第6章 文字の起源・・・その2

(2)文字史概観

<黄帝以前>

文字は、黄帝が治国の要道としてこれを作成したといいますが、それ以前密犠氏(包犠氏)の時に八卦によって初めて龍書というものを作り、神農氏は嘉禾(いね)によって穂書と称する文字を作成し、黄帝自身も瑞雲を見て雲書というものを作ったという伝説的な説話が残っています。

『周易、繫辞伝』等

 

<黄帝以後>

黄帝の官吏蒼頡(そうかつ・そうきつ)の作ったものは、鳥獣の足跡の象形文字ですが、このときに従来の文字らしいものに増減を施し、一定の秩序と系統をたてたものであり、この蒼頡の作ったものが、幾銭年の間に改作また改作を加えられて、ついに今日の文字まで進歩したのであります。

蒼頡以外にも、少昊氏は鸞鳳書(らんほうしょ)というものを作り、高陽氏は蝌蚪文(かとぶん)を作り、禹は九鼎を鏤めて鐘鼎篆を作ったといわれるが、いずれにしても蒙漠たる千古のことに属し、今日ではその真の姿を伝えることは困難であります。

現在言うところのそれらの書体は、後世の者がそうした名称を付けたにすぎず、信を置きがたいものであります。

 

<字典>

兎に角四千年前に、初めて系統づけられた文字は、現在において二百十四部門に分類されています。

その字数も四万~五万でありますが、康煕字典は四万二千七十四字、大広益会玉篇大成は四万五千八十字、篇海には五万五千四百二十五字を収載しています。

中国を指して文字の国とはよく言ったものとその数に驚かざるを得ない。

我が国の字典もこれらより取捨選択して作られているが、主に康煕字典のそれに準拠しています。

 

posted: 2013年 8月 9日

第6章 文字の起源・・・その1

第6章 文字の起源

(1)印の生命

<人間のみの天恵>

個人と個人、あるいは団体(集団)と団体間において、何らこの意思表示を動作、音響以外の形態で表し得るものは人間だけであります。

かのエンゲルス博士は『猿が人間になるについての労働の役割』のなかで、人間の労働の重要性を熱論されておりますが、それと同様に意思表示として文字を用いる技術は人間にのみ与えられた天恵ともいうべきことであります。

 

印章において最も重要なものは文字であり、言い換えれば文字なくして成立しないのが印章と言えましょう。

故に印章の研究はまず文字より始められるべきことであります。

 

<最初の文字>

往古において文物の発達が大陸よりはるかに遅れていた我が国は、文字も亦この中国大陸から輸入された為、文字の研究は必然中国史に遡らざるを得ない。

 

その中国ではいつのころから文字が生まれたのか・・・。凡そ四千年前ごろ、伝説によれば、黄帝仕える史官であった蒼頡(そうけつ)であると言われています。それまで中国の人々は、インカ帝国のキープのような縄の結び目を記録に用いていたが、蒼頡は鳥や獣の足跡の形によって元の動物を推測できることから、文字によって概念を表現できることに気付いたといいます。

戦国時代には蒼頡の伝説は既に一般化していた。淮南子には「蒼頡が文字を作ったとき、天は粟を降らせ、鬼は夜に泣いた」と記されている。また説文解字は、「蒼頡ははじめに作った文字はみな象形文字であり、これを「文」と呼ぶ。その後に形声文字が作られ、これを「字」と呼ぶ」としています。

我が国においても文字の渡来以前は、これに類した方法(キープや縄の結び目)か、あるいは単に耳から伝承してきたものであって、かの古事記の序にも旧辞という語は出てきても旧史旧書等のことは発見されません。

これは文字のなかった証拠であって、漢字の渡来以後千五百年の初めに吉備の真備が片仮名を作り、同じ百年代の中ごろに僧空海が平仮名を作ったという俗説がありますが、我が国独特の文字がこれにより初めてできたのであります。

posted: 2013年 8月 9日

第5章 印章学・・・その3

(2)印章概論

<情意>

良い印章  悪い印章(良くない印章)とは・・・

印章の吉凶とは・・・

最終的に印顆、印面に調和がとれているか否かに帰結します。

すなわち、正、側、俯、仰に基づいて文字と文字、文字と輪郭が相より相助けられ、見るからに生気勃然とした印のことを言います。

 

この情意備わる印章を潤いのある良印とし、正、側、俯、仰が支離滅裂、情意の枯渇した印章を悪印(悪い印章)とするのであります。

要は、美的に調和がとれているか否かによって良否が選別されるのであり、印章学においては、この情意の有無整乱をもって第一義とします。

 

<光沢のある判>

印面の情意を善悪の人相に該当するとするならば、判における光沢の有無は、同じく人の顔面の血色に相当すると言えます。

 

健康明朗な人の血色はいかにも生気溌剌とした光沢に輝いているように、良印は精気充満、見るからに人の健康体と同様な輝かしい光沢に覆われています。

これに反して悪印は病人のようで、いかに印材に良材を使用しても印面に生色のないものであります。

 

<美しい印章>

ここでいう美しい印章とは、綺麗に着飾った美女のように、装飾の美しさを指すのではありません。

そうした装飾の美しさをもって良印とするのであれば、金銀材にプラチナを鏤めた(ちりばめた)類の印章は、その最たるものであります。

また、このような印章を所持する人も少なくない点からみれば、あるいは一部の人は高価であることが即良印と誤解しているのでしょうが、印章における美しさとは、このような外見の美を指すのではなく、所持する人の心の美しさをいうのであります。

すなわち心正しく慎ましやかな人の所持する印は常に印面が朱肉によって汚れず、埋もれず、字画整然たる上に、文字や輪郭が欠落していないことを常とするものであります。

 

印章は自己の心を映す鏡のようで、善悪共にその人の性格を反映するものでありますので、このような美しさを持つことはまた良印としての一資格であります。

また最近の傾向として、うわべだけに美を張り付けたものを見ますのも景気の関係でしょうが、専門を自負する印章業者が扱うものではなく、中身はアクリル樹脂印では、三文判に白粉をふりかけた偽物であります。

 

<印章は正しい伝統に生きる>

情意と言い光沢と言い、要は美的に整備統合されたものを指すのであり、この法則を破ったものを悪印と定義できます。

しからば、その伝統的法則とはなんでしょうか?

 

この戒律を規定するものが、すなわち現代印章学であります。

前述の章項において、印章の貴重なこと、人生攻防のアイテムであることを強調しました。

次に藤本胤峯先生が一掃を提案された迷信印相の成れの果ての書体としての印相体やいまだに生き残り続ける開運吉相印的思考(論拠はなく形のみになりつつある)・・・その害毒が印章文化の危機をさらにゆがめ、罪深くしている・・・それに歴然と対応できる論拠と力を有している現代印章学を大いに広める時期に到達しているが、その核心に触れる前に、印章の生命ともいうべき文字の起源、形態、章法、制度にわたってその概略をご説明する必要性にせまられています。

ただしこれらの諸項は印章学の根幹をなすべきものであり、印の吉凶もこの定尺により判断せねばならない不可欠の基礎知識であります。

 

この後のお話は、印章学を基礎づけるこれらの項目を簡略に説明し、併せて中国印章史、本朝印史の大略を掲げ、現代印章学による各論を実例をもってご説明しながら、今浮き上がってきた相対的な印章文化に対する崩壊的な内部外部を問わない力の解明の一助となればと考えます。

posted: 2013年 7月 28日

第5章 印章学・・・その2

<印章による運命の向上>

正しき契約も、いかなる大事業も、常に正しいという信念のもとに行われる。その折、印章の果たす役割の大きさは今まで述べてきたことと重複するが、正しい印章の所持を提唱いたします。

 

善を信じ真を奉じる精神力によって生活し、その正しい法則に従って行動することは、自然に環境が浄化され、運命が向上することは自明の理であります。

 

正しい印章の所持の提唱は、人と物と精神力と生活力を抱合せしめんとすることにはかならないのであります。

 

<服装は精神を作る>

最近はやりの整理整頓術や断舎利というのは、乱雑な家や仕事場では家事や仕事が却ってはかどりにくくなるので、いらぬものを捨てて整理すると、心身に爽快感を覚えるという者であります。

また正式な場や式典等に出席するのに、いくらクールビズや平服でとあってもTシャツや半ズボンで出かける場違いな人はいないと思います。

きちんとした身なりをすると、何かにつけて精神が引き締まり行動に慎重を期することが多くなります。

 

自己の保身の宝器として正しき良印の所持を強調するのも、それによりたちどころに病魔を退散せしめ、無より有を生ずる如き架空的蓄財を夢想し、護符的呪力によって災害を免れようとするものではなく、あくまでも真と善と美の結合によって、精神力に溌剌たる生気を吹き込み、その人自らの力と印章の神秘力によって幸運の彼岸に直進せしめんとすることに他ならないのであります。

ここに五千年間連綿として尽きぬ印章学の使命があり、将来にわたって万古不易の生命があります。

 

<一生の伴侶>

正と不正と直と曲、おおよそ物体には陰陽表裏の伴うものでありますが、曲がっている松の木の影はまた自ら曲がっているように、世に悪印と称せられる印章を所持する人も、何等かのそれを所持する因果関係を包蔵しているとみなされるものであります。

 

己が一生の信を託すべき印章、すなわち一生の伴侶となるべき印章が不正不具であれば、したがってその辿る道程も不正、湾曲、波乱重畳足るべきことは免れがたい運命と言えましょう。

 

正しい印章、印章学も人類本能の欲望によって生まれた念願を、天地陰陽の哲理に照らして究明した学理と五千年来の貴重な実際的見地から集積した経験とを人生に不可欠な印章に示現したものであって、学問としても東洋民族特有の思想を冠した権威あるものであります。

 

posted: 2013年 7月 28日

第5章 印章学・・・その1

第5章 印章学

(1)印章の威力

<印章学とは・・・>

印章のあらゆる要素を研究する学問を印章学と言います。

特に芸術的発達と形式の研究が主となります。

 

印章学は広義の古文書学に包括されて、印章、自署、字体、花押(かきはん)その他印章に関しての各部門に渉るものであり、史学の補助学として発達したものであります。

 

今日のように印章の権威の確立した社会制度において、正しい現代印章学を知ることは、極めて意義深く、そしてこれを活用するところに印徳の招来があるものであります。

 

そしてなおかつ、印章のみならず、その制度の在り方に異議を唱えることとそれによる制度への圧力と内部的な技術力の低下が全体的に作用し、今度はそれが崩壊方向へ動こうとしている危機感を持つ必要性が問われてきた中での印章学の再構築はぜひとも必要な課題へと昇華してきています。

 

<印章は死後なお滅せず>

因と果は相起り、相結んでそこに一連の因果律を生じています。

人は万物の霊長と誇ってはいますが、これを宇宙から見れば、死と生とをただ百年足らずの間に約束された一個の生物にすぎません。

 

その生じて滅するまでの生涯を朝露のはかなさに例えられ、盧生が邯鄲一炊の夢とも描かれていますが、生きながらすでに死せる如きの廃人もいれば、死してなお赫々の業績を残し、千古に滅しない偉業を讃えられる英雄もおられます。

しかし生きては人各々その智鈍賢愚によって、人間としての価値に上下の差はありますが、一般人として死後なお生前と同様の発言権を持とうと思えば、遺言状に押捺する印章に依頼するよりほか道はありません。

賢も愚も死後にまで己の遺志を伝えようとするには、一つに自己の印章の力を借りるよりほかに方法はありません。

生きては、保身護家の要具となり、死後なお自己の遺志を伝えようとする印章こそ、人一生を通じての宝器でなく何でありましょうか。

 

このような貴重な宝器であるが故に、印章は運命を支配するとまで言われる神秘力を包蔵するものであり、印と運命は現身に添う影のように、正しい印章を所持する者は正しい信念の所有者と認めれれ、不正不具な印章をもつ者は、自然それに相応した性格の持ち主であると評価して誤りがありません。

 

神秘力を持つ印章といってもイコール開運吉相印なる篆書を侮蔑したような書体を用いるものではなく、ここでは正しい印章と銘打っているところもきちんみて頂きたく思います。

 

正しい心構えの人が正しい印章を求めるのか、良印が正しい心構えの人を選ぶのか、そのいずれを問いませんが、たとえ一個半個の武士でも、世に名もない鈍刀を帯するよりも、万人が等しく古今の名刀と仰ぐ正宗の業物を帯していれば、その精神だけでもすでに数段の緊張をみせ、起居振舞をかりそめにも疎にしないと同様、正しい良印を持つことが、すでに人生にたいして緊張と真剣みを具備させることとなります。

したがってその人の前途もまた期して待つべきものがあると言えます。

 

 

posted: 2013年 7月 28日

第4章 印章再認識時代・・・その6

(3)印章道

<識見と精魂>

印章に秘められた人生についての使命を知らない・・・無見識、無知な機械のような作品が俗印であることは明白な理(ことわり)であります。

印章を武士の刀剣に例えて言えば、正しい印章を作ろうとする刻者は、刀匠のように全身全霊を打ち込んで彫刻しなければなりません。

 

相州物、備前物、関物など世に知られている日本刀は、決して空虚な精神で鍛練されたものではありません。

名匠が全能を傾けて苦心した集積が凝ったものが百錬の鉄となるのであります。

 

人の運命を司る印章を彫刻するにあたって、刻者は刀匠の如き識見と精魂をもってこそ初めて名印の創作となります。

 

全ての実用印章の彫刻に当たる人に、印章を再認識し根本から再出発をする必要とその実現の為に努力することを提案いたします。

 

嘗て徳富蘇峰翁が「今ノ時印章ヲ以テ業トナス者ハ、都鄙ヲ通ジテ少ナカラズ、而ル二文字ヲ読ンデ古代正法ノ原義二通ズルヲ知ラズ、故二篆法ヲ解セズ、又良師ノ指導二依ラズ、故二刀法ヲ知ラズ、這ノ輩ノ作ル所ヲ見ル二醜陋真二厭フ可ク、信ヲ千古二示ス二足ラザルナリ」といわれたが、今これに異を唱える印章彫刻者は極めて少ないことと思います。

また、印章彫刻者は翁のこの訓戒を脳裏に刻んで、反省し真の刻技は一歩一歩前進すべきであります。

posted: 2013年 7月 27日

第4章 印章再認識時代・・・その5

<印章店の述懐>

印判店・印章店・印房・はんこ屋・・・外見的には同じようにまえますが、店の経営形態により異なりを見せます。

ゴム印や小物印刷を主流とし、官庁や企業をお得意として持つ営業主流のお店。

多店舗型な展開をされているお店。

実印や銀行印を主としている職人的お店や高級印章専門店。

 

実印や銀行印・認印を専門とする者を、木口師(こぐちし)と言います。

この木口師で篆刻に通じる者は、風格の優秀な作品を作ることが容易でありますが、実に少ない存在です。

 

篆刻印章家と一般木口師とは、共に印章彫刻者としては各々の特徴があり、優劣はないのでありますが、篆刻家は印文学に通じ、それを技術面の裏付けとするから、自然に風格のある作品を作る結果となり、業界内の地位も高い方が多いようであります。

 

しかし、篆刻印章家・作家と称しながら、修練を怠り篆書の知識も浅く、手先の仕事を小器用に仕上げ、それだけで事足りるとしている者がいます。

彼らの作品は、一般木口師の中の駄作にも劣るものであります。

実際優れた印章を求めることは大変困難なことであります。

印象を求めても、稚拙なものしか得られないと言っても過言ではありません。

 

このような現状はどのようにしてできてしまったのだろうか。

嘗ての印章業者は、その注文の大半を下請けと呼ばれる業者の委託し、責任を持って自ら篆刻(彫刻)するものは、半数に過ぎなった。

今では、その下請け業者に代わったのが、コンピューター式の彫刻ロボットです。

自ら自信をもって彫刻している者は、極めて少なくなりました。

その中でも、篆源を極め風格ある印章を彫刻する者の数は、寂凉々たる現状であります。

posted: 2013年 7月 27日

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