次に伝えていますか?
七月のなにも落さぬ谷時間
【作者】秋元不死男
いつもなら夏祭りの幟が街角にハタハタと閃いているはずの7月です。
先日、交差点にたって小学生の通学を見守っている地域のおじさんに「幟がない夏はさみしいですね」と声をかけました。
おじさんは、地域のお祭りの世話人で、次男も子どもの頃お世話になりました。
朝の挨拶のつもりでしたが、そのおじさんは悲しそうな顔を私に向けました。
「いや、来年はできますよ。」とこれもできるという根拠もなにもない、ただ励ましだけの言葉です。
おじさん(と言っても80歳前くらい)は、「できますやろか・・・」と弱々しく、更に悲しそうに、泣き声のようにも感じました。
「大丈夫ですよ」とこれまたええかげんな励まし・・・。
そういえば、昨年もこれと同じ会話をしたような気もします。
1年ならまだしも、2年連続で地域のお祭りができないということは、そのおじさんにとっての2年は、とても大きいし、ひょっとして来年は祭りをする事も見る事も出来ないかもしれないという時間なのです。
また、子ども太鼓の伝承は、2年間の空白となります。
今の太鼓の教え方はきっと違うのだろうが、私の子どもの頃の方法は、先輩が傍について教えてくれました。
右左右・・・右左右・・・右左右、左右と声をからして太鼓のバチの上げ下ろしを一生懸命指導してくれました。
そして、自分が上級生になれば、下級生に同じことをしていたのです。
その繰り返しがお祭りを作ってきたのでした。
2年もその練習をしないという事は、3年生の子が5年生になります。
5年生の子は、中学生になり子ども太鼓からは卒業になります。
おじさんは、その事も含めた意味で「できますやろか・・・」と悲しそうに答えたのだろうと思います。
物事が止まる、中断するということは、とても怖いことで、表面上のことだけでなく、根本的に動かなくなることをある意味示唆しています。
準えては書きませんが、印章技術の継承現場はどうだろう・・・。
※写真は一昨年の夏祭風景です。
posted: 2021年 7月 2日