第10章 印章史・・・その3

(2)日本印章史

<公印>

公印とは郡印、郷印等の類をいうのでこれらは各自、郡郷において鋳造した。

寸法も郡印は方一寸五分(45ミリ角)、郷印は方一寸(30ミリ角)とあるが、詳細な制度については今は不明で、中には方一寸八分(54ミリ角)の大なるものや、一寸三分(39ミリ角)の小さなものもある。

印文も篆書のみとは限らない。

異例のものとしては、郡の字を省き之印を加えたものもある。

別ページに掲載した伊賀國阿拝郡(いがのくにおがみぐん)の印がそれである。

また正方形に拠らないものもある。

これも別ページに掲載した十市郡の印がそれであるが、方載角印は本印のみである。

 

<倉印>

倉印は屯倉印(とんそういん)と称するものと、別に寺院に属する倉印と二種ある。

現存する印は体裁や文字より推して、確かに一千年前のものであることが観察される。

別ページ参照のうえ、(一)は諸国の長倉印で、(二)は寺院に属した倉印であるが、その詳細は今日では知る由もない。

 

<悠紀所印(ゆきしょいん)と主基所印(すきしょいん)>

別ページの(三)(四)がそれである。

<外交印>

上代において外交と言えば、朝鮮と中国に限られていた。

別ページ(五)は遣唐使印、(六)は遣新羅使印であるが、遣唐使は第16代仁徳天皇の頃に呉の国に遣わされたのが始まりであるという。

この印影は天平5年の遣唐使一行が連署した牒に押捺されたもので、最古の者であると言われている。遣新羅使印に関しては詳細不明であるが、遣唐使とほぼ同時代であると推察される。

 

<大宰府印>

九州と壱岐、対馬を管轄して初め鎮西府と称されていたが、天平7年に大宰府と改称され、同年8月に大宰府印を賜うた。(七)

 

<鎮守府印>

筑紫の大宰府と対照して、東北日本の守りを統括したのが鎮守府である。

陸奥国多賀城に置かれていたが、後に胆沢城に移され、承和元年7月に鎮守府を賜うた。(八)

 

<伊勢内宮政印>(九)

 

<伊勢大神宮印>(一〇)伊勢の大神宮の印である。

 

<伊勢豊受宮印>(一一)

 

<寺印>

当時における宗教・・・殊に仏教の権力は我々が想像も及ばぬほど絶大なものであって、多くの寺領荘園を有し、陰然公然の勢力を政界、信仰界に馳せていた。故にその寺印も本質上から見れば準公印ともいうべきものであろう。

(一二)(一三)(一四)(一五)

posted: 2014年 4月 21日

第10章 印章史・・・その2

(2)日本印章史

<おしで>

我が国の印章はいつのころより起こったかは、これを立証する確かな文献がありません。

『日本書紀』において天智天皇から文武天皇までのどの天皇についても「天皇御璽」の記述は皆目みあたりません。

ただ、この上古において「おしで」あるいは「しるし」と称していたことは間違いのない事実であります。

「おしで」あるいは「しるし」を判と称するに至ったのは中古以降であり、後に「花押」が盛んになるにつれて、印章のことを「印判」、押字のことを「書判」と区別して唱えるようになりました。

我が国の印章の起源が中国にあることは、史の伝えるところでありますが、中国においても当初は官のみ印章を用い、私には許されなかったように、我が国においても大化の改新からは印を鋳することは朝廷の大権の一つに数えれれ、各官府に給与せられる印章を官印と称しました。

現在残っている最古のものは、「大連印」であります。

大連の官職は第11代垂仁天皇の頃に始まり、第35代皇極天皇の頃まで続きました。

現存のものはいつのころのものであるかは不明ですが、仮に初期のものであるとすると今からおよそ二千年以前のものとなります。

官印は全て銅を以て鋳造され、その制度が大宝律令(701年)に挙げられています。

この後、天皇御璽から諸国印等々の説明に入らせていただきます。

<内印>(天皇御璽)は方三寸(90ミリ角)。

<外印>(太政官印)は方二寸五分(75ミリ角)。

<諸侯印>は方二寸二分(66ミリ角)であり、中務(なかつかさ)省以下宮内省までの八省を初め、台、寮、司、坊などの官署で用いられた。

<諸国印>

方二寸(60ミリ角)の制であって、これは諸国より京へ奉る公文及び案並びに調物に印する掟となっている。

続日本書紀に「大宝元年六月使ヲ七道ニ遣ハシ、新印様ヲ領布ス」とあるが、今日残存している印影は、大宝以降に使用されたものである。

山背国(やましろのくに)は山城国の古名である。

諸司印並びに諸国印は、みなその長官が掌るのであるが、若し長官に差支えがある時は、その次席の者が代行することになっている。

公式令規定の官印とは以上のものを指すのであって、材料は銅、形状は正方形、字体は大和古印体を用いているが名作のものは少ない。

磨損した場合は、太政官より中務省に指令を下し、一方式部省に命じて書博に印文を書かし、中務省内匠寮(たくみのりょう)で鋳造し、奏上したのちこれを給わることになっている。

 

★少し角度を変えて、書体としての大和古印体について考えます。

京都の印人であります水野恵氏のお言葉を借りながら考えていきます。

「律令制の印章、つまり奈良時代の印章は、誰が見ても一遍にそれとわかる隋唐印の模倣どす。ほんまにようにてます。これは大宝律令そのものが唐の模倣やし、平城京も唐の都の模倣なんやさかい、当然と言えば当然どす。日本の印章は中国の暖簾分けやな、とつくづく思います。

唯一違うところは使うてる篆書が正しいない事どす。唐印は当然ながらちゃんと小篆で彫っています。ところがたとえば諸国印は、その全部に「國印」が要りますが、全ての「國」は楷書(の形)を使うてます。

・・・中略・・・

平安時代の楷書や行書(の形)を・・略・・奈良時代の変な篆書も含めて「大和古印体」と言います。大和古印体で彫られていている印章は、中国の印章とはおよそ異質どっさかい、それらを「大和古印体」と呼んで中国古印と区別しています。」(水野恵著「日本篆刻物語」より)

posted: 2014年 4月 21日

第10章 印章史・・・その1

第10章 印章史

(1)中国印章史

<東洋文化の淵源>

東洋文化はその淵源を中国に発するといわれている。

当時の後進国であった我が国も、文物の輸入は最も多く中国に仰がざるを得なかった。

従って印章史を述べようとすれば、自然と中国の印章史に遡らざるを得ないのです。

しかし茫邈五千年の歴史を有する中国のことでありますので、印章の起源もどの時代に始まったのか・・・適格にこのことを知ることは出来ません。

あるいは三代の時代にすでに印章があったとも伝えられています。

秦に至って国璽が出来、漢の時代にその制度が整ったが、当時は公文書に限って使用を許され、私文書には許されていなかった。

人、あるいは三代には印なしと説く向きもあるが、博物誌には堯旬舜の時すでに璽印ありと記載されていますので、三代を以て印章の発源とすることは常識的な観察であろうとされています。

 

<三代印>

唐の杜祐が撰した通書という書籍には、三代においては人臣皆金玉をもって印とし、龍虎の鈕(つまみ)をつけていたと記しています。

しかし、如何なる根拠によってこのように断定したのかは不明であります。

周時代に至るに及んでは、明らかに印の存在していることが立証されています。

即ち左伝には季武子が公治をして問わしめ璽書して追って与えたことを載せています。

故に周時代にはすでに印が存在していたことは議論の余地はないのであります。

<秦印>

秦の代に至るに及んで初めて国璽が出来ました。

即ち始皇帝は、周の制を易えて、藍田の白玉を以て印を作り、螭虎の鈕(つまみ)をつけて皇帝の印としました。

これが国璽の始まりです。

その制方四寸(約12センチ角)と言われていますが、秦は二代にして滅んだので、当時の印にして現代に伝わるものは極く稀であります。

 

<漢印>

漢は秦の制に因って摹印篆法を増減改作して印をつくりました。

故にその制法は秦印とは異なっていたが、その基礎を六義においたので、古朴典雅な特色を有し、印章は漢時代において飛躍的前進を見せます。

現代においても研究者や篆刻家がひとしく漢印を渇仰礼賛するのは、実にこれによるものであって、印章は漢を以て宗とすべしと言われている。

 

<魏晋印>

魏晋印の名称はありますが、その制度は漢印に多少改変を加えたに過ぎないので、ほとんど大差を見ません。

 

<六朝印>

六朝とは漢の後を承けた三国の呉、東晋、宋、齊、梁、陳の六国時代を指します。

この時代に至って朱文、白文が作られました。

かくて印章は六朝時代において、大なる変革に遭遇したわけであります。

<唐印>

六朝を経て唐時代に至るに及んで、印章道は堕落の一歩を踏み出したと言われている。

六朝の時代に朱文が出来てからは、古法は乱れ、六義の戻るも顧みず、印章の偽繆ここに至って甚だしいと言われています。

 

<宋印>

唐に堕落の一歩を踏み出した印章道は、宋において益々支離滅裂を加え、徒に繊巧をこととして、形態においても方円の二制を違えるにいたりました。

また、印章に、齊、堂、舘、閣等の文字を用いることこの時代に始まり、宋時代において印章道は完全に堕落しました。

 

<元印>

宋印の堕落見るに堪えずとなし、元時代に及んで、吾子行、趙子昻(ちょうしこう)の二人が印章の制法を粛正しようと勉めた。

一、二、古法にかなったものも出ましたが、表面の粉飾をこととしたので筆意はありますが、古印の妙味は遂に失われてしまいました。

元印の特色は朱文を尊び、李斯の作った小篆(玉筋篆)を宗として用いました。

 

<明印>

明の官印は九畳篆を用い、この時代に至って全く秦漢の古と趣を異にすることとなりました。

しかし将軍の印には柳葉文を用い、王府の印は玉筋篆、監察御使は八畳篆を用いていた。

私印は何長郷というものが、文寿承の後をついで印制の復古に努力をしましたが、それすら古印正法に戻った点は見られなかった。

この時代はまた印叢印譜の刊行が盛んに行われたもので、利を競うあまり、玉石混淆となり、世人もまたその誤った印譜を鵜呑みにして彫刻をしたので、印章道は甚だしい混濁を来すようになりました。

 

《余談》

宋、元、明の印章道堕落の印譜を正として、現今の印相印(吉相印)のその書体は、根拠ありとして篆書をくねくねとしかも我流に曲げたもので印面を覆い隠すような醜い印章を作成する由縁とするのは、この中国印章史がその正否を語ってるように思います。

<清印>

清印は構造精密、規模も整備し、中央政府より下付する官印は、方、長、厚、薄あるいは分寸大小によって差を設け、文は芝英篆、柳葉篆、小篆等の各種各様のものを用いました。

質は金、銀、銅を用い、中には銀質にして金を飾るものもあり、これに龜鈕、虎鈕等の種々の鈕をつけて用いました。

私印は朱文白文共に尊び、名流が輩出して競って復古を唱導したので、唐以来混濁していた印章学は清時代で再び古に還り秦漢と比肩するまでにいたりました。

 

<鈕制>

古印にあっては二分、三分(6ミリ~9ミリ)、あるいは八分(24ミリ)という甚だ薄いものでありましたので、これに背鈕(せつまみ)をつけて使用していました。

そして、その背鈕も所有者の身分の高低により区分されていました。

その背鈕には様々なものが利用されていますが、一般的に動物に類したものが多く、中には瓦、環、亭等のものもあります。

動物の牙、あるいは石をもって人物を作って印鈕とすることは、古印にはあまり見られず、近代に属すことであります。

posted: 2014年 4月 21日

第9章 印の名称・・・その3

第9章 印の名称

<印章>

今日よく使用される呼称は、印章と印判であります。

一番正しい名称が、この「印章」であります。

信を昭かとする義と、文を重ねて章とする義を二つ合わせて印章というのは、今日の実用印章にぴったりした最も適切な名称であります。

今日の印章は割印を除き、全印面が一つの信を示す権威だありますので、分かれるを目的とした判の字を用いるのは理に合いません。

印章、または印こそ正しい名称です。

<印章店と印判店>

印章を業とするお店の名称は「印章店」は少なく、「印判店」が多いようであります。

これは昔の印判、はん、はんこが強く残っているためでしょう。

印章の語感は知識人向けで、印判、はんこなどは大衆的で親しみやすいことのようであります。

○○堂、□□印房などのっ名称を持つものの、世間の呼び名は未だ「印判」「印判屋」であります。

これが業態に古めいた感じを与えるのであろうが、最近のように片仮名やアルファベットのお店はどうも専門店らしからぬところがあるようで、印章を商うだけでなく様々なものをビジネスとういう名で扱っているところが多いようであります。

 

<顆(か)>

印章を数える言葉は「一本、二本」または「一個、二個」と称えるが、どうも軽々しく・・・既製の認めならそれでもよいだろうが・・・ぴったりしない。

正しい呼称は昔から存在し、現在も雅印と法律用語(刑法)に用いられている「顆」という単位であります。

刑法では印章の印体を印顆といいます。

雅印は落款用の石の印材等は引首印(いんしゅいん)と款印(かんいん)と識印(しいん)で三顆といい、一印は一顆であります。

印章は一顆が正しい、実印一顆という呼称が望ましい。

実印一個、社長印一本では信を示す首がけの大切な宝器も、一片のお粗末な感じとなります。

一個、一本の名は既製の認印に止めて、威信ある人の印章は顆と称えましょう。

印材は一本、二本と数えますが、一旦刻印して印章となると、顆となり一顆、二顆と呼称を改めるのが刻印中における刻者の礼儀でもあります。

posted: 2013年 8月 17日

第9章 印の名称・・・その2

第9章 印の名称

<印判(いんぱん)、印形(いんぎょう)>

印判とは書判(かきはん、花押)に対して、押捺する印の称であります。

江戸時代以来の呼称で、今日も印判の名称は用いられています。

判という義の起こりは封建時代の裁判で物事の善悪、曲直を判断して、その判決文に捺印(なついん)、押印(かきはん)、爪印(拇印)するので、判といったとの説がありますが、判とは「分かつ」二つに割るの義でありますので、前述した符節から転じて判となったのが正しいようです。

 

判という言葉は古めかしく、柔和な感じであります。印判となるとちょっといかめしい、冷たい権威をはらむ呼び名の感じをうけます。

「鼻紙袋を落として印判共に失ふた」(曽根崎心中)

「印判の袱紗(ふくさ)で母は目を拭ひ」娘の身売・・・など古めかしい感じがあります。

また、昔将軍または大名の下にあって、御朱印を押捺することを司った役人のことを御印判衆と言いました。

 

<判、版>

版木、木版も判と呼ぶので印章の正しい呼び名だはありませんが、関西ではこれが多い。「はんや」

 

<ハンコ、はんこ>

印章の親しい呼び名ではありますが、まことに安直で軽々しい。

「おい!君、ハンコを持っているか?」こんな呼び方をする人も程度の低い人でありますが、呼ばれる人も同様でありましょう。

堂々たる印章にはハンコの語感は当たりません。しかし現在は、ハンコで充分な程度のハンコが多いことも事実であります。やめてもらいたい呼称であります。

版工、版行(はんこう)の音に起因するとも言われています。

また、京都ではハンコが多い。「はんこやさん」

 

<宝璽(ほうじ)>

長上の印章に対する敬称です。

宝、璽、共に帝王、親王の印章の呼び名です。

私印正印に用いることは不適であります。

 

<印鑑(いんかん)>

役所はこの呼称です。

しかし、印鑑ということは、印章の真偽を照合するための印影の台帳なのです。

判鑑(はんかがみ)、印鑑(いんかがみ)の言葉は往時(昔)の印判店の見本帳のことでもありました。

今はその印鑑簿によって印鑑証明を市区町村長が行うので、実印の名称にもなっています。

昔は関門、城門などを通行するのに印を押した木製の手形を指して、これも印鑑と称えました。

厳密には正しい呼び名とは決していえないものでありますが、誤りでもありません。

 

posted: 2013年 8月 17日

第9章 印の名称・・・その1

第9章 印の名称

印章、印鑑、印判ともに信念の表明であることを字義で示していますが、そのほかにも璽、宝、印、章、図書、符節の名称があります。それぞれにわたり、お話を進めていきます。

 

<璽>

璽もまた印と同一義でありますが、中国史上古においては、諸侯、諸大夫の印まで総称して璽と称していました。

秦の始皇帝が六国を平定して天下に君臨してからは、ただ天子諸侯に限りこれを用い、群臣は章あるいは印というにいたりました。

漢晋以下はこの制度を襲って天子の印を璽と称し、諸侯以下群臣には璽と称することを許さなかった。

我が国においては大化以後、伝来の御璽は銅材の鋳造印で、曲尺二寸七分(約81ミリ)でありましたが、現在のものは明治7年の御新調にかかり、金材で曲尺方三寸(約90ミリ)、内大臣がこれを尚蔵されています。

御使用は、詔勅、法律、勅令、勅任官の辞令、奏任官の任命奏薦等に鈐(けん)せられるものであります。

我が国現行の国璽は、御璽と共に制定されたもので、方二寸九分(約87ミリ)の金材で「大日本国璽」と刻し、やはり内大臣がこれを尚蔵し、国書、条約の批准、勲記等に鈐せられる。

 

<宝>

璽は一名宝とも称え、唐の武后は璽の字を嫌って宝と改めたが、後に再び改めて璽と称し、さらに再び改めて宝と呼ばしめた。

 

<印>

印は古人が信を明らかにするために用いたもので、篇は爪、旁(卩)は節の古字で、ミサオ、シルシ、サダメ、サダ、キマリと訓読し、爪に従い節に従い、手に節を持ち、以て信を千古に示す二字合成の会意文字であります。

 

<章>

文を重ねて章と成すから章と称えやはり印のことであります。

漢の諸侯、丞相、大尉、前後左右将軍はみな亀の鈕(ちゅう・ツマミ)のある黄金の印を用い、その印文を呼んで章と称えました。

かくて印そのものを章と名付けるに至りました。

 

<図書>

図書の名は河図洛書に始まったもので、即ち後生の画という字のことであります。

宋人が図画書籍を収蔵するため捺印する印の印文に「某人図書」と刻して使用した誤りであろうと推察できます。「某人図書」の図書という印文と何某印の「印」の印文とを混同した誤りがありますが、印のことを図書と呼ぶのも事実であります。

 

<符節>

符節(ふせつ)とは割符のことであります。

帝王の命令の信憑としたもので材料は金、玉、角を用い、最初は無文でありましたが、後に篆字の分を刻しました。

符節は真ん中から両分して、その右片を天子の許に置き、その左片を地方に置く、一朝事ある時は地方の使者が常備しておいた左片を持参して右片と照合して信憑と成すことをした。

 

posted: 2013年 8月 17日

第8章 文字八体・・・その3

<秦漢八体以外>

今まで述べてきました八体と称されるもののほかに、尚数種類の書体があります。

八分・・・秦代に王次仲の作成、隷書を多少変化したもの。

章草・・・漢代末期、令史遊の創始になるもので隷法を荒散して書いたもの。

行書・・・後漢の劉徳升の作った文字。

楷書・・・漢代の末から行われて、晋唐時代の人は隷書と呼んでいたが、混同されやすいために程邈(ていぼう)の隷書を古隷といい、それに対照して楷書を今隷と称します。

草書・・・章草が変じて現今の草書となりました。創始者不明、漢の張伯英というのも信じがたい。

飛白・・・後漢の蔡邑(そういう)の創案、飛白とは渇筆で文字を飛白状(かすりじょう)に書くもの、書体一様でない。

その他・・・擘窠(はくか)、泥金書、匂白字、遊絲書、痩金書、細字等々ありますが、印章上さして必要もない事項に属するので、省略いたします。

パホーマンスで書家気取りのアーティストが居られますが、文字の歴史からするともう既に通ってきた道をもう一度なぞっているにすぎないのであります。

<隷書>

隷書は小篆の筆画を書きやすくしたもので、秦の程邈(ていぼう)が作ったもので一に古隷ともいいます。

諸事一新、秦の始皇帝という英雄が出でて、人文も一大変革と飛躍を来たさんとするときに当たり、小篆よりもなお簡略な文字の出現を望む社会的要求に応じ生まれたものであった。

 

(3)変体篆

篆書に意匠を加えてその形態を変えたもの、即ち変体篆と称するものがあります。

七畳篆、八畳篆、九畳篆と唱えるものあれば、篆に種々の形を附して字画を麦の実、柳の葉、鳥魚の形態に模したものもあります。

別ページを参照ください。

posted: 2013年 8月 16日

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