うなぎの日とはんこの日
うなぎの日うなぎの文字が町泳ぐ
【作者】斉藤すず子
昨日は健診が終わり蕎麦屋で鰻おにぎり付きのお昼ご飯で、夜は家でうな丼でした。
土用の丑の鰻と云えば、亡き業界の先輩Iさんは無類の鰻好きで、夏の支部会の寄合はIさんの一声で必ずうなぎ屋さんでしていたのが懐かしく思い出されます。今は、そう言う洒落た寄合も無くなりました。
いろんなものが、最近の事情でなくなっていきます。社会の動向を考えれば、仕方がないことなのかもしれませんが、なんか味気ない社会、身近では味気ない業界になってしまったような気がします。一言でいうと、面白くない有様。
「はんこは、無くなりませんよ。文化だから・・・。」と励まして下さる方がおられます。有難いことだと感謝いたします。はんこは無くならないかもしれませんが、このままでは印章店は無くなっていくことだろうと想像します。きちんとした印章どころか、そうでない玩具印やお土産品の「はんこ」も、それを扱うお店があるから成り立つのですが、印章店が無くなれば、どうなるかは自明の理であります。
大切なことは本質を残すことだと思います。
メソポタミアでの起源から、印章は様々な形態に変化して、今の日本の社会と接点を持ってきました。その接点に揺らぎが現在生じています。印章の社会との接点とは何でしょうか?それは日本社会に必要な「契約」や「約束」の表明であります。そのものがデジタルにとってかわると、そこに失われる本質が生じてきます。その本質は、彫刻技術や印章制度や印章文化ではありません。それは本質の一要素でしかないのです。それを不必要というのではありません。そこにのみ目をやられていると、それ自体も残らなくなっていくというのは、コロナ禍で失われていった押印機会の在り様を振り返ってみても、その損失は多大なものであります。そこに目を向けないと今も未来も無くなります。
「おしで」の大神の集いは、「印章祈願祭」として行われていますが、「おしで」という考え方自体に畏敬の念や感謝を持たないと、その形式も無くなっていくことだろうと想像してしまいます。私自身もぐらつく時もありますが、「おしでの大神」が私のスイッチを切り替えてくれたことを忘れずに、そまざまに工夫を重ねて、今までお世話になった「おしでの申し子」に恩返しをしていきたいと考えています。

写真は、練習してきた駒です。
神奈川の同業者のそれをSNSで見ましたので、刺激されて掲載してみました。
これを見ていると、初心に帰るというか、夢中になり八分の駒に意識を集中していた頃を思い出します。
posted: 2025年 7月 19日