技術と職人を大切にしてきましたか?

梅干しでにぎるか結ぶか麦のめし

【作者】永 六輔

 

「印章」と「印鑑」の違いを常に重要に考えられ、テレビ、新聞が「印鑑」という言葉を使用する度に、抗議の訴えをされていた東京の偉い先生がおられました。

一貫性があり、とても立派な方だと思います。

その先生がそういう訴えをされていた時には、耳を貸さずに、最近この違いを自慢げに説明される方が多くなりました。

ネットショップにもそういう事が書いてあるものも見かけられます。

確かに、厳密には「印鑑」と「印章」を同列視するのは間違いであります。

しかしながら、消費者は、圧倒的に「印鑑」であります。

印章を表す言葉には、「判」「版」「はんこ」「ハンコ」「宝璽」「璽」「印」「章」「符節」「印判」「印形」・・・などがあります。

専門職のハンコ屋さんも、全ての違いと歴史的な役割をきちんと答えられる人は少ないと思います。

ちなみに、「印鑑」という名称は、印影を登録した台帳という概念以外にも使われていたことがあります。

昔々、関門、城門などを通行するのに印を押した木製の手形を指して「印鑑」と呼ばれていたこともあります。

時代や社会の在り方において、名称は変化適応していくものと思います。

印章業界が、それでも「印章」と呼んでいただきたいなら、先の先生のように一貫して姿勢を曲げない態度や業界としての規範を設ける必要があったと思いますが、社会にこれだけ定着した「印鑑」という呼称を、今更「印章」に変えていくのは至難の技かも知れません。

「おにぎり」か「おむすび」かの違いのように思うのは、おそらく私だけでもないと思います。

 

永六輔さんは、七月にお亡くなりになりました。

職人や職人の生き方、文化を大切にされた方でした。

今、印章業界は大きな声で叫ばないと、職人を大切にしてくれません。

それどころか、古い!堅物!と毛嫌いされる対象かもしれません。

それが、明確に表れているのは、技能検定の受検者がいなく、技能検定の廃止ありきで厚労省から令和3年度の技能検定に100名の受検者を集めなさいといわれて、少し、ほんの少し焦りだしているようにも感じます。

以前から分かっていたことなのに、放置してきた・・・職人を蔑ろにして、技術継承を重視してこなかった証であります。

 

社会は、脱「書面・押印・対面」で動いているのは間違いがないようです。

昨日、政府と経済団体の共同宣言が出されました。

「押印」に関しては、政府が具体的根拠の一つとして歴史や数字を示すことができるのは、厚労省管轄の印章の技能検定の推移であります。

上に述べたとおりの技能検定の状態です。

業界団体や個人としていくら経産省や文科省との結びつきがあるとしても、技能検定を推進してきた業界の歴史と厚労省の関係に勝てるはずなどあり得ません。

これも「おにぎり」と「おむすび」の関係に似たものを感じます。

脱ハンコは、制度や論理ではなく、法的にではなく、既に社会問題であるということです。

それ相応の対応が求められていると考えますが、まずは職人を大切にしていただきたいと強く要望致します。

posted: 2020年 7月 9日

砥石の凹みと印章業界の凹み

わたくしに劣るものなく梅雨きのこ
【作者】池田澄子

昨日は、とあることで気分が重かった。
気分を変えようと思い、ここ十数年間、ほったらかしにしていた仕上げ砥石の面直し(つらなおし)に汗をかきながら何も考えず向かい合った。
砥石を長年使用していると、良く砥ぐところが減ってきます。
おおくは、船底といわれるような、湾曲した形に自然になっていきます。
それを真っ平に整形し直すことを面直しといいます。
私の仕上げ砥は、それほど高級なものではないのですが、京都の本山の固めを使用しています。
なかなか平らにならない・・・。
それだけ、ほったらかしにして、少し船底の方が上手く砥げると訳の分からないことを後輩などに言い訳して、自分と自分の技術を誤魔化していたのだと、反省しながら真っ平になるまで作業を続けました。
付随して、仕上げ刀の角度と厚みの関係を今の年齢の握力に合うように、研ぎ直しました。
長年の相方が生き返ったように、切れ味が蘇りました。

ともすると、組織というものは自らの在り方を見えなくしてしまうことがあるようです。
言い換えると、馴れ合いです。
自分たちがしていることが正しいとして、よそ者や他の意見を受け付けないので、新しい感覚や意見、物の見方が入ってこない。
砥石がへこんでいても、気が付かないのです。
印章冬の時代に於ける一番の課題は、技術継承です。
技術継承が砥石の凹みのように感じ、そこをほったらかしにしていると、印章は氷河期に入ってしまうようにも感じます。
馴れ合いではできません。
面直しの効果があることは、分かっているのに、面直しをしないのは、意識の問題かなと情けなくも思います。

posted: 2020年 7月 7日

美術なら残れる!

来週には、第23回全国印章技術大競技会の審査の為に、東京に行かねばならないのですが、不安と恐怖を感じております。
それでも、審査を少しでも公平にする役割が一人ひとりの審査員にはあるはずですので、中止にならない限りは東京に向かいます。
昨日、厚生労働省の第25回「技能検定職種の統廃合等に関する検討会」の議事録を再読していて、コロナ以降の自らの仕事の在り方を考えていました。
印章業界は、技術がベースにあるはずなのですが、市場ではオモチャのようなパソコン印章が出回っています。
リモートワークの障壁として捉えられ、大手企業さんが脱ハンコ宣言をされ、それが次から次へと感染しています。
何れの企業さんも、ハンコは美術品としては残すべきであると話されていました。
社会的評価が、なぜ?印章に向けて低いのでしょうか。
技術を重んじる印章業者や技能士の人は、美術品を製作するように手間暇をかけて印章を彫刻しています。
しかし、多くの印章業者はそうでなく、パソコンでオモチャのようなハンコを平気で作製し、販売しています。
商品の価値より経営手腕が問われ、粗悪な商品を早く作成することに重きを置いてきました。
その結果、オモチャのような印章が、企業のリモートワークの邪魔になったのです。
それは国とて、同じような見方をしているようです。
厚労省の技能検定統廃合検討会のとある委員の発言をご紹介しましょう。
「印章彫刻は、昭和45年に申請されたのですが、累計受検者数が段々と減っていて、技能検定の受検は非常に低調であることと、過去にもこういった統廃合の検討会の対象に挙げられているよということ。また、ヒアリングによると潜在的な受検者候補者数はあるけれども、受検ニーズに繋がっていないということ、技能検定を長く実施しているにもかかわらず、業界全体として技能検定の必要性が理解されていないことが考えられます。」
これは、技能検定に於いての事ですが、技能検定すら維持できない業界が、技術を重んじている筈などないということの証明だと考えられます。
長い間技能検定に携わってきた私から言わせると、組織幹部の人は技能士の方であっても技能検定の制度が何たるかを知らない人が実に多く、実際に印章を毎日彫刻して、お客様にお渡ししている人は殆どおられなく、そういう人たちが組織運営をしているのだから仕方がないかなとも思います。
しかしながら、リモートワークの障壁となるオモチャのようなハンコは無くなって然りと思いますが、それに乗じて、実印やその制度が形骸化して、スマホに入れられた住基カードがその役割を代替するようになれば、これはもう大変というか、今まで技術とその継承現場を等閑にしてきた組織責任と言って過言ではありません。
実印や大切な印章には、分速で販売されているようなオモチャのハンコは、分速で作られているということです。
それでは、次は実印や大切なハンコが狙われる。

技能検定統廃合検討会の議事録を纏めた報告書には次のように記されています。
「印章業界全体の業社数は、業界誌調べに於いては約7,000 事業社となっているが、多くの印章店は、コピーの普及、パソコンの普及、インターネットの普及に伴い、印章彫刻技術に関係なく商売の量が減少し、更に機械彫刻も可能となり競争も激化、小規模店等は営業を続けられなくなるケースが多く、減少傾向にある。
受検者が増加しない要因の一つとして、本来印章は手で彫ることにより唯一無二性をもち、それが個人を特定するカギとなるが、文字フォントを利用して印材に文字を彫る機械彫刻も可能なため、安さ、速さを売りとする商売の形で、彫刻技術がなくても印章業を営むことができる上、技能検定の資格取得が営業の必要条件となっていないため、取得に対する意識を向上させることが難しい面がある。
国家検定である技能検定が廃止になれば、印章彫刻の技能の継承が難しいものとなると共に、印章業界としての衰退に繋がってしまうと考えられる。」

技能検定が廃止されるという事は、業界の衰退のメルクマールと言って過言ではないということです。
また、この衰退を国は自然衰退していく事だろうとみているということに繋がります。
だから、住基カードの多様化をはかり、スマホに詰め込もうとしていることに繋がります。
リモートワークの障壁としての印章や政治的なるハンコ議連の問題がおこってからの業界人の議論は、技術のありかたに向かう人はいなく、その制度論を議論し、はたまた言い尽くされると最終的には、ハンコは文化だとします。
しかし、そんな文化的な印章を彫刻販売している人はおられるのでしょうか?
まるで、文化包丁のようです。
悲しきかな・・・。
本来の原点、印章のベースである技術に目を向け、その工藝的側面を前面に出していきましょう。
美術なら残れる!のですから。
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_11078.html

posted: 2020年 7月 4日

「調整」と「調製」

芍薬の蕾のどれも明日ひらく
【作者】海野良子

昨日の記事のなかで、「実印を調整する」という言葉を用いましたが、Facebook友達Yさんから「調製する」ではありませんかとのコメントを頂きました。
つくる・製作するというニュアンスからして、「調製する」が正しいかなと思いまして、印章関連の古書にあたると「調整する」という言葉が目に付きました。
ネットで調べてみると・・・
【調整】調子・過不足をととのえる
【調製】注文に応じて作る
「調整」も「調製」も、どちらもチョウセイと読む同音異義語です。
とありました。
言葉の在り様からすると、ご指摘を頂いたYさんが正しいと思います。
では、何故印章においての古書には、「調整」とあるのかなという疑問が出来ました。
著者が間違われたとも考えられますが、その著書には、次のような文章を見出しました。
「印章は彫刻者の全人格と、全精神力の所産である。刻者は高い見識をもって、正しい印章の力作を念願したい。」という書き出しから始まり、使用者が捺印効果の重大性については認識しているが、印章そのものについては知識を持つ人は多くはなく、印章は買い付けない物を買うという行為であり、それは容易ではないとしています。
ですので、そのお客様を正しく導くことが印章業者の使命でなければなりません。(「啓発」という言葉で現在では言い表されているようです)

現在の印章店はどのようにされているのでしょうか?
私が思うには、その使命をお忘れになり、経営論に夢中になり過ぎたのかなと思われる節があります。
啓発は、大きな団体や組織がする事ではなく、お客様に対面して販売をするお店の在り方が重要になってきます。
その折に、一時はやりましたお客様第一主義の考え方が、印章選択を注文者の自由選択に任せてしまったという私からすると落度がありました。
見本ケースに並べられた印材を、少しばかりの素材説明が添付されていたとしても、ほとんどを価格と外観を選択基準としなければなりません。
書体の選択(嘗ては、字体選択と言いました)においても、素材選定よりも難題なのですが、これも見本帳より自由な選択・・・文字のレイアウトや印面のデザイン性についての説明などという専門性は持ち合わせていない店員による案内では、正しい印章の選択は無理で、啓発などどこ吹く風が横行してきたというのも現状の印章業界を表しているのかも知れません。

そういう意味で、作る、製作するというよりも、本来の啓発である「調整」が私はピッタリの言葉であると思います。
お客様のニーズを調べて、印章への啓発を含んで正しい知識を整えていくこと。
これが今の業界に一番求められている事だと痛感致します。

「調整」が深い認識として職人の私の心に染みていきました。
Yさん有難うございました。

posted: 2020年 6月 17日

「継ぐ」と「接ぐ」

継ぎ接ぎて延ばすいのちや梅雨に入る
【作者】清水基吉

人の命ばかりでなく、継承されてきたことの延命のためには、力ずくの延ばし技が必要とされる時もあるだろう。
しかしながら、自然の「継ぐ」から人為的な「接ぐ」への変容は、もともとの継承を蔑ろにする場合がある。
「接ぐ」行為は、とても目立ちます。接続、接触、溶接・・・
「継ぐ」行為は、あまり目立たない地味な事の繰り返しである。
本質や本義、大儀に通じているのは、「接ぐ」ではなく「継ぐ」ということで、「接ぐ」では見られないものを「継ぐ」では見せてくれる。
きちんとした継承に目を向けずに、溶接ばかりしていたのでは、物事の本質は隠されて行くだけだ。
溶接者は、過去と現在を繋ぎ合わせているようで、現在の凸凹したものを平に見せようとしているだけである。
そのうち、溶接された「目新しいモノ」もさらに新しい時代の波に洗い落されて、再び凸凹は、我々の前にその醜さを露呈してしまう。
何故、本質に目を向け「継ぐ」という行為に真摯に立ち向かわないのだろうか、いやそれどころか、凸凹を埋めるためだけに奔走するのだろうか。

本質は、一つの事象においてのみ存在するのではなく、あらゆる事象の中にある。
一つの事象が本質を見失っても、他の事象に目を向け学び直せば、その本質は取り返す事ができはずである。
今、それしか実用印章の本質を取り戻す道はないように思う。
そして、その継承は機械やデジタル、AIでは果たせず、人によって連綿となされるものである。

posted: 2020年 6月 13日

古の職人との会話

無垢無垢と滝に打たれてをりしかな
【作者】山崎十生

義父のご縁よりお仕事を頂いたご住職より古印章が届きました。
コロナが始まる少し前に、義父より預かった印影には、文字の足跡が見えない状態でした。
ひし形の朱がぽつんと紙のうえにある・・・

それを見つめながら、10数年ほど前に携わらせていただいた静岡県の寺院のお仕事を思い出しました。
古印章の復刻(写真の三寶印「佛法僧寶」の印影)
菱角のなかに多数の線が見え隠れしている状態の印影を頂き、ここから何をしろというのだろうと困り果て、ご住職に性根を抜いた古印章を送って頂いた。
朽ちている木材の種類もわからない、印面を見ると、彫り跡が朱肉の中に見え隠れしていました。
何百年も前のもの・・・
・・・性根が抜かれてはいましたが、文字を辿って悩んでいると、夢枕にこの印章を刻したであろう職人が立ち、文字の行方と姿を導いてくれたような気がしました。
それにて、古印の復活は果たせたのです。


信じられないような、スピリチュアルなお話ですが、実際の体験です。
それ以降、どのような印章でも、お金に糸目は付けないと言われても、私はお亡くなりになられた方の印章の改刻をしないようにしています。
他の物は分かりませんが、少なくとも印章には、その製作者である職人の魂と使用者の魂が混在しています。
その印面を削り取って、再び新たなる名前を彫ることは、私にはできなくなりました。
改刻をする職人に、目に見えないそれらの塊が飛び向かってきます。
神経を使い、すり減らす、とてもしんどい仕事なのです。
これは、あくまでも私の仕事へのスタンスです。
他の職人さんに強要しているお話ではありません。
私はできないというだけです。
寺社印の復刻は、前の印に倣い、新しい素材に彫刻します。
改刻とは違います。
前の印を睨まないといけません。
何日も考え続けないといけません。
自分の我や煩悩を捨て、元の印の職人さんの魂との会話をしないと出来ない仕事です。
これより上手に彫ってやろうとか、自分ならこういう文字の形は使わないとかいうことを全て葬り去らねばなりません。
寺社印の復刻は、私にとって修行です。
印章彫刻工としての本当の技量が試されます。
丹田に力を込めて、古印を睨み続ける日が続くように思います。
無垢無垢と・・・。
向き合っていると、神経がとても疲れます。
普段の仕事以上に疲れます。
しかし、復刻が完了すれば、すがすがしい気持と更なるエネルギーを頂けます。
今回は、菱形印二顆と寺号印、本尊印の合計四顆です。
半年くらいはかかりそうなお仕事ですが、ご住職もご理解くださる、そういうお仕事です。
携わらせて頂くことに、感謝いたします。

posted: 2020年 6月 9日

欺瞞印章工場との訣別

五月雨の降のこしてや光堂
【作者】松尾芭蕉

この芭蕉の句を岩波文庫では、「五月雨はすべてのものを腐らすのだが、ここだけは降らなかったのであろうか。五百年の風雪に耐えた光堂のなんと美しく輝いていることよ。」と句意を説明しています。
今日もそぼ降る五月雨の大阪ですが、やはり五月雨は大きな犠牲と共に多くを腐らせたように思えてなりません。
初夏を迎えているというのに、いやその前、コロナの前から印章は冬の時代を迎えていました。
印章自身の在り方を旧態依然の存在として、リモートワークの障壁であり、さらにデジタル化社会への社会悪のように、コロナ禍を利用して大宣伝が五月雨のように印章業界に降り続けています。
業界の内部では、様々な反論が様々な角度から業界人の私の目や耳に入ってきました。
しかし、社会に対しての返答をしているのは、ほんの一部であります。
そのこと自体に対して、私も反論の文章を作りは致しませんでした。
むしろ、業界内部での意見が滑稽に思えて仕方がありません。
いくら印章の本来の在り方を今の印章無用論に対抗して示したりしても、その印章自体を本来の価値ある物として、きちんと製作し消費者に届けてきたのかという疑問を逆にぶつけたくなります。
一部の、ほんの一部の業界人の中には、そう言う姿勢をもって印章を製作して販売されている方もおられます。
しかし、多くはパソコン印章やフォント印章を大量普及することに力点を置かれ、印章本来の存在価値を守ろうとする社会的役割を遠く昔に投げ捨ててきた人達が多いように感じています。
その表れが、印章技術への軽視であります。
印章技術の現場は疲弊し、そこへの力点が無かった証には、既に国(厚労省)により技能検定の存続要件に満ちていないと廃止を検討されるという、とんでもない事態を自らが招いてきたと言わざるを得ないのです。
技術者がいないのに成立しているのは、不思議でならない業界です。
ですので、印章は自らの力でもって冬の時代を作り出したと言って何ら過言でないと私は思います。
そして、消費者はそのことを知っているので、パソコン印章やフォント印章なら、そんな価値がないものなら、もう印章はビジネスに必要ないという運びになってきています。
パソコンやそのフォントで作製する印影なら、印影化することが不要であり、そんなものには価値がないということです。
当たり前の論理であります。
今や、大きな企業がこぞって押印廃止の声を上げ始めています。
そして、その対策が根本を見直す姿勢でなく、やはり経営論的な対処方法です。
その対処方法もこのコロナにより、上手く稼働していない、稼働どころか全国的にはその構想さえ見えてきていません。

文章が長くなりますが、興味がある方は引き続きお読み下さい。
コロナ雨という五月雨に腐ってしまった後、残るのは光堂です。
先日より、本来の印章を扱う人と、そうでない印章業界の人は区分されていき、きちんとした印章を扱う人は刀商のようになるであろうと予言いたしました。
そうすると、SNSというのは恐ろしいもので、刀鍛冶の藤原兼房さんの工房の広告が目に留まりました。
同じことを言っておられたので驚き、「いいね!」をさせて頂きました。
その方が書いておられた広告の記事をご紹介させてもらいます。

「何故、侍の居ないこの現代に日本刀を作るのか‬
国宝のおよそ一割が刀である。その中の半数以上が鎌倉時代の作品であり、後世に残る素晴らしい刀を数多く鍛えた。
それはもはや単なる武器ではない、究極の芸術作品です。
そんな鎌倉時代の名刀に勝るような、刀を打つ事、
それが現代の刀鍛冶の目標でもあります。
しかし未だ誰一人として当時の刀の美を、完全に再現出来た刀匠は、おりません。
正宗を、一文字を、まだ超えられない、何百年も昔の、名工達が、今も刀の中にいて、未だその背中を追い続け現代刀と言うだけで、すでに歴史には負けています。だからこそ本当の名刀を作って真っ向から、藤原兼房家は、勝負して行く覚悟です。
正宗や、一文字が、参ったと、唸るような名刀を、作る。彼らの向こうには、未だ誰も見た事のない世界があるかもしれない。」

刀は、現代では誰ももっていません。
ほんの一部の方が法律に基づき所有されていたり、美術館に所蔵されていたりするものとなっています。
実用印章と刀は違いますが、同じような道をたどっていく事のような気がしてなりません。
刀は、その道を明治以降長らく歩んできました。
印章は、明治以降に実用性を前面に出し、人々の暮らしと共に歩んできました。
その多くの人々に見限られているのが現状です。
何故、見限られたのか・・・
多くの人々が悪いのではなく、印章業者が悪いというのが私の論です。
印章を扱う人の生き残る道は刀商です。
職人は、刀鍛冶です。
それ以外の業界人は、印章を消した業界として、別な在り方を求めていく事だろうと思います。
それを印章と呼ぶならば、もう社会は黙っていないと思うのは、私の論です。

写真は、河井寛次郎の陶板「髙きに灯ともす 人間の髙さにともす」です。

posted: 2020年 5月 31日

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