第13章 篆刻・・・その1

(1)篆刻と彫刻

<分野を定める>

「篆刻とは、印章に文字を彫ることである。」そういう意味では、実用印章も日展や各種新聞社の展覧会の書の部門として出品されるいわゆる「篆刻」も篆刻なのであります。

これは一つの見方であり、正誤を問うものではありませんが、私は分野を定める必要性があると思います。

そういう意味では、実用印と篆刻は分野を定めて議論すべきことで、同じ土俵で論じることではないと思います。

篆刻は鉄筆(篆刻刀ともいいます)で展覧会以外には、書画の落款印や蔵書印、封印等を彫り、芸術印章として特定の人々には高く評価されています。

実用印章は、木口刀の撮刀法で実印等の正印を彫刻します。

彫刻用印刀では、玉石材は勿論竹根材にでも力強い佳作はできませんし、鉄筆刀では水牛材には不適で、実印、社名まきの重役印のような繊細なものになると小回りが利かず、刀が立ちません。

印章史的にはかつては同じ土俵であったと思います。

「伝国の璽」でのべたように、中国から伝わってきたものです。

ただ現在、これを同じ土俵でかたずけるには、あまりにも世界が変わってしまいました。

篆刻は趣味としてカルチャーセンターで教室があります。それを習ったからといって、生徒は「ハンコ屋」にはなりません。

印章彫刻を習得するには、カルチャーセンターではなく、嘗ては徒弟制度という職人の道を歩まなければなりませんでした。現在では、組合が主催している技術講習会や日本で一校だけの訓練校で修行します。

そして、生徒は「ハンコ屋」になります。

このことだけをとっても相当に違います。

数え上げると枚挙がありません。それを印章だからと同一視したところで、現場では何の役割も果たさないのであります。

ただ印章学では、芸術印章としても印章の正道を進んだものは篆刻でありましたので、篆刻の沿革として以降お話しさせていただきます。

(2)篆刻の沿革

<中国の篆刻>

印璽の篆刻は既に秦漢の時代に発達を遂げ、帝王の玉璽は始皇帝の白玉の印璽から、更に漢代の銅印は後世の印人が印を知る原拠となり、その篆法章法の上に、漢篆の妙を発揮しています。

漢印には官印もあり私印もあります。私印には姓、名、家名、吉祥語、象形等があります。

文は白文が主で朱文は稀であります。

漢制によれば、皇太子は黄金龜鈕、諸侯王は黄金駝鈕の印を用いました。

我が国、九州福岡市より出土した「漢委国王印」は黄金駝鈕であります。

篆刻は六朝より唐を経て宋元の時代に及んで堕落しました。

元の時代に趙子昻が出て大いに篆学を復古しました。

元末より浙江の花乳石を用いるようになってから、銅鉄の鋳造印より石印が王座を占め文人も正しい篆書を自刻して楽しむようになり、これが明代に於ける秦漢印の復興となりました。

次いで万暦のころ、文彭、三橋が出て篆刻を以て盛名を天下に籍甚し、近世印人の祖と仰がれました。

当時の印材は、花乳石と燈明石が多かったようです。

現代に近づいて来ると、呉昌碩の風が流行し篆刻は各種印章に連なり共に繁栄しました。

印材も青田石、寿山石、昌化石、田黄が出ました。

石印の鈕の彫刻は清朝より始まったものであります。

posted: 2014年 4月 27日

第12章 字法と章法・・・その5

(8)錯綜仮借

<印章の興趣>

文字を入交させたり、組み合わせたりすると共に、冠、旁、篇、沓、辶などを借りて各々の字に用いる構成法を錯綜仮借といいます。

増減法にも利用されますが、これは章法、字法に属し、すこぶる妙味のあるもので、巧みに配文すれば印章の興趣極まりない手法で、雅印にはよくもちいられています。

別ページに、その代表的なものを三点挙げておきます。

 

この仮借を現代の印章に応用する時は、局促(せせこましさ)の調節であります。

「松村」「信保」「深江」などにも活用自在でありますが、未熟の者が誤用すれば、間の抜けた印になります。

聯字省下(れんじしたをはぶく)の法、聯字省上(れんじうえをはぶく)の法、聯字皆省(ねんじみなはぶく)の法なども減画の法でありますが、専門の域に渉るのでここでは割愛させていただきます。

別ページ最後の例は、物の形を用いて語(ことば)を省略する「用物形省語(ようぶつけいしょうご)」であります。もちろん、現代印章の正印には不適格であることは言うまでもありませんが、興味ある雅事でありますので、ご紹介しておきます。

9)易と章法

<易理に一致>

売卜者は易経に通じず、これを究めないで、筮竹を手にして人の運命を指図する。また、我々印章彫刻に携わるものでも印章学を勉強しないで、印刀を執る者が甚だ多いことは事実であります。

これは、船が漕げるからといって、羅針盤も持たずに太平洋横断を企てるようなものです。

従って、そのなすところ世の識者の顰蹙(ひんしゅく)を買うばかりであります。

印章も易も中国に発し、法と理を尽くしたもので、両者の理には多くの一致点を見出すことが出来ます。

章法における構成配置(じくばり)は易の伝に当たります。

朱白款識は爻の陰陽、方円曲直は図書縦衡、変化頓挫は往来屈伸、朱間相白は陰中の陽、陽中の陰、那依増減は参伍錯綜、承応主客は貞悔相応に通じると言います。

印刻者(印章彫刻に携わる者)は人の信を示す宝器を彫る(刻す)尊い職業である故に、深く内省し、修養、勉学に励み、人格を高め、美しくお客様の品性を高めるような印章を刻すよう心掛けるべきであり、易者は易の在り方を正しく認識し、場たりの妄言によって人を惑わしめるような罪を重ねないで、正しい運命の指導に当たるようにすべきであります。

 

<先に印章学あり>

開運印や吉相印、その書体である印相体、あるいは八方篆書体は、全て先に易学ありです。

輪郭の八方に必ず文字を接触させるとか、姓名学により姓名の画数と吉数を足して接点数を求め、必ずその数字に文字を接触させるというものです。

即ち、印章学や文字論は易学(方位学のみのような気も致しますが)の後回しになり、易が優先で、文字がその基本を壊し、誤字や文様になってもお構いなしという文字と印章学を冒涜するものであります。

先に美しい文字があり、それを丸の中にバランスよく納める能力があってこそ印章は、信をしめす宝器となり得ます。

先に印章学があり、それと呼応する形で易が生きてくることは、前述のとおりであります。

 

posted: 2014年 4月 26日

第12章 字法と章法・・・その4

(7)増減の法

<唯一無二の論拠>

文字の画数を増やしたり、減らしたりが自由に出来る印章文字の便法に「増減の法」があります。

これは、楷書や行書には見られない篆書独特の文字の形態を美しく整える調整法であります。

しかし、むやみやたらに使用すると間の抜けた印章になるので、誰にでもできることではなく、昔は秘伝とされ、たとえ用いても軽々しく示すことはしませんでした。

この「増減の法」があるので同一印が出来ずに、印章の唯一無二を保つことが出来る大きな論拠の一つであります。

おそらく、篆書の発明がなく、いきなり楷書や行書の誕生となれば、印そのものの発明はなかったであろうし、楷書や行書の印章が出来たとしてもその発展はなく、個人の信を示す宝器にはならなく、単なるスタンプで完結していたことでしょう。

印章の発達とともに変化していった印篆・・・摹印篆の形状の変化は、印章文化の恩恵を頂いている我々の日常生活に大きく貢献したと言って過言ではありません。

<天来の福音>

子どもが生まれた時、画数を気にして「名つけ」の本を購入する人は多いと思います。

また、姓名学にとらわれすぎて改名する人も時折おられます。

ハンコ屋さんを商っていると、そういう事例に遭遇します。

子どもの「名つけ」ぐらいなら、1~2冊の本を読むと大体の】要領がつかめ、素人でも一夜漬けの易者になれます。

姓名学は、過去や性格が的中したりするので、手近で親しみやすい運命学の一つでありますが、本当にその奥義を理解するには「韻鏡」「易学」に帰する物であります。

姓名学の構成は123の数の理に天地人、陰陽、音韻を以て構成し、字の義がこれに伴うものです。

各流の方法が多様にありますが、数理の霊動を第一とするもので、この影響は大きくてその人の性格などは数理だけで知ることが可能です。

この数理に基づき、更に木火土金水の五行に分かち相生相剋をみて運気を計るものだから数の一画が吉凶の岐路になってくるのです。

改名しても戸籍名まで変えるのは極めて困難でありますので、俗称として使用される方が多かった。しかし、それでは銀行印も使用できないのが昨今であります。

署名と実印の名が全然相違していることは、不自然であります。

この時に用いて妙味或るは、篆法の増減の法であります。

楷書は一点一画も増減損益は不可能でありますが、印篆はほとんどの文字が一定の法則の範囲内で増減自在であります。

とはいえ、この便法も篆源を究めない者が、徒に使用すると奇妙な印となり、人に醜悪を与えるという大凶を招くことになります。

姓名の損益は数理五行を知り篆源に通じる刻者の行い得る印の妙諦であります。

前述で、ハンコ屋はそういう事例に会うというお話しをしましたが、次のようなことがありました。

子どもの「名つけ」のおりに、親は「裕子」とつけたく思いましたが、易者には一画多いと言われ、衣篇を示篇に変えられ「名つけ」をされた方がおられました。

易者も易者なら親も親であります。

凶名は吉数に整えて配文するのが天職として印章を業とする者の常識ともなれば倖せでありますが、篆書の初歩にも達せぬ印刻者とその手であるPC型彫刻機が多い今日では、この妙法の発達も難しい状況であります。

 

 

posted: 2014年 4月 26日

第12章 字法と章法・・・その3

(4)印字法(之印を加える字法)

<整斎と美感覚>

印章の印文に加える字法に「之印」「印」「章」「之章」「私印」「実印」「印信」「信印」「臣印」「氏」その他、印の意を表す文字を加える字法があります。

印字は無用という説もあれば、印字なきは名印に非ずとの説もあります。

現行の実用印の場合は配分上の都合で、用、不用は印文の整斎と美的感覚の如何によります。

ただし印鑑登録をする場合、これは市区町村の条例に基づくものでありますので、多くはありませんが、この印字法を許可しないところがありますのでご注意くださいませ。姓名以外の文字が入っている場合は登録不可となっているか、事前にお問い合わせいただければと存じます。

このところ、未婚の女性の方が実印をお作りになる時に、姓名の名でお作りになられる方が多くなっています。そうすれば御結婚後、姓が変わるようであっても、そのまま使用することが出来ます。

一文字の画数の少ないお名前、例えば「彩」さんや「結」さん、あるいは仮名文字の方、「あや」さんや「あすか」さん、「さつき」さんは、本来この印字法を使う方が美しくレイアウトできます。そして、銀行印の場合は大丈夫です。

(5)那依法(ないほう)

<篆源に通ずる>

文字は各々の姿で多角のもの、小画のもの、肥痩、粗密、長短、正曲、垂脚無脚等、様々なものがあり、その集合体が印文となります。

実印においては、姓名の中にそれらが集まっています。

これを平均に同じ大きさに区分して、活字のように並べるのは却って均斉を欠き、全体の不調和となります。

同じ空間面積に、多角のものと、小画のものを並べると、必然的に小画のものが大きく見えます。

例えば、鷲鷹一生さん・・・丸の中に右に鷲鷹、左に一生としますと、「鷲」字と「一」字が左右にならびます。それが同じ面積なら、「一」字が馬鹿でかく見えます。

また、これがひどいものなら印が傾いて見えます。

上記の如く、多角密字の偏在は局促(きょくそく・せせこましい)、この反対は懶散(らいさん・しまりがない)となります。

これを文字の増減法と併用したりして、調和するのが那依法であります。

那はどうすべきか、依は応じて助け合うの意であります。

この那依法は数学のような方程式では表せません。

また篆源に通じない未熟の者が巧を弄すれば、却って不自然になり見苦しい印となります。

印字法、章法(文法)も各々容れる主題の文字を見て、その文字の持つ象(かたち)を活かせて、前述の原則に副うて構成するので、原則を固執し、強いてすべてを律するものではありません。

(6)疎密の和

<「和」をもつ>

印章のレイアウト(配字)において一番難しいことは、「疎密のよろしきを得る」ということです。

即ち円融、潔浄であり、懶散(らいさん・しまりのない)でなく、局促(きょくそく・せせこましい)せず、経緯(縦横の線)が各自規格に当てはまって福々しい感じのうるおいあるものが「和」をもつ良印となり、一生の宝器となり得ます。

あらゆる芸術は空間を生かすことにあると言って過言ではありません。

しかし空間の「間」を誤って用いると、却って「間」の抜けた印章が出来上がり、頓馬な性格を表現してしまいます。

 

「印を誤るに病三つあり、見聞博からざるにより、その淵源を知らざるもその一つなり。 扁旁点画総合の純ならざることその二なり。 経営位置、妄りに意を用い疎密宜しきを得ざることその三なり。」

・・・以上三戒は篆法の鉄則であります。

 

苟も刀を執らんか質実剛健、心に得て手に応じ、自然の妙に従う・・・。

しかし、疎密に拘泥して怪奇な文字を作ってもいけないし、牽強附会の牽鑿をした作も正しくない。

文字を自由に扱うのには出典を知って字法を究め、疎密の調和によって初めて立派な印章となります。

楷書を文字の根源と誤り、楷書をゴシック風にしたり無用の画をつけたり、曲げたりして卑俗なる篆書に似た文字を一区画に畳み込んだ書体の俗篆印が現代印章の大半を占めているという嘆かわしい状態です。

最近ネットで見たものの中に、輪郭と文字との接触点を運命を強化するとのご説で、そこだけを異様に太く強調するという迷信印章がありました。

印章学はもちろん易学をも冒涜する自論独論であります。

そのような印があるのなら、その文字と印の出典と易の論拠を述べるべきであります。

またそれを販売しているのが、易者ではなく印章業者であるという点・・・。

これでは、「印章無用論」に巣食われても仕方なき業界であるようにも思います。

間の抜けた文字や印章、即ち「和」無き印章は、業界をも「和」無き間抜けなものにしていくことと危惧いたします。

posted: 2014年 4月 25日

第12章 字法と章法・・・その2

(3)章法

<印章の根幹>

章法とは印面に彫刻する文字(印文という)を布置配文(ふちはいぶん)する組み立て方を指します。

実印に言い換えれば、素材の印面に彫刻する姓名(フルネーム)を字法により選定した篆書を15ミリ丸のなかにいかに効果的に印文学に基づきレイアウトしていくかという構成法を言います。

字法と章法は印章の二大根幹であって、これを誤れば、如何に刀法がすぐれていて綺麗な線と筆意の表現ができていても駄印であります。言い換えれば、工芸的出来はよくとも、印章にならずといえます。

<情意>

章法において、情意は最も尊ぶべき要点であります。

印面は一つの家であり、一つの城であります。

印文(実印であれば姓名の文字)は各々の象(かたち)の文字が相より相助け、正則俯仰して一堂に集まり、和気靄々として渾然一体となり、調和され大らかな美しさで構成せられた作を情意ある印章といいます。

規格の厳重な章法も、畢竟この情意ある印を得んがために、先人が幾多の苦心によって得た体験の集積であり、章法を乱すと乱さざるによって、印章を瓦礫とするか、人生の宝器とするか善悪二様の性質が定まるのであります。

《実践例》

字法、章法は古印の制でありますので、不要の部分を省略し、その用語も専門用語を避けて、実戦的事例の一端を示します。

15ミリ丸に彫刻する実印の配文について

■1字の姓 一字の名・・・姓名とも横に並べて配文する。姓または名を一字彫刻するときは印の字を加える。

〈注意〉印鑑登録で、一部の印章学を理解していない市区町村によっては、姓名以外の文字が入っている場合は、受理されないことがあります。そこでは上記「印」の字を加えるも許可されません。

■二字の姓 二字の名・・・姓名共に配文するときは、一般的には四字を配文する。その字画が多く局促の印になるときは、実印は名を採り、その他は姓を採る。(例:「鷲鷹文太郎」)

■二字の姓 一字の名・・・姓名ともに配文するときは、右へ二字、左へ一字をレイアウトする。名の字が小画の場合は、印の字を加えて四字の配文とします。

■一字の姓 二字の名・・・右は姓一字、左は名二字であります。姓が小画のときは、正の下に印の字を加える。これは廻文法(かいぶんほう)と言い、印の字は後につけて読む。辻印吉三であるが、辻吉三印と読む。

■三字の姓 一字の名・・・佐々木治、長谷川実というようなときは、右へ姓三字、左へ名と印字を使うか、之印を使用する場合もあります。

腕のある職人なら、右へ姓三字、左へ名一字のみのレイアウトでも寛容に文字の大小をなくして配文することができます。これをPC型彫刻機内臓のソフトを当てはめると、一字の名だけが馬鹿でかく目立つ駄印となります。

■二字の姓 三字の名

右に姓二字、左に名三字、この時は廻文にして印字を用いると全体に重苦しくなるので避けるべきだあります。

 

このほかに場合は多々ありますでしょうが、印刻者とよく相談して、できれば完成デザイン(印稿)を書いてもらって納得して購入されることをお勧めいたします。印章は人生の宝器であり、一生大切に使用して頂くものでありますので。

法人印の配字については機会を見てお話しいたします。

 

 

posted: 2014年 4月 25日

第12章 字法と章法・・・その1

(1)印章の正道

<奇は邪道なり>

最近、日本印章史でお話ししたような戦国武将の印章を模して実印や銀行印という正印に用いたり、絵や文様を配した印章をネットの中に見つけることがあります。

人は時には正道より奇道を好むものであります。

しかしながら、印章において奇道は避けなければなりません。

多少の刻技に自信のある者は、そこはかとなき才にまかせて我流の奇印を刻し、またこれを好んで依頼し、前述のような風変りの印章を持ちたがる者も少なくないが、私印はあくまでも正法に基づいた印章を以て護身の宝器とすべきであります。

古来名印と言われたものに奇道の作はありません。

或るものは軽妙に、或るものは重厚に、各々の律の中にあって、自由奔放の美しい姿を保っているところは、正に芸術の妙諦というべく、印章の生命も亦これに存在するのです。

正しい印章を知るには、字法、章法の概念は必須であります。

 

<思い出の記>

故二葉一成先生語録

これは、篆刻作品の見方をお話ししていた時に、「最近の作品は只々ごちゃごちゃと文字をいじくり、これでもかと目に触れていない形を追い求めている。しかし、一番難しいのはオーソドックスな文字を素直に配字することだ、これは木口(実用印)にも同じことが言える」とおっしゃっていたのを思い出しました。

(2)字法

<字法と章法>

篆刻の指南書には、字法はこれから彫ろうとする文字の選び方で、章法とは布字の仕方であるとされています。

これから彫ろうとする文字がお客様のお名前や会社名である実用道は、この簡単な説明では示しえないので、もう少しその持つ意味を実用道に照らし解説いたします。

<印の正道>

茶道、華道、書道に作法があり、種々の秘法があるように、印章にも正法があります。

よく字法は詩の押韻に例えられます。詩韻の律であります。

平仄を無視したものは詩にならないように、字法を誤ると印になりません。

PC型彫刻機に内蔵されているソフトの篆書をただ並べるだけでは、印章にはならないし、それを器用に構成し直したところで印文学に基づいた校正法でなければ、我流の駄印と成り果てます。労多くして効なしであります。

印の宗である秦漢以来の字法は私印に主点がありました。

今ここにそれを詳記しても現代の印章とは縁遠く、私たちの使用する実用印にその例を挙げていくことにします。

現代印章の字法は篆法とともに乱離喪失し、「信を千古に示す」と尊敬された印章の威厳はどこに行ってしまったのか!

遂に「その醜悪なる、見るに堪えず」とまで転落してしまったのだろうか。

この乱離喪失を極め、誤謬を重ねつつある現代の諸印章に、印の正道があることを示していきたい。

 

<追記>

最近、どこかの市長さんがSNSを利用し、印鑑登録制度が要らないと呟いたそうであります。

見ると若い市長さんで、勉強はできたが社会的教養や文化に疎く仕方ないのかなとの気もしましたが、おそらく彼は印章の正道を知らないのでしょうし、醜悪なる印章しか見たことがないのだと推察します。

他からのアプローチもできる案件ですが、私はその推察にとどめ置き、真善美の印章の普及と印章の正道の情報発信に努めていきたいと考えます。

posted: 2014年 4月 25日

第11章 篆書と大和古印・・・その2

第11章 篆書と大和古印

(2)篆字の解説

日本の文字教育では、小学校に入るとまずカナ文字(ひらがな、カタカナ)を習い、次いで漢字を教えてもらいます。

この字体が教科書体と呼ばれる楷書であります。

行書、草書は手紙や書道の世界として遠巻きにながめ、高校、大学へと進学しても楷書、行書、草書は名前のみを知り、隷書、篆書は名も知らずに、町の看板文字や意匠文字のある種デザインであるとしかとらえていないのが実情です。

印章でも実印の字体を篆書と指定してくるお客様はめずらしく、「実印の字体」とか「読みにくい字体」と指定されます。

最近のTVで、書き順を問うクイズ番組がありましたが、テストにも一点一画を厳しく問われます。

この楷書が文字の基本で、これをくずして、行書や草書、仮名文字が出来て、篆書や隷書は明朝体やゴシック文字と同様に文字のデザインと考える人が多いのは、文字教育と印章文化の啓発の遅れであろうと推察いたします。

書道をかじったことのある人なら少しは知っておられると思いますが、五体とは、篆、隷、楷、行、草の五つの書体を指すものです。

その基本は篆書であります。次いで隷書、楷書は一番新しくできた字体なのです。

常用漢字より旧漢字の方が、意味的であるとおっしゃられる年配の方が居られます。「体」より「體」と。

文字の妙味は、それよりも篆書につきます。

一字一字に趣と道義があり、重要印章の大座を占めている由縁の一つでもあります。

藤本胤峯先生著『印章と人生』より別ページにてその例を挙げていきます。

(3)大和古印体(倭古印)・・・その1

印章の文字には篆書があり、重要印章は篆書の一人勝ちの感がありますが、ここに我が国に育った印章文字に大和古印体があります。

大和古印体とは天平の昔から、銅で鋳造した日本の古い官公印に使用された書体であります。

秦の時代より印章制度が発展した中国に対し、我が国では天平時代に漸く印章を知り、これらに模して朝廷の大権として、内印,外印、寺印等を胴で鋳造したものに用いた独自の創作体と言って過言ではありません。

印面は角印で朱文刻法です。

中国は白文(陰刻)が正式で、日本はその逆の朱文(陽刻)を採用しました。

今日の印章もこれに倣い、正印は全て朱文であります。

大和古印体に名作なしとする説があります。

大和古印体は篆書と楷書の混合体のようなもので、章法も拙く誤字が多く、篆法を甚だしく無視歪曲していて、一見名作ではないように見える。

しかし、中国の制度は採りつつも篆体を墨守せずに、日本独特の素朴と古雅の風趣ある大和古印体を創り出した当時の文化人の精神力は、認められて良いものがあると思います。

このことを角度を変えて京都の鮟鱇屈主人、水野恵氏は次のように表現されています。

「多分平安時代の篆刻では、中国から篆書の字引きを輸入してちゃんとやるしゅうめんどうな手続きを採らんと、手っ取り早う、わかってる書体でええやないかと考えたんどっしゃろ。

ふざけたどころか、楷書は楷書なりに行書は行書なりにちゃんと恰好になってます。

・・・・中略・・・・

奈良時代の変な篆書も含めて「大和古印体」て言います。大和古印体で彫られている印章は、中国の印章とはおよそ異質どっさかい、それらを「大和古印」と呼んで中国古印と区別しています。

その違いをひとことで言うと、物は官印系に属するのに作風は文人系という事どす。

その代表が「鵤寺倉印」(いかるがでらそういん)であり「甕玉大神」(みかたまおおかみ)どす。(別ページ参照)

・・・・以下略・・・・」(『日本篆刻物語』より)

posted: 2014年 4月 24日

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