕菴個展へのプロローグ② 】
文(あや)を残したい。
身に染みるが如く修業に明け暮れ、時には自分を滅してまでも追求したこともあり、今は自然と自分を受け入れてくれる「文(あや)」を残していきたいと考えています。
柳宗悦は、「心偈(こころうた)」のなかで、文について次のように説かれています。
・・・・「文」(あや)とは模様である。絵でもよい。いずれにしても描かれる模様のことを思い浮べればよい。何を描くもよいが、無益に描いてもならず、無駄を加えてもなるまい。描きぬくとは、いたずらに多くを描くことではなくして、最も少なきに、多くを含める事であろう。なくならぬものに切りつめてこそ、味わいが溢れ出よう。それは文あって、文なき境地なのである。・・・・
400年の歴史を経て、民衆に広がっていった実用印章のデザインは、文であると私は理解しています。
その間の、作り手と使用者のやり取りのなかで、印章デザインは確立していった。
そこには、使用者目線の実用という言葉が含まれるのと同時に、作り手の並々ならぬ努力と精進がつくりだした職人目線の道徳や哲学からくる規範も織り交ぜられている。
どちらの目線がなくとも、印章デザインは文にはなり得なかっただろうと思います。
そういう意味で、印章は工藝であるし、民藝の要素を十分内包しているものだと思います。
しかし、それは扱い方によっては、神棚にのせたままの干からびたお餅にもなり、また玩具にもなり得るものであります。
その本体が今、消えようとしている。
それは、社会が委縮していくなかで信頼や信用を失った人への「おしでの大神」の意思という怒りなのであろうか、それとも・・・
文(あや)としてのそれは、残すことができるし、何故か残さなければならぬとの強い意志に働かされています。
いろいろな方法があることだろうと思いますが、私は印章やその制度を残すよりも、その実用の在り方から先人の汗をともない育まれた「文(あや)」を残したい・・・今はそう考えて、大阪、銀座に次ぐ3回目の京都での個展に向かっています。