OSHIDE
本ばかり読んでゐる子の夏畢る
【作者】安住 敦
自らの納得がいかない商品は、お客様にはお渡ししていなのですが、それでも仕事をしていると、今回の実印は我ながらよくできたと見入ってしまうような出来栄えの時もあります。しかし、それを自慢げにSNSなどで公開しお見せすることは出来ません。お客様のシークレット番号を公開するのと同様、いやそれ以上の問題なのかもしれません。印章は、そういうシークレットである個人情報としての側面を多く有しているからです。しかし、印章の特性はそういう側面ばかりではありません。

押印廃止などの印章無用論が出てくるのは、信証の具としての信憑性を疑われ、印章よりも利便性の高い信証の手段としてのデジタルをその論拠にしています。その議論の土俵で印章の法的な、制度的な論拠を示して異議を申し立てることによりその正当性を挙げることが現在においては、その効果を示さなく、印章需要の減少をもたらしていることは事実であります。
(『印章憲章』の項目三を参照ください。)https://www.inshou.or.jp/inshou/about/inshoukensyo.html
その信憑性が疑われている昨今、それは業界の危機であります。
印章の在り方は、信証の具であるという側面を有しながら、その根本思想である「おしで」の哲学に戻り、社会との接点を取り戻すことが求められていると思います。
もう少し具体的に述べると、実印や銀行印という「登録印」としての役割以外の印章の在り方、暗証番号や鍵のようなシークレットである印影ではなく、姿の美しい印章を世に示していける印章であり、インスタグラムで自分の印章の美しさを自慢できる印章があって、そう言う方向も提示することにより、「おしで」としての意味を次世代に伝えていけるものとなることでしょう。
江戸の優秀な絵師の多くは、雅号というよりも自らの名前をその画風と共に多く持ち、意識的に変えていることは、今読んでいる『眩(くらら)』(朝井まかて著)に出てくる葛飾北斎は宿替えも多く、名前を変えたことでも有名であります。おそらく、その度に落款印も作り変えていたことでしょう。
落款印が書世界の篆刻として確立していますが、篆刻というのは、「印章を作製すること」で、印章の持つ役割をどこかで分岐させ、実用の印章と芸術の印章に分けられてしまったのだと思います。しかし、芸術の印章のみに美があるのではなく、実用のなかで鍛え上げられた美であるからこそ、その在り方が文(あや)となり、人と人との約束を円満に進行させてきた摂理を有しています。
書道において、実用印を押すのも現代的なのかも知れない。展覧会書道でない新しい書であれば、それは大いにあり得ることだと思います。
書の世界だけでなく、現代人はいろんなところに自己表現をしています。封印も印章の特性の初期の頃のものです。粘土板や封泥の上に押す印章としてメソポタミアから西洋にわたり封蝋として定着したシーリングスタンプが流行っていますが、朱肉で押した方が東洋的センスを伝えるものとなると思います。それ以外にも朱肉で押すということは、封蝋はいったん破られてしまえば、跡形が残りません。それは西洋思想を象徴しています。きれいに消えゆくということです。しかし、東洋思想は、残す、伝えるということを大切にしています。きちんとした朱肉なら王義之の蘭亭序が示しているように、その所有者の印影は後世に残ります。(あくまでもきちんとした朱肉の場合ですが)
また、自らが作曲した楽譜に押印、いつの時代に作った作品であるか、後世の人はその押印された印影で判断する。それはシークレットでもなんでもなく、お友達にだけでもなく、地球マークであり、いわゆる公開されていく。だから印からその人の作品を見て取れるし、作品の真偽にも使われていくのであります。
文学作品、読書感想文、コミック、自費出版の奥付、陶芸印など、後世にオープンなのだから、きちんとした印を作ろう。
それは、神との契約を前提とした人と人との約束を見守り続けてきた「おしで」の印章です。
今!『OSHIDE』を先人の技と知恵、今をデザインされる様々な人の知恵や工藝の手を借りて構想中です。まもなく、地球マークで公開していきます。乞うご期待。
『HNKO KIAN』は、それを説明するものとして、同時並行に進めていきます。
posted: 2025年 8月 27日