生きている本物(ほんまもん)

FB「三田村印章店」発の「印章講座」において、篆刻と実用印についていろいろと資料を調べていると、このこととは少し関係がないのですが、共感した言葉に巡り合いました。

それは、私がよく紹介している京都の水野恵氏のお話しでした。

少し、以下に抜粋を紹介いたしますが、著書が京ことばですので、そのまま記載させていただきます。

『・・・芸術についての考え方はだんだんと西洋風になっていきました。画工、塗師、仏師、大工、鋳物師、表具師、硯師、版木師、摺師、その他みんな横一線の職人やったのに、その中から西洋のクンストに重なる人々だけを芸術家とし、その他を職人として、上下の階級に分けたんどす。いわば、一般社会身分としての士農工商が消えるのと入れ替わりに、物作りの士農工商が設定されたんどす。

今でも美学や芸術学を覗いてみると、論議に先立って実用目的制作物等の言い方で、職人の作る品物を予め(あらかじめ)芸術の対象から除外する傾向がみられます。事実は、石段でも硯でも、仏像でも篆刻でも、実用であり、同時に芸術である物は世の中にたんとおすにゃけどな。

日本の古伝道統が今や風前の灯状況にあるのは、一つにはこういう職人差別が絡んでいると思います。ほんとうは職人である事に胸を張ったらよろしいのやけど、それを焦って芸術家て呼んでもろて士農工商の上の方に行こうと思う人がいるさかい、益々世間の人々に篆刻がわからんようになります。・・・』

また別ページでは、『民族資料館というような所へ行くと、草鞋(わらじ)、竈(かまど)、火鉢、火消し壺、ふご、大福帳、矢立て等が陳列してあります。それらには「偽物」は無うて「本物」ばかりやと思います。「本物」には違いないけど、只今道路を走っている自動車や、今晩ボクが使う茶碗のような「本物」ではおへん。一方は既に「死んだもん」、一方は「生きてるもん」どす。

ボクは「生きてる本物(ほんまもん)」を伝えとおす。「ええ篆刻」は「本物」であるだけやなしに「生きている」必要がおすにゃ。・・・』

〈水野恵著『日本篆刻物語』より〉

「生きている本物」とは、社会的な実用性があり、お客さんがお金を支払って日常の道具として、また日用品として使用されるものであるというのが私の概念で、それを床の間や壁に飾って鑑賞したり、展覧会に出品する物は「生きている本物」とは呼べない物であると捉えています。

前述の「物づくりの士農工商」という職人差別についてもお話ししたかったのですが、長くなりますので、機会を見て展開させていただきます。

 

posted: 2013年 6月 10日