印判師も印章史を学び、市井に声を上げよう!

『家庭画報』の記事に異論や苦情を述べるつもりではございません。長い間続いて来た印章の在り方は、様々な形で時代と共に変化してきたので、今の印章の使い方や置かれた位置からは想像することが難しく、致し方がないと考えます。

また、そういうところをきちんと伝えることなく商業主義的な対応にしか目を向けて来なかった印章業界の発信の偏りには物申したいと思います。

 

『家庭画報』の記事にあるように、今の印章彫刻技術(木口彫刻)は440年前からの技術です。二つの疑問点がございますので、ご指摘しておきたいと思います。一つは、指輪彫刻の技術をポルトガル人から学んだのではなく、活版印刷技術で、今の木口木版であろうと私は思います。そうでないと、印章木口彫刻には結びつきません。また、当時のポルトガルからの流入ということでは印刷技術が考えられるのではないでしょうか。また、彫刻道具が印刀の刃物原理とよく類似したビュランを使用していることからも類推されるのではと思います。日本において、基底刀の原理を利用した刃物は印刀以外その例を見ないと思います。指輪彫刻は貴石の彫刻であり鏨を用いてのものだと推測されます。山梨の伝統工芸である水晶彫り印章は鏨彫刻であるので、それから類推されたのだと思いますが、基底刀を中心にして発展した木口彫刻技術ではないと思います。名字帯刀の名である「細字」は細い(小さい)文字を駆使する者に付けられた名だと思われますが、この技術はそう簡単な技術ではなく、徒弟制度を通じて型が出来上がった今でも習得期間に3年から5年かかります。簡単に、豊臣秀吉だろうというわけでもなく、ポルトガルとの交流を考えれば、おそらく織田信長のころから始まったのではないかと想像します。そして、家康の江戸になり花が咲いた職業となりました。そして440年経った今、その彫刻技術は消えゆこうとしていることも直視していかないといけません。

 

 

もう一つは、100人の印判師が集められたとの記述です。おそらく当時に印判師は100人もいなかっただろうと思います。100人もいたなら印章業はその時点で成立しているはずですし、敢えて当時の権力者が印判師を養成する必要もなかったと言えます。奈良時代までは印章は全て公印で、私印の使用は禁止されていました。そのほとんどは鋳造印でした。平安時代の後半には花押というサイン文化が花開き、印章は一時衰退しました。今と同じです。印章を作れるのは漢字に精通している博士でありました。それらの文人が印章をデザインしていたのです。戦国時代に入り、武将たちも花押も使用しましたが、偽造をおそれて印章の時代に戻り始めました。また、ポルトガルやオランダとの交易が盛んになり、それらの国の要請で朱印をおした朱印状が必要になりました。商人の間では実名印(後の実印)が使用されるようになり、いちいち鋳造された印章を作製するわけにはいかずに、もっと印章を普及できる技術が求められていたと思います。そこに目を付けた権力者は、国を統治するために、全国から板版師(版木師)を集めたと考えられます。伝来したお経を版木にしてそれを摺って経典を作製する者なら当時100名集まったと考えられます。そこから3名の方が選抜されて、「細字」さんになったようであります。その後の細字さんについては、お一方は、前田利家に召し抱えられたようです。またもうお一方は、大阪から三条に移り住まれたようで、その後の「はんこ屋と庶民の印」については、石井良助著『はん』に掲載されています。

 

彫刻技術の伝来から始まった印章業です。彫刻技術が消えゆけば・・・商業主義の目線でこのまま変わることない在り方であると、どうなることだろうと危惧いたします。・・・。わずか440年の技術のみを見るのではなく、大宝律令以前からの「おしで」の在り方を大局にたって見据えないと、440年に積み重なった先人の功績や優秀な技術に未来は無くなると考えます。

 

 

https://www.kateigaho.com/article/detail/179218

 

posted: 2025年 7月 26日