「はんこ文化」を残せばよいのでしょうか?
先日より疑問に感じていた「はんこ(ハンコ)文化」という言葉があります。
河野大臣が、はんこを無くしたいという発言と共に、おまけ(言い訳)のように足された言葉の中に、「はんこ文化」という言葉がありました。
「行政の手続きにハンコはやめようと言ってるのであって、ハンコ文化は好きです」
このはんこ文化って、一体何なんでしょうか?
河野大臣は、ツイッターに愛読書と思われる文庫本の表紙にハンコを押した写真もアップ。更に「封蝋とかも」とつぶやき、封蝋写真もアップしていた。
蔵書印や封蝋という趣味のはんこが、はんこ文化なのでしょうか?
認印、銀行印、実印、法人印と呼ばれる実用印章は文化外の物なのでしょうか?
それは、無くしてハイカルチャーな蔵書印や封蝋は残すべきなのでしょうか?
河野大臣ばかりを責めましたが、業界内でも実用印の在り方が職人的な製作方法と古い慣習的な印影が今の時代から遊離していて、もっと斬新な印影であるキャラクターや文様を文字とコラボしたものを流行らすべきであるという論調があります。
そうした論調のはんこは、パソコン機能を用いてデザイン?できるもので、熟練した職人技術はいらない、誰にでも作製できるハンコのようなもの?であります。
そういったはんこ?が市場で乱売?されているので、それが文化であるという錯覚さえ起こしかねない状態です。
蔵書印も捺せればよいとかキャラクターを入れたものとしてのサブカルチャー嗜好のものとなれば、そう誰にでも作製出来て、熟練の技術者の腕はいりません。
ところが、きちんとした蔵書印を文化として残すならば、実用印章そのものを残す努力をしないと、蔵書印は文化として残りません。
きちんとした蔵書印は、パソコンやAIがデザインするのではなく、職人が今まで培ってきた技術を用いて作製するのですから・・・。
職人がいなくなれば、パソコンフォントで作られた電子蔵書印をプリントアウトして使用するのでしょうか?
文化とは、「耕す」とか「修養」という意味を持っています。
民を耕す政治により印章を無くす努力をされることが文化に繋がるとは、私は到底思えません。
今回は印章が攻撃されていますが、これは日本の文化や伝統工芸に向けた攻撃だと私は理解しています。
もっと、考えなければならないし、それでも生き残るためにはドンドン萎縮している印章業界は、大量消費、大量生産の在り方を改め、「製作者」と「使用者」の関係を再分析し再構築することが求められていると思います。
新聞の書評にありました書籍「椅子クラフトはなぜ生き残るのか」を購入しました。
読後感は、またの機会にお話します。
posted: 2020年 10月 7日