第4章 印章再認識時代・・・その4

<正しい見識>

印章は彫刻者の全人格と全精神力の所産であります。

それゆえに、刻者は高い見識をもって、正しい印章の力作を念頭としなければならない。

捺印効果は一人の運命、一企業体の運命、さらには数個の企業体の運命をも司ります。

多くの場合、印章の注文は生涯に一度であり、その印章はその方の生涯を通じて使用されるものであります。

 

誰しも捺印効果の重大性については認識しているが、印章そのものには知識を持つ人は多くはありません。

 

われわれは些細な日常品でも、普段買い付けない物を買うのは容易ではありません。

このお客様に対して、正しく導くことは印章業者の使命でなければなりません。

 

現在の状態は、その使命を忘れて、すべて注文者の自由選択に任せています。

見本ケースに並べられた多くの印材を示されても、寸法の適否や材料の判別をする基準がないから、価格と外観を基準とせざるを得ないのです。

 

書体や文字の選択となると、印材の選択より以上に難題であると言って過言ではありません。

印章の字法は特殊専門的領域であり、これを全く知識を持たない者に、正しい選択は不可能であります。

 

しかしお客様はそんななかで、それぞれの好みに従ってこれを選択されます。

派手好みの方は派手な感覚の字体を、地味な人はやはり地味な字体を無意識のうちに選択し、指定するのであります。

 

印章業者が印章の使命の重大性を真に理解するならば、以上のような軽々しい選択を許してはいられないでしょう。

刻者は専門家としての認識と、印章の重大な使命を再認識し、自覚新たに正しい立派な印章の作成に心を尽くさねばなりません。

 

印刻の真の見識とは、依頼者であるお客様の要望も十分に聞いて、これを是正し、そのうえで印刀を執って印に向かい、依頼者のたまに最善を尽くし、{最高の印章を謹刻するぞ}という気迫こそ、力作をものにし、期待に添うことであります。

 

在庫の印材やケース類をすべて並べ、「はい、お客様。ご自由に選択くださいませ。そして、書体は見本帳からどれでもお好きなものをお選びください」というのは、マニュアル化された言葉を述べているにすぎず、真にお客様の立場に立ち、一生涯ご使用になられる印章をお勧めしていることとは別物であります。

posted: 2013年 7月 27日

第4章 印章再認識時代・・・その3

(2)印章業界の見識不足

<職業としての印刻>

経済的要素・技術的要素・倫理的要素の三つが職業を評価する要素と言われてきました。この高低がその職業の価値を判断するというものです。

 

かつて江戸時代に居合抜きを行っていた者の技とされた歯抜屋は、完全に脱皮して現在では歯科医と呼ばれるようになりました。

社会的に高く評価されるにいたったのは、医学的裏付けにより飛躍的に発達した技術と、社会的に貢献する点に大きな倫理的要素を認めざるを得ないのであります。

 

印判彫刻業は、その歴史も古く見識ある職業であるべきにもかかわらず。案外社会的な評価はそう高くはありません。

現在では、各地の名工・「現代の名工」や黄綬褒章、叙勲まで幅広く活躍される立派な方もおられますが、一部のことであり、全体を見渡すとそうでもないようであります。

このような逸話がかつてあったそうです。

ある旅館に宿泊した数人の印判業者が宿帳に印刷業と記載した・・・はん屋と呼ばれることに苦痛を感じる傾向に印章業者の卑屈さの具体的表れであります。

 

かつての歯抜き屋が歯科医となり、職下りと言われた床屋が理容師として気概を示しているにもかかわらず、印章業者が依然として卑屈な気持を抱いているということは、草創期以来、研究心に乏しく、師も求めず我流の彫刻ですませ、現在では彫刻すら知らずに機械で彫りっぱなし・・・印章道を知らずに過ごしてきた向上心の欠如に起因するのでしょう。

市井のはんこ屋とせずに、経済界の様々なグループに属し活動されることは賢明ではありますが、肝心の職をはんこ屋さんだということと区別されそこに威厳を求めるのではなく、グループ名や組織に威厳を求めるなら、古き印判業者が宿帳に印刷業と記載するのと同様ではないでしょうか。

 

はんこ屋さん(印判業)と呼ばれることに卑屈さを感じる一部の技術屋さんは、自らを篆刻家ないしは最近では書家や作家・アーティストとまで称するものまで出てきております。

錯覚からくるものでしょうが、自治体やお国からいただく名工や匠という称号以外に自らが作家やアーティストと名乗ることは、印章業を卑下するよりはいいかもわかりませんが、世間様や後世の人からの評価を自らなのることは、自惚れ以外の何物でもありません。

形式的に呼び名を変えて、はん屋より篆刻家の方が上位にある。

はん屋・はんこ屋・印章店・印判店・印房より印章作家やアーティストと呼ばれたい。

全て印章を深く理解していない自己の不勉強さと自惚れからくるものであり無知を露呈することとなります。

 

危機を迎えている印章業(あえてこう書きだすことにします)でありますが、印章彫刻技術は、業界挙げての各種競技会や60年の歴史を有する「大印展」の継承のおかげで、相当優秀な印章が彫刻されるようになりました。

これらの人たちの大変な努力によって、社会が印章について認識を新たにし、業者のすべてが技術の向上に努めるならば、印章に対する社会的認識も改まって、印章彫刻の職業は高く評価されるものとなり、それは再び技術の勉強を促すこととなり、その因果関係の良き傾向は止まることをしらなかったでありましょう。

 

しかし、現実の印章業界は危機に直面しております。

もちろん経済的要因があり景気が関与することがもっとも大きいことは事実ですし、時代的潮流や社会的必要度という問題もあるとは思います。

そこを前記の中より考え反省する点も見出して頂ければ、危機から脱する道も見えてはこないでしょうか。

 

 

posted: 2013年 7月 27日

第4章 印章再認識時代・・・その2

<統制と印章>

明治6年10月1日の布告により実印の制度が誕生しました。

第2次世界大戦までは、中流階級までは実印・銀行印・認印を備えていましたが、下層サラリーマンの家庭は主人の認印一本の場合が多かったようです。

この認印がすべての用途・・・実印・認印・契約印を兼ねていました。

また、この水準以下の生活者に印章は必要なものではありませんでした。

 

ところが、戦争中に諸物資がことごとく統制され、配給制度がひかれたので、印章は生活必需品に飛躍しました。

このため、どこの家庭でも常時印章が必要になり、家庭用の印章を応急に備えなければならなかった。このことにより、日本のあらゆる家庭に少なくとも一本以上の印章が行き渡ったのです。

しかしこのことは印章の発展史の一ページであるとともに、駄印の普及の一ページでもありました。

 

その当時のことを藤本胤峯先生は著書の中で次のように述懐しておられます。

「わたしは、印章が統制によって大量に求められた時、この時こそ良き印章を広く行き亙らせ、印章に対する認識が決定される時であるから、この機会にこそ印章の発展と同時に立派な印章を彫ることが天職として努めなければならないと提案したが、それどころではなく、殺到する注文を逃しては損と、早彫り自慢の三文技工が幅を利かせて駄作の印章乱造となり、また六角ケースの仕入印(既製の認印)も飛ぶように売れて、印章の真の普及は駄印の普及となってしまった。」

 

●明治6年の実印制定の布告

●第2次大戦による物資配給

この二つの機会は印章の発展とはなったが、印章と印章業者の質の向上にはならなかった。

印章の発展は彫刻印章の発展の歴史でありました。

篆刻印章と印章学は超然とこの雑印とは別の次元の世界にあって、俗印の退廃に積極的な指導性を示さなかったことは事実として認識しておく必要があります。

また後に述べることとなりますが、この事実が篆刻印章家と一般木口師を区分することの始まりとなりました。

 

posted: 2013年 7月 27日

第4章 印章再認識時代・・・その1

第4章 印章再認識時代

(1)印章の発展

<実印の制度>

印章が信憑の要具として権威を備え、広く普及する途上に二つのおおきな転換点がありました。

ひとつは、明治6年の実印制定の布告。

もう一つは、第2次大戦による物資配給です。

この二つの事項は印章の発展の歴史であります。

 

徳川初期より庶民の私印(印判)は許されていましたが、普及したと言っても一部の階層のみであって、書判(かきはん)と共に併用されていました。

また、ある部門では書判(花押)の方を重く見る傾向がありました。

 

それは書判作りは、学者・僧侶・天文博士が主であったのに対し、印判屋は町の商人でありました。

その印判屋の彫る印も花押の構成方式を模して、名乗や反切帰字(はんせつきじ)を用いていたので、書判作りより軽視されていたとみられている。

 

ところが明治維新と共に新しい社会制度に急変し、明治6年10月1日に実印を以て信憑と定められたので、花押は法律上無効となり、あらゆる取引は印章の権威によって行われるようになりました。

書判作りは印判師に職を転じたのであります。

われわれの今日使用している実印、認印の真の誕生はこのようにして成立したのであります。

この10月1日を全日本印章業組合(現公益社団法人日本印章業協会)が「印章の日」として昭和42年に制定しました。

 

さて当時の印章を作る技術はどうであったかと言いますと、残念ながら印章学の正道である印篆(いんてん)はおろか、字法、章法、刀法も知らず、ただ印篆に似た文字を、15ミリ丸または13.5ミリ丸の中へ彫刻刀で刻っていたに過ぎない代物でありました。

このとき有力な印章の指導者が篆刻の技を広めていたら、今日の印章はぐんと高尚なものになっていたことでしょうが、篆刻者(家)と印判屋は赤の他人で背を向けていました。

この時期の篆刻家を以て、実用印章史の仲間として論ずる論客が居られますが、それは庶民の実情とはかけ離れたものであることも付け加えておきます。その篆刻家が庶民の印判(実用印章)にたいして指導性を発揮し篆刻の技を広めていないことからも、それとはきちんと区分して考察すべきことと考えます。

 

よって、そのままに実印とは篆書に似た字体で、手先で小器用に彫ればそれでよしとし、お客に好まれそうな形式をとりつつ無気力な上達のない年月が流れていきました。

posted: 2013年 7月 27日

第3章 印章と犯罪・・・その3

(3)印章偽造の罪

<対人信用より対印信用時代>

現代は対人信用より対印信用時代であります。

売買貸借上の契約において、当事者が百万遍言葉を尽くしてその契約の履行を誓っても、到底相手に信用を得ることも契約を成立させることもできません。

これに反してただ一個の印章を押捺することにより何百万何千万円の契約も即座に成立するのが現代です。

 

昔は「若し違反したる場合には万座の中にてお笑い下されたく」という一札を差し入れることによって万事は処理されました。かつては、人の言葉にそれだけの信用があったのです。

しかるに今日では証書面に印章を押捺するのみではいまだ安全ではないとして、重大な物件は公証役場において公正証書を作成し、公証人の承認を得るを常例としています。

道義が地に落ちたかどうかは別問題として、対人信用より対印信用の時代であることは何人も否定できないところであります。

 

故に国家によりこの重大なる印章を保護するための罰則が規定されているので、それを別ページにて参照してください。

 

<良心に誓って>

印章はその運用いかんによって、われ他人の運命を活殺し得る偉大な権威をもっています。そのもっとも厳粛なる捺印は神聖な法廷における証人であります。

 

裁判長は証人が証言しようとするその直前において捺印せしめるのですが、その捺印にあたり、

「良心ニ誓イ真実ヲ述ベ、何事モ黙秘セズ、何事モ付加セザルコトヲ誓ウ」

と宣言させ、裁判長がこれを朗読して捺印せしめるのですが、往古の神文誓紙血判もこのようなものと思わせる神聖なるものがあります。

 

このようにして、印は自己の信念となり、それを行使することによって、社会の正義を守ることが出来るのであります。

posted: 2013年 7月 22日

第3章 印章と犯罪・・・その2

<犯罪の誘発>

印章は人手に渡すものではありません。

たとえ親しい竹馬の友、親友と言われる部類の人でも、簡単に実印を委託することはよろしくありません。

また、これとは逆に人の印を預かることも慎むべきことです。

 

よく重要書類に捺印をおえると、まだ捺印する箇所が生じるかもしれないので、印章を預けておこうという場合が、親密な間柄には実に多くみられます。

もうここまで来たのだからとか、これまでに君を信頼しているのだからという気持ちで、人は案外、何気なく印章を委託してしまうものであります。

印章に限り、寛大で太っ腹は禁物で、たえず用心が第一であります。

もし預けた印章で規制書類に捨印(すていん)を押され、加行したり、字句の修正をされないとも限らないし、また白紙に押捺されて、それを握られたら、後日に出来心でいつどのような事態が起こりうるかわかりません。

印章の貸与は犯罪を誘発する危険性がありすぎます。

 

印章の犯罪は法廷でも水掛け論となって、承認して押した・・・いや知らぬ・・・ともめぬいて、係争は長年に亙るため被害者は神経的に参ってしまう事例が多いと聞いております。

ちょっとした油断で、一生の蓄財をふいにした例も実は多いのであります。

 

<認印も同権>

認印だから貸した・・・これは本当によく耳にすることです。

一般的に認印は責任も発言力も低いように思われがちですが、承認して押印した時は、実印も認印も法律では効力は変わりません。

 

業務上どうしても自分の印章を他人に委託しなければ事務の円滑を欠くような場合は、認印とは別に副印を用意し、副印は代行捺印者専用として、自らは押捺しないように区分しておくようにしましょう。

万一事故が生じた場合、直裁か代行かが自ら明確であるし、また防犯にもなることがあります。

印章はその人の地位に比例して正副と多くなるのが常であります。

一本の100円ショップの印鑑で、すべてをまかなうことは、その醜い印影にすべてを支配されることにつながります。

幾重にも仕切り隔壁を設けることが賢策であります。

 

<保証印は命とり>

印章による犯罪に、新聞紙上で紹介されるのはほんの一例で、民事の保証印による訴訟の種類と数の多さには驚くところがあります。

印章を軽んじた報いはあまりにも残酷で、署名捺印した事項に法律は冷厳であります。

信を示して約束したからには一連の人が違約すればどうなるかは、捺印する時から最悪の事態を考慮すべきことです。

 

金を貸すと、金とその人を共に失うと言いますが、印を貸すと己のすべてを失うこととなります。

印章は貸すな、借りるな。保証印はするな、たのむな。

些細な事項で軽い証印を依頼すると、次に重い証印を頼まれた時も、一対一のお返しの義理を感じて承諾し、これが原因で取り返しのつかない悲劇を生むことになります。

自分の地位財産を守護する福の神の印章も、他人事にこき使うと疫病神に変身することでしょう。

posted: 2013年 7月 22日

第3章 印章と犯罪・・・その1

第3章 印章と犯罪

(1)印章の偽造盗用

<犯罪を促進するもの>

犯罪と言えば暴力・強力犯と称されるものがほとんどの国に対して、文化の向上に伴い知能犯の種類もますます増加し、印章に関する犯罪も知能犯中重要な部門を形成してきました。

その多くは詐欺を目的とするものであって盗用と偽造であるが、印鑑の盗用は偽造に比べ比較的被害者の身辺に近い者から起こりやすいと言われている。

私たち印章業者が実印、認印、銀行印の使用区別を明確にし、実印は家庭内の奥深く秘蔵しなければなりませんと進言するのも、このような場合の災害を未然に予防するためであります。

手近な目のつくところに実印等を放置しておくと、世に出来心という言葉があるように、咄嗟に犯罪を行う場合があります。

このような犯罪を促進させるのは、被害者自身にも不注意の責任があることも多く見かけられます。

この種の犯罪をもっとも容易に行わせるのは、指輪に彫刻させた印章でありました。

ある種の人々は自慢らしく金の指輪に、首とかけがえの実印を彫らして得々としていますが、もし泥酔しその印形を盗用されたとすればどうなるのでしょうか。

印影が独り歩きする今日において、ただ知らないでは許されるものではありません。

泥酔中あるいは脅迫を受けた場合の捺印は無効とすることができるとはいうものの、それはごく稀な判例で、自己の不注意は自己において責任を負わなければなりません。

正道なる印章業者が指輪などに彫られた印章を邪道として排斥するのもまた、この災害を防止するためであって、このようなことは自ら犯罪を促進し、社会を毒するものといわなければなりません。

 

(2)印章の貸与

<死人に口なし>

たとえ肉親知己といえども、印章はむやみに貸与、あるいは委託すべきでない。

往々にして不測の災はこうした不注意な心がけから巻き起こるものであります。

ここに次のような事例があります。

金銭受け取りのためにAはその印章をBに頼んで持参させたところ、Bはその受けとったお金と印章をAにかえしてくれた。

しかし、後日にCという人物にその印章でAが手形の裏書人とされていて請求されたが、その時すでにBは死亡しており、これを裁判に訴えてもAの敗訴となって、みすみす印章を悪用されたとしりながら、Aはその手形のお金を支払わなければならなかった。

お互いに信用し合った仲でも、ときには偶発的な精神作用で悪意を起こす場合もあるので、自己の財産を守る唯一の武器である印章は、如何に肉親知己たりともこれを貸与したり寄託することは避けねばならない。

またそうしたことが、お互いに悪意でなされたことでなくとも、わずかな誤りによっつて自他ともに迷惑を起こす場合があるのです。

posted: 2013年 7月 22日

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