職人の修業は修行にも通じる
夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり
【作者】高浜虚子
昨日が夏至だったんだと何かのニュースで気づかされました。
大きな行事もなく、ただ単に日中が最も長く夜が最も短いだけの日です。
夏に至るという大きな節目なのに、あまり関心を持たれない・・・夏至が名も無き職人の魂である気がしてなりません。
以下、「無一物」というブログ記事に対して頂いたコメントです。
「人間最期は死ぬと分かっていてもなかなか欲望を捨てる事はできません、お互い目の前の利益や損得を追求し紛い物を売ったり安ければいいと直ぐゴミになったりするものを買ってしまいます。修行といえば滝行や絶食、行脚等が思い浮かびますが、それが何の役に立つのだ?と問われれば明確に即答できる人間はなかなかいないと思います。どんな修行でも同じように悩むものであるとは思いますが修行はひらく事のできない人生の悟り、覚者たらんために行うものであると私は考えます。技能士の方達の修行も同じで到達できない高みを目指して修行した技術を入魂するからこそ美しく我々使用者はその製作者や物に対し敬意を払い人生の充実を達成するため襟を正し使用しなければならないと思います。また印章は子供のオモチャとは違い先祖から受け継いだ名前を彫るからこそ正しい物を使わなければならないと信じています。」
私のお返事です。
「いつもコメント、有難うございます。
職人の修業は、修行にも通じると私は思います。
それは、ただ単に技術を覚えるという事だけではなく、その世界で「してはいけないこと」や「なさねばならぬこと」をきちんと身に着けることです。
それは、いわゆる職人道徳を技術修練と共に自分に叩き込み、他者との関係や、職人仕事の使用者との関係、先に行く人への尊敬と、後から来るものへの労いをきちんと技術とともに自己に落とし込む作業の事を言います。
技術だけではいけないし、道徳がない技術でもいけないと私は思います。
正しい物をご提供できる喜びと共にこれからも頑張ります。」
posted: 2021年 6月 22日