第11章 篆書と大和古印・・・その1

(1)印章の文字・・・その1

前述の日本印章史でのべたように、現存している最古の印「大連之印」(楷書)より、藤原時代に書判、花押の万能時代があったり、反切帰納の名乗りを刻していたりしていました。

天明、文化年間には、そろそろ篆書らしきものが台頭してきましたが、大和古印という我が国独特の書風が大半でした。

「唐国にては印章には摹印篆なる書風にて印形を作る」とか、

「文字は説文(せつもん)の古文字を用いるなり」

「異国には八体の中に刻符篆の字があり、多くは是を鏤め用うなり」

などと先進国の印章を士民が漸く知り始めたのが享保、元文の頃でありました。

 

それから百年の後、文化、文政にして判形なるものに篆書を模した字体が京都、大坂、江戸に出現し、印章文字としての貫録を示し、以来重要印章は篆書と定まっていきました。

 

何故漢字の宗である篆書が印章には一番良いのかというと、字の風格が高く、小さな小天地の印章に納めて、更に素晴らしい線の美しさを表現できる書体であるということにつきます。

 

流麗、典雅、枯淡、古樸、精彩、特に小篆の垂脚文(すいきゃくぶん)、玉筋篆(ぎょくきんてん)の美しさと摹印篆の増減法の活用などは、楷書では考えられない自由自在の変化に富む、印章芸術の域を感ぜられます。

(1)印章の文字・・・その2

印璽の制度は、中国印章史で述べたように、三代に始まり、周書には璽を天子の座に置くとあり、始皇帝の伝国の璽より魏晋を経て、六朝に至ってもおおよそ印章の制度、字法、章法は変わることはありませんでした。

印章の信を示す重大性を厳然と示し、今日に及ぶ篆書の歴史と印章は、切り離して考えられません。

事務用印判であれば別として、重要印章は当然印章の正道である正しき篆書で、風格ある作品でなければなりません。

古文、ちゅう文、奇字など、または雑体篆では正印は彫るべきではありません。

判読できない印章はその意義を失い、対者に不安を与えるものでありますので、独りよがりの極めて難解な奇字は用いるべきではありません。

正しく読みやすさを旨とするのも、秦、漢の古法であり鉄則と言えます。

「印章は信を天下に昭かにする具なれば、古奇字、異文を選びて人の読めぬようにするの理なし」と。

篆書が印章に適しているが、これが如何に用い難いかは、辞書の文字をそのまま引き写しにして、二字、三字、または社印の九字・・十二字と並べた時に、その刻者の未熟が現れてしまいます。

ましてや、パートのおばちゃんが、コンピューターをたたき、その文字ソフトから抽出した文字を羅列しただけでは、印章は成立しないのであります。

たとえ、篆書を知っていたり、書けたりしても、印章は印文学に通じていなければ、篆書を活かせて、刀法沈着で自然の妙を出すには至りません。

とくに、パソコンソフトの俗篆の羅列は、篆書と印章への冒涜以外の何物でもありません。

現代の印章は美しい篆書を以てし、その形の美しさから発散する、諸々の功徳を自他共に与える佳作でなければなりません。

posted: 2014年 4月 24日

第10章 印章史・・・その9

(4)西洋の印章

<インド、中国より伝わる>

サインを以て印形に代える欧米各国では東洋ほど印章は発達していません。

しかし、アッシリア、カルディア、エジプト、ギリシャ、ローマと漸次多く用いられるようになり、11世紀から15世紀にその全盛期を迎えた。

その西洋印章の起源は、インドあるいは中国であると言われていますが、金属または石を以て製作され、極印または印形と称し、用途は主として外交上の親書に用いられ、封印用としては一般に使用されています。

従ってその印面は絵画的な物が多くみられます。

現在では批准文書にのみ用いられています。

 

<思い出の記>

西洋印章の起源をうかがうと、外せない位置が古代オリエントであろうと思います。そう円筒印章です。

私がこの円筒印章を知ったのは、高松で修行中に篆刻家玉木水象先生(故人)門下の人と岡山市立オリエント美術館を訪れた時でありました。

この円筒印章の特色は、

1.印章は紙に押されたものではなく、粘土に押したものである。

2.粘土は印章を押すことにより、カギの役目をしていました。

3.特徴的な図柄には、次のようなテーマが多く、古代の人々は動物の力やその動物を打ち負かす力、そして神から与えられる力を求めていました。

動物文

闘争、狩猟文

神々も登場する、礼拝などの宗教的場面

4.印章は署名、お守り(護符)など様々な役割を果たしており、人々がひじょうに大切にしていた物でありました。

また、古代オリエント以前であろうか、西域の印章については、京都の技能士会会長をされていた山川宏造先生(故人)が実際に旅をされて収集してきた印章やお土産話をよくしてくださったことが、この記事を書いていて思い起こしたことでした。

 

これにて、印章史は終わりといたします。

次よりは、「篆書と大和古印」についてお話ししていこうと考えております。

お楽しみにしておいてください。

posted: 2014年 4月 22日

第10章 印章史・・・その8

(3)近代印章史

<実印の判定>

明治6年7月5日の太政官布告で、実印の押印なき文章などは、裁判上の証拠にならないという布告がだされ、爪印、花押のみで実印のないものは認められなくなりました。

さらに同年10月1日実施されるようになると、役場には印鑑公簿が備えられ、屈出の印判は公簿に登録されて、公証力のある実印が誕生したのであります。

また私印は、江戸時代の慣習がそのまま行われていましたが、大家などに印判を預けたり貸すことも禁じられました。

これにより、印判はさらに勢いを得て普及の速度を速めましたが、刻技の方は依然怪しげな文字を刻すだけの仕事に留まっていました。

これに反し、明治中期ともなると篆刻界は既に今日もなお名作として残る傑作が相次いで発表されましたが、実用印は篆書も勉強せずに、刀法も手先の器用さに委ねて恰好を付けていたにすぎません。

別ページに挙げている印例、並びに江戸庶民の印章で取り上げたものもそうですが、判読し難いとの理由で印鑑条例によって、実印として不適格とされるような字体です。

多くの「いいね!」をいただいて、気付いたのですが、今のハンコ屋さんの見本帳やネットショップの見本印影より、個性やオリジナル性があることは事実かもわかりません。規格のソフトや文字を使用しているとオリジナリティーのない趣や重厚感のない印章になることは明確だと感じました。

<印判の形態>

明治10年頃より大正末期に至る間に、実印の形式はダルマ型より印章ケース(サック)入りの棒状に代わっていきました。

このダルマ型というのは、よく現在の天丸型銀行印と間違えられるもので、それと区別して「本だるま」とも言います。

丸型の実印と長角型の裏印(認印)を納めたもので、天明の時代より始まっております。

達磨印材は3つに分かれるもので、更に頭部に裏印が挿入されています。

ダルマの名は、形が達磨に似ているからだあり、頭部の裏印のないものは半ダルマといいました。

この印型は歴史も古くまた長い間の印判の形態でありましたので、今でも看板にこのダルマを象ったものが見られます。

話はそれてしまいますが、大学生の頃に京都太秦の映画村に遊びに行ったときに、その頃はハンコ屋さんとは無縁でございましたが、その映画セットとして「はん」と書かれた看板がこのダルマ型であったと記憶しております。

「首とかけがえ」の実印と認印とが同一であることは便利でありましたが、年ごとに認印の用途が拡大していくと、実印とたえず同時に持つことは間違いの基となりますので、認印は独立して、ダルマ型の細い形の小印という名で出現しました。この小印は戦前までは仕入印(既製印)にも用いられました。

大正5年から10年にかけて、印判はさらに需要を高め、実印もケース入りが高級品となり、ダルマ印を次第に避け、大正末期には本ダルマは少なくなり、小印と半ダルマが残りました。

高級の象牙材の流行もこの頃より始まりました。

水晶印、金製の指輪印は成金の階層の人に好まれました。

ゴム印の需要も増加し、印章専門店の店も次第に事務用品としての印判業の業態に移行していきました。

<俗篆の出現>

明治末期より刻法も変わり、字体は俗篆に移行していきました。

嘗て江戸時代の篆書を模した屈曲を多用した文字の場合、時代的な制約が大きかったのですが、この頃には篆書の辞書も揃い、資料もあるはずなのにほんの一部を除きハンコ屋に研究心がありませんでした。

篆書を知らないままに新しい彫り方に変えて、今度は輪郭部分を厚くして、文字を細くして折り曲げたような字体を作り出しました。

これが「実印らしき字体」と称する篆書体を低俗にしたものでした。

変体篆の七畳篆、八畳篆の更に変形でありますが、曲げたり重ねたりするにも是非があるのに、本質を知らないから成り行き任せで折り曲げて作るので、俗篆となり誤字は多く非道の限りをつくしました。

一部には篆刻を研究し、それを正印(実用印)に応用し、技を磨く人もいたようでありますが、学究と営業は成り立たず、刀作に励んでも収入には伴わず、駄作印の慢性で真の印章学を知らない世間には受け容れられなかったようです。

私見でありますが、平成の現在もこのあたりはあまり変わり映えのしない状況であることは確かなようです。

昭和初年、印判は印章と名称を変えていきました。

印章技工にも篆刻を志す者が多くなり、帝展(現在の日展)の入選者も印章店(はんこ屋さん)から出るようになり(ex,関野香雲先生など)技術も向上しました。

しかし、それはほんの一部の人であり多くは依然俗篆が多いようでありました。

<印章の完全普及>

昭和16年、物資の統制が行われ、配給は印章で、回覧板にも捺印を・・・と印章がないと何もできない制度となりました。

そして前述したような駄作印が隅から隅まで行き亙るようになりました。

技術はさらに昭和17年頃より時代的背景に伴い急速に低下していきました。

終戦後は全く底をついた3,4年が経過し、26年頃より次第に立ち直っていきました。

近代から現代への移行のその後の業界努力として、昭和28年から大阪府印章技術展覧会が始まり、昭和34年の職業訓練法に基づいた技能検定が推進されたのは昭和45年という遅かりし時代でした。

顧みると、日本の実用印章は、遠く天平の昔より印章の先進国たる中国に比して、実にお粗末すぎた歴史でありました。

唐、宋の時代は中国では最盛期を過ぎて爛熟頽廃に至っています。

その頃の日本の印章はまだ未開の姿でありました。

近代の実用印章史は、印章学の正法を学ばず、本格的な教育もなく、殆どが我流で捏造した醜痕でありました。

いくらこれに理を付けようともしても、野育ちの貧しくも淋しい沿革なのです。

そして、今日同じような状況が露呈してきているとともに、大印展や技能検定推進の為に努力された先人の想いに背く様相を呈していることに大いに危惧を抱かざるを得ません。

これを是正していくには、印章学の正法を実技と共に学ぶ本格的な全国共通の教育機関の設立が求められていると私見ではございますがご提案いたします。

「印章講座」の印章史は、あと(4)西洋の印章を少しお話しして終わりといたしますが。脈々とつながってきた印章の歴史を現代印章史として完結させないのは、今まさに進行中の印章とその文化の危機にいかに立ち向かうかという業界人の働きの進行形であるからです。

 

 

posted: 2014年 4月 22日

第10章 印章史・・・その7

(3)近代印章史

<江戸時代>

現代の私印に近づいて来たのは、凡そ明暦以降のことであります。

官印はそのままでありますが、大きな派手目のものが次第に小さくなって、実印で七分丸(21ミリ丸)位となりました。

天明、寛政には六分丸(18ミリ丸)、慶応、明治になると五分丸(15ミリ丸)と現在の大きさに落ち着いて行った。

大正時代には四分半丸(13.5ミリ丸)が実印の八割を占めていたときもあったが、この15ミリ丸こそ、大きすぎず小さすぎず姓名が寛容にレイアウトできる一番良いサイズであります。

技術不足のハンコ屋さんは、大きなものを売ろうとしますが、これ消費者目線ではありませんし、印章史に逆行する大きさであることがわかります。

江戸時代に話を戻しますと、認印は裏印と称し三分角(9ミリ角)か三分五厘丸(10.5ミリ丸)が多かった。

書判(かきはん)が次第に印判に接近したのもこの頃であって、印判と書判の混合物のようなもの、即ち印判に花押(かきはん)を刻み込んだりすることが行われていました。

「徳川禁令考後聚」によりますと、士農工商共に家長戸主は実印を持つようになり、庶民の間には五人組の制度以来、着々と印判は普及の一路をたどりました。

<印判師>

江戸時代の高級な印判は水牛材が多くみられました。

水牛材は、南蛮渡来の材料ですので、値段も高く、今に換算すると1万円を優に超えていました。

そのため、裏長屋の住民には高嶺の花で、仕入れの三文判(今でいう100円ショップの印鑑)を求めたり、親指に墨を塗り拇印としていた者が多かったようであります。

「判の座ったもの」という言葉もこの時代からであり、如何に印判を重んじていたかが窺がわれます。

印判師の看板にも「韻鑑考(いんきょうこう)、名乗改め、御実印師」と称し、刻法も書判流に姓名の韻(いん)を反切帰納してその帰字を用い、五行説の五穴の法などを墨守した、花押の延長線上のようなものであります。

細い円内に文字を太く充満したのは、白文刻法に「凡ソ古印ハ一面内二一配二塡満セシムルヲ法ト為ス」と教えているのを鵜呑みにして、朱文刻法で肉太く一杯に配字をしたので、風趣なき凡作になっています。

嘗ての幸運の印相や吉相印、開運印は、この手法を用いていましたが、今の印相印他は書体化されて、そのこと自体が問題でありますが、パソコンソフトとして販売されており、パートのおばちゃんが操作して実印を彫刻しているのが現状です。そこにはもう花押の論理や五行説の論理も何もありません。もちろん文字でもありません。

江戸時代の印判師は、時代的制約として篆書の字典や字書、参考資料など何もなく、この篆書では随分と苦労の後が窺がわれる。

兎に角、印判は印の文字なる篆書を用いなければならないというので、篆書そのものを知らないままに、楷書を屈曲させて篆書に猿まねした文字を使用していました。

ただ、あら彫りは深く仕上げの技術はいまの技術水準より随分と良いものが見かけられたようであります。

当時京都には30名ほどの印判師がいたようでありますが、江戸に幕府が移り、政治や文化も移ってしまうと、寛永元年(1642年)にその印判師が江戸に下ったと言われています。これらの印判師は版木屋と区別され、御印師の看板を掲げて営業していました。一説には苗字帯刀とも言われております。

<現代印章のはじまり>

昨日より参考資料として別ページに掲載させていただきました江戸庶民の印章(印章技能士必携より)は、明和より元治、慶応の時代までに見られたもので、これが今日の実印、認印の濫觴(らんしょう・起こり)であります。

初めは7分(21ミリ)が多かったのが、次第に6分(18ミリ)5分(15ミリ)と小さくなっていきました。

徳川以前の印は私印でも一寸五分(45ミリ)はあったのだから、次第に用途を増してくるとともに携行にも便利な形となっていきました。

字体は篆書を模してはいますが、中国宋時代の末の悪弊でありました「屈曲盤回」という手法(七畳篆・八畳篆)で、意味もなく蜿蜒と屈曲させたので、益々判読が出来ない字体であり、そもそも篆書も不正でありました。

「満白、満紅(まんぱく、まんこう)古印の満白の制を朱文の満紅として、円内に一面に伸ばしたり、空穴法を知らずに、ただ充満させるのに精一杯の時代でありました。

*用語解説:朱文・・・現在の実用印の彫刻方法で文字を浮き彫りに彫る方法、それに対して文字を白抜きに彫る方法を白文と言います。

 

これは小篆を用いて、脚を垂れて美しい字体で、辺即ち輪郭に接しているのでありますが、当時はまだこの刻法を時代的制約により知らなかったのです。

文字を八方に伸ばすので「八方くずし」とも称し大正末期まではこの形を好んだ傾向も見られました。今の開運吉相印や印相体と呼ばれるものもこの傾向からきています。

空間のある刻法は百に一つ位の割合でありましたが、これが次第に八方くずしより優勢となり、現代印章の俗篆が生まれたのであります。

実印は丸判ばかりでありましたが、認印は方形が多くみられました。

ちなみに、実印に方形の角型を多く用いたのは、明治の中ごろでありました。

刻字は最初は花押式より転じた反切帰納の字を一文字だけ刻したものが多かった。次に名乗そのまま用いました。実印は名を用いる制もこの頃よりはじまったと言えます。

認印も帰字より姓をそのまま彫刻するように変化していきました。

posted: 2014年 4月 22日

第10章 印章史・・・その6

(2)日本印章史

<徳川時代>

元和元年5月7日、大坂は落城して世は遂に徳川氏のものとなり、江戸幕府は確固不動の基礎を築きました。

別ページに掲げる印は幕府の始祖徳川家康のものです。

(二七)(二八)(二九)は、外交用として用いた印です。

中でも(二七)は、「豊臣」の印にならい御朱印船の允許証に使用したものと言われています。

家康もまた別に「福徳」の印(三〇)を作っています。

これは織田信長の「天下布武」、豊臣秀吉の「関白」の印にならって誂えた者でありますが、「福徳」の二文字は如何にも家康の人格を表現していて面白いです。

 

最近これになぞらえて、戦国武将の印の形状とその雰囲気を実用印としてオリジナルという言葉を添えて販売している業者が出現していますが、この印章史をお読みの方ならご理解いただけると存じますが、印章が現代の印章になる芽生えの段階の形状や文字であります。当時の印章としては印章史や遺産としての価値は大いにありますが、現代の印章としてとらえると幼子の玩具を自慢して見せているようなものであります。

歴史が話題に上り、歴女とよばれるブームを作っておりますが、戦国武将の「天下布武」と「関白」、「福徳」の個性ある印章は全て遊印(個人名ではなく座右の言葉や信念とする言葉を使用)です。そのことと印章発達の歴史とをよく鑑みて頂ければと存じます。

上杉謙信・・・地帝妙

上杉景虎・・・阿弥陀日天弁財天

北条氏政・・・有效

今川義元・・・如律令

織田信長・・・天下布武

徳川氏は幕府を確立すると同時に、江戸防備という交通上の便益から駅伝の制を定めた。

別ページ(三一)は徳川氏が最初に用いた伝馬の印であると言われています。

 

(三二)は二代将軍秀忠の印、(三三)は三代将軍家光の印であります。

三代家光の代になり幕府の実力は充実し、民に対する制度も備わり、従来の花押に代わる印章が盛んに用いられるようになりました。

従って華麗であると同時に、あまりにも大きすぎた印は次第に実用上から遠ざけられ、代わって直径3、4分(9ミリ、12ミリ)から7,8分(21ミリ、24ミリ)の実印と裏印(今の認印)が用いられるようになりました。

同時に五人組の制度を定め、庶民間において相互に身分を保証し合わせたから、庶民の間にも印章の必要性が生じたので、一般庶民にも遂に印章の所持使用を許可しました。

これは印章史にとって実に画期的な飛躍で、商家の合判、仕切判、極印、書画の落款印、遊印、雅印、封印、蔵書印・・・これらが盛んに使用されるようになった。

また裁判においても、物質証拠よりも犯人の自供をもって刑を確定しましたので、犯罪調書に犯人の爪印のないものは無効であるため盛んに拷問を用いました。これは形式を具備せんがための手段であったが、如何に印そのものが重要視されたかをうかがい知ることが出来ます。

 

時代は少しさかのぼりますが、豊臣秀吉が3人の板版師を選んで、印判師になるように命じ、細字の姓を与えました。これが後の印章業の始まりとなり、京都、金沢にはその子孫も残っていると聞いております。

その3人の子孫のみのことではなく、徳川に至ってさらに実用印章の必要性が大きくなり印判業はこうして始まっていったと思いますが、そのこてゃの地にも触れますので、このぐらいにしておきます。

私見でありますが、この時ぐらいから現在の木口彫刻という技術が始まったのではないかと思います。秀吉が集めた板版師は、関西でいう版木師にあたり、木材の板目を彫刻します。それに反して、印章は木材の年輪部分、いわゆる木口面を彫刻します。その技術はおそらく国内のものではなく、オランダやポルトガルから信長、秀吉のころに入ってきた木口木版の祖先みたいなものによるところが大きいと思います。それはてこの原理を利用して深さを与えて彫刻するビュランとあまりにも印刀が相似しているからですが、あくまでもこれは私見です。しかし、研究していきたい課題です。

印例説明から、別ページ参照。

(三四)は五代将軍綱吉、(三五)は八代吉宗、(三十六)は家斉の印で、共に幕府の威望盛大を極めた時の将軍であります。

前代から見て、将軍の印にも大いに実用的傾向の著しいものが見受けられます。

政権江戸幕府の掌握するところとなって、宮廷の官印はその用途を殆ど喪失し、御璽も仁安元年に使用せられたものをそのまま明治の初めまで使用せられたほどでありました。

しかし、尊王の気風は全く地を払ったわけではありませんでした。

水戸光圀のごときは、大いに尊王の大義を唱導した名君とうたわれ、幕府当時の松平定信も朝廷に対して忠勤を抽んでいました。

また、新井白石もその一人でありますが、民間では頼山陽が「日本外史」の稿を起こし、中邪の道を明らかにし、後年討幕の気風を助成するに大いに力がありました。

(三七)(三八)は水戸光圀の印、(三九)は松平定信の印であります。

この定信の印は右上から左上、左下から右下へと廻文法を採っています。

(四〇)は新井白石の印、正徳元年十月朝鮮使来聘の時、白石は従五位下に叙せられたので朝散太夫の印があります。

(四一)(四二)は頼山陽の印、襄は名であり山陽はその号であります。

その他の多くの学者の印は次回のご紹介といたします。

徳川時代に入るに及んで文物の発達は著しく、多くの学者を輩出しました。

その印例を、前回の新井白石と頼山陽につづき見ていきましょう。

(四三)は林道春の印で羅山は号、徳川官学の鼻祖。

(四四)は木下順庵の印で、廻文法を採っています。貞幹は名であります。順庵も五代将軍綱吉に召されて儒員となりました。

(四五)は荻生徂徠(茂卿)の物印は徂徠の姓である物部の一字をとったものであります。この印は廻文法です。

(四六)は山﨑闇斎の印、(四七)は伊藤仁斎の印であります。

(四八)は貝原益軒の印、篤信はその名であります。

(四九)は柳沢淇園の印、字は里恭、玉奎はその名であります。文学、武術、医学、音楽、書画など、人の師として芸十六を備えていたという傑物であります。

次に、画家の印として(五〇)の谷文晁、(五一)の丸山応挙の二顆を挙げておきます。

最後に、徳川時代の公印の一例として、箱根の関所印を挙げておきます。

 

次回からは、項を改め近代印章史として同じく江戸時代から現代までを考察していきたいと考えております。

posted: 2014年 4月 21日

第10章 印章史・・・その5

(2)日本印章史

<足利時代より織豊時代>・・・その1

足利義満の時代にいたって南北朝が統一するとともに、足利室町幕府が確立した。それと同時に我が国の文化は一大飛躍を見るにおよび、対外交易も大いに進みました。

足利義光は明との交易においてあまりにも利を求めるあまりに、明に対して臣節に類する行為をとり、別ページのような「日本国王之印」を明より受け国辱を曝していたのです。その後この印は戦国末期山口を本拠とした大内氏嫡流の最後の大名である大内義隆の手にわたっている。

後の徳川幕府に比べあまり中央集権制が強くなかった室町幕府は、後期衰退期になると全く地方豪族の割拠と成り果てた。

したがって西国の大名も自由勝手に対外交易(勘合貿易)を営むに至ったがその中で最も顕著なのは山口の大内氏でありました。

室町幕府の威勢を凌ぐといわれた大内氏の隆盛も対明交易によって得た経済力の充実によるところが大きい。

別ページ(三)の印は大内義長が明国よりこれを受けて交易に使ったもので、国史、印史上貴重な遺産であります。

地方分権は遂に各地に巨大な豪族の群立を見ることとなり、各地方政府はそれぞれの領国を私有し、互いに干戈を交え雄を競い戦国時代を現出していった。

戦国時代には禅宗風の極めて自由な印の傾向と官印風の法則的な印とが解合して、その印章も各自各様、種々雑多なものが用いられました。

大抵二種類以上の印を併用し、政務の重要なものには大きいものを使用し、一方家印をもうけて、これを世襲させました。

そのうち東海において強大な勢力を極めたのは今川氏であります。

別ページ(四)は今川義元の用いた家印であります。

今川氏に次いで強大を来した武田、北条、上杉にも各々家印があります。

(五)は武田信虎の印、(六)はその子武田信玄の印であります。

なお高田信玄には他に(七)(八)の二印があります。晴信は信玄の名であります。

武田信玄と雄を争って最後まで角遂したのは越後の上杉謙信であります。

謙信は戦国の武将中殊に神仏を敬崇した信義に篤い名将であって、その使用した印文の如きもよく謙信の性質を表しています。(九)(一〇)参照。

東国において武田、上杉二氏と鼎立して覇を争ったものに小田原の北条氏がいます。

早雲以来代々名将を輩出し、勢力は関八州を制圧したが、(一一)は北条氏が人馬徴発の証にもちいたものであります。

武田氏の龍の印、上杉の獅子の印、北条氏の虎の印・・・形体、字体、図柄なども彼らの性格を良く表しています。

戦国の諸将ことごとく京師を臨んで兵を動かしました。

そのなかで、最も早くその宿志を達したのは、尾張の織田信長の天下布武でありました。

麻のごとくの乱世の戦国は信長によって暫く統一の端を開くに至った。

別ページ(一二)の印は信長が僧沢彦に撰文を乞い、天下布武の印文を得たと言われている。

信長が覇業中途にして倒れた後を承け、遂に海内統一の偉業を達成したのは豊臣秀吉であります。

(一三)の印は秀吉の好んで用いた絲印であります。

絲印とは明国より我が国に輸入された絹糸の糸芯に巻き込んで一巻に一顆ずつ、また糸纏若干斤について一顆ずつ副えられてきた鋳銅印でありますという説や国産説(水野恵氏)もありますが、詳細は定かではありません。絲印という名称の由来は前述よりきていることは確かです。京都の水野恵氏はこれを「太閤さんの蚯蚓(みみず)印」と称しておられるとうり印としてはひどい物であります。ただ、大阪人のわたしとしては、京都人らしい回りくどい評には少しあきれるところもあります。

後年、徳川氏がその本姓松平を功労ある臣下に許したように、秀吉も隷下の諸将に豊臣の姓を名乗ることを許しました。

別ページ(一四)は浮田秀家の印、(一五)は小西行長の印でありますが、共に豊臣の姓を用いています。

当時の武将中最も異形の印を使用したのは、奥羽の最上出羽守義光の印(一六)でありますが、これは禅宗の影響を受けた顕著な例であります。

秀吉の勢いは徳川家康に移りましたが、これと拮抗して勝負を争ったものに石田三成がいます。

後期の戦国時代より織豊時代に入るに及んで、天文12年(1543年)に種子島にポルトガル人が上陸して鉄砲を伝え、天文18年にはザビエルがキリスト教を伝えました。

ヨーロッパ人種との新たな接触ができ、我が国の海外交易も飛躍的に門戸を広げ始めました。

官許の交易船の証として文禄元年、豊臣秀吉が初めて対安南(現在のベトナム)交易に印章を押した文書を与えたが、この時の印章が朱印であったから、この後外国交易の船を御朱印船または奉書船とも言い、許可書を朱印状と呼ぶに至りました。

別ページ(一八)は秀吉の朱印でありますが、実寸は方二寸九分(87ミリ角)の大きな金印であります。

この朱印の制は、我が国の海外交易史、印章史から見逃すことのできない貴重なものの一つであります。

 

西洋文化との交流は必然先に述べたキリスト教の伝来となり、その宣教師は渡来し、我が国は新興宗教の処女開拓の地となりました。

殊に西国地方においてはキリスト教に帰依する者も多く、高山右近、小西行長、大友宗麟、細川忠興、黒田如水等の諸大名もその信者になり、クリスチャンネームを彫ったローマ字の印を使用しました。

これは、伝統を誇る印章道に驚天動地の異例を生じさせました。

それほど、この時代は飛躍的であり新知識に汲々としていた活動的なじだいであったことがうかがわれます。

 

尚、当時用いられた香炉型の印の代表的なものとして二三の印例を挙げておきます。この傾向の印は徳川幕府に入ると共に、文人間に盛んに用いられた者であります。

(二一)は仏画衰退期に現れ、仏画史上掉尾の巨匠として偉大な足跡を残した吉山明兆の印、(二二)は楊の雲谷派を抑えて本朝絵画史に新生面を与えた雪舟の印、(二三)は狩野家の始祖狩野法眼正信の印、(二四)は二世元信の印、(二五)は狩野家の五世永徳の印、州信は名であります。後世古永徳というのはこの永徳を指して言います。

不幸にも関ヶ原の一戦で雄図空しく敗れ死刑を遂げたが、三成も戦国の快男子でありました。(一七)は三成の印であります。

posted: 2014年 4月 21日

第10章 印章史・・・その4

(2)日本印章史

<平安朝時代>

平安朝時代にいたると官印は前代の制を承けて行われたが、宣旨、下文等の文書にも幾多の変遷が行われて、捺印を要せぬものが出来てきた。

殊に藤原氏が政権を執るに及んで、益々官印の価値は希薄となり、省略されるにいたり、詔勅や符牒等のほかは、印章のある公文はなくなってしまった。

官印制度上からみて、正に暗黒時代ともいうべきであろう。

官判の低落に代わるに花押が盛んに行われた。

別ページの花押は時代が違いますが、武将の花押であります。

一方私印は、既になら朝時代から官許を得た者のみが鋳造使用することを許されていたが、形状や寸法には規定がなかった。

然るに当代に入るに及んで、官印の衰亡に反し私印の方は次第に多く用いられるようになり、既に蔵書印などが現れている。

しかし私印とは称するものの一般には未だ普及せず、特定の人が特定の目的にのみ使用したようであるから、やはり官印系統の部類に入るべきものであろう。

[別ページ参照例印について]

「酒」の印は二品酒人内親王の印であって、奈良東大寺正倉院に蔵されている。

「藤」の印は太政大臣にまで昇進した藤原忠平の印である。

「有国私印」は、藤原有国の印であって、有国は石見守から勘解由長官参議に累進した人である。

<源平時代、吉野時代>・・・その1

藤原氏の威勢が衰え源平二氏家これに代わり、世にいう源平時代となり、政権は新興武家階級に移り一大飛躍を見た。

しかし、文化の方面はさしたる変動もなく、従って印章道においても著しい変化は見いだされない。

別ページ「宇宙」の印は久我内大臣通相(みちざね)の用いたもの。久我家の私印ではあるが、官印同様に使用されていたらしい。

久我家では内大臣に任ぜられた者だけがこの印櫃(いんびつ)を開くことが許されていたのだと伝えられている。

《用語》印櫃・・・印章を保管していた印章のためだけの金庫のようなもの

一方武将方面においては、平氏にあっては清盛、重盛、源氏にあっては義家、頼朝、義経等著名の武将が輩出したが、現在残っているのは別ページの木曽義仲の印のみである。寿永元年2月2日の檄文に押捺されたものといわれているが印文は不明である。

「頼」の印は保元の乱の元兇といわれる藤原頼長の印。

「暁月」の印は和歌の名家と称される藤原為守の印、暁月は為守の法名である。

 

当代印章で珍しいのは絵画入りの印章で捏ページ印例で示す「法隆寺経所印」がそれである。この絵画入り印は、後に至って大いに用いられることとなった。

尚お経印としては「法隆寺」と「石山寺」の二印影を挙げることが出来る。

当時神仏合祀の結果は「興福寺」「東大寺」のような印章が作られて利用された。

往古の印の参照としても面白い遺品である。

配文(文字のレイアウト)の面白いものに「三聖寺」の印がある。

 

以上は寺院の例であるが、一方社印では平清盛によって建造された「厳島神社」と藤原氏を祀る「談山神社」の社印を代表的なものとして挙げられよう。

当代最も面白い形式のものとしては、蘇悉地羯羅経に押捺された多宝塔中に「神」の字の印で、この様式は非常に珍奇である。

<源平時代、吉野時代>・・・その2

鎌倉時代にいたるに及んで、宋との交通が頻繁となり、宋の印風が大いに我が国に輸入されてきた。

多くは禅僧によって号のほかに無関係な字句(別ページ参照の落款印、筆者印)、絵画まで取り入れられるようになった。

我が国の印章史は鎌倉時代にいたって俄然その面目を一新することとなった。

「蘭渓」の大覚禅師は、宋の西蜀語江の人、蘭渓は字である。

「無学」の祖元禅師は明州慶元府の人、無学は字。

「一山」の一寧禅師は中国台州の人、号を一山。

三人とも中国の人であって、我が国に来て禅宗を広めた名僧である。

 

鎌倉時代において最も誇るに足る文化施設は金沢文庫の総設であろう。

別ページの印影(一)は、金沢文庫の書籍に押捺された蔵書印であるが、この印影は今なお文学に志すものをして敬虔な感を抱かしめる貴重な遺品である。

posted: 2014年 4月 21日

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