第2章 現代生活と印章・・・その5

(3)印章に対する吝嗇(りんしょく)と浪費

<運命をかろんじる人々>

印章に対する認識不足のタイプを二つに分けることが出来ます。

むやみに金品を惜しむ吝嗇タイプと無駄遣いの浪費タイプの二種類です。

 

自分が住む家の家相、方位、地形にことごとく神経を払い、一人二人の家相家に鑑定してもらうことでは満足せずに、易学・四柱推命・墨色判断・スピリチャル・気学などと数人の鑑定をさせて、初めて工事に着工し、うん百万円を費やしても惜しまないが、自分の財産を守り運命を左右する印章に対しては、誤っていようが欠落していようが平気で使用している人。

如何に家相、方位に万全を期そうとも、こういう人の運命は決して向上発展することはありません。

 

これを例えたならば、家相は人体の外面であって、印章は血であり肉であり魂であります。

如何に外面の皮膚、目鼻立ちが整い美しくとも、魂に邪悪の影を宿し、人をマインドコントロールするようなものは、人としての価値を疑わざるを得ないのではないでしょうか。

家相を云々する人が、あまりにも印象に対して無関心なのには驚かざるを得ないのです。

 

その他庭園の一木一石に数千万円を投じたり、骨董にうつつをぬかしたり、衣服に憂身をやつし、装身具やブランドのバックを持つ人が、印章に関しては極度の吝嗇性を発揮し、安価粗末なものを使用しているのはまだしも、摩耗欠損したものをそのまま使用し、ブランドのバックの中から出された印が100円ショップの既成劣悪品出会った折には、その美貌にめをそむけたくもなり、その信を疑わざるを得ないと、ただ唖然とするだけであります。

 

しかし、高価な印章を使用することのみが印を重んじる道であるということでもありません。

身分不相応なるもの、またはあまりにも奢侈に亙るものは、印章の本義をゆがめるものとしてこれを排斥しなければならない。

 

<奢るも者久しからず>

前者が印章に対して極度に物惜しみする吝嗇タイプであるとすれば、その反面に驚くべき浪費タイプがあります。

用もない金銀材の印章を所持して得意げな人、あるいは印顆(印材のサイド)にプラチナを挿入しこれ見よがしに持ち歩く人、ことさらに金の指輪に実印、認印を彫刻して指間に見せびらかす人に至っては、その趣味の下賤なることを自ら暴露して、心ある人の嘲笑を浴びるばかりか、簡単に印形を盗用されて不測の災いを招くことになりかねません。

 

このように印章に程度以上の金銭を浪費する者は、お金のかかった印章であるから大切にしようとする考えでしょうが、これほど本末を転倒した話はありません。

印章が大切なのはその精神であって、印材の金銀プラチナたるを問いません。

いかに金銀プラチナをはめ金剛石をちりばめ、世界最高価の印章をつくろうとも、章法、字法に誤りがある印面がむちゃくちゃなものであれば、100円ショップの海外生産の既成の印にも劣るのであります。

 

印の尊いのは印材ではなく、その精神にあることを知らないで、いたずらに価格の高いものを喜ぶ人は、書画骨董に数千万円の財を投ずるのと同様、印章を骨董扱いにするものであります。

生活の第一線に使用する印章を骨董品視する人は、とりもなおさず生活に真実性を欠いている証拠であって、このような無駄の多い生活は、いつか破綻を期するべき運命に陥ります。

いたずらに高価華美をつくらう印章は、さながら士魂を忘れた黄金造りの痩身の太刀と同様、適を打つのに役立たないのみか、却ってわが身を亡ぼす兇器となってしまいます。

posted: 2013年 7月 19日

第2章 現代生活と印章・・・その4

(2)印章と地位

<印のない人間>

如何に貧しい家庭、無頓着な人間でも、一顆(一本)以上の印章は必ずもっていますし、持っていなければならないはずであります。

もし印章を必要としないものがいるとするなら、樹下石上を住処とする仙人か浮浪者やホームレスぐらいなものでしょう。

 

社会生活上、人と印章は欠くことのできない密接不可分な関係を有している以上、印章そのものから生活状態もまた判断することが出来るわけです。

100円ショップで販売されている印や三文判と呼ばれるようなもの一つで、万事が処理できてしまう家庭は下層階級に属している。

それより向上すれば認印、実印の二種類が供えられるようになり、中層階級に至っては、認印、実印のほかに銀行印、家庭印など、次第に使用する印も増加し、その使用用途によって区分されます。

別項目でのお話しとしますが、下層階級や中層階級において実に多いのがこの用途兼用です。

尚、それより向上すれば、社長印、重役印という仕事印、銀行印も取引先銀行によって変えるという状況が生じてきます。これは、その財力の維持管理のためには欠かせないことです。

 

下層、中層・・・このようにお話しすると格差社会を助長すると思われる方が居られるかもしれませんが、印章と生活能力、財産、地位は切っても切れない密接な関係を提示するものでありますし、この表現を避けて商売をしている印章業者はいないはずです。おられるとしたら、それはもはや商売ではなく字彫りを楽しむ趣味人としか言いようがありません。

 

印章業者は、お客様の生命、財産、地位、家族を守る印章を販売して生計をたてているので、そのことに思いをはせ、下層より中層に、そして財運多く豊かな暮らしを送って頂きたいと思い仕事をするべきだと思います。

 

よって印章の優劣が、その人の地位財産に正比例して与える影響もまた増大し、善悪二様の神秘力も倍加されてくるのであります。

 

<印章は生活能力の計器>

認印一本ですべてを処理する家庭では、その認印の善悪の影響も、生活程度に順応したものでありますが、うん千万の資産を有する者には、印の吉凶はうん千万に相応した威力を発揮し、一億円の者にはその印章の神秘力も十倍に加するものであります。

成功者ほど良い印をもっているのは争うことのない事実であって、良印が成功を呼ぶのか、成功者が宿命的に良印を得るのか、恐らくは二者呼応する相対関係でありますが、印章の神秘力に思い至るとき、印章がその人の生活能力の計器として、運命に与える影響の甚大なるに粛然として襟を正さしむ者があります。

心すべきは、自己の運命を託する印の選択であります。

 

<印章に現れる人格不統一者>

良印は良運を呼び悪印は悪運を呼ぶ。これ自然の理であって、印を尊び、丁重に取り扱う者に好運の人が多く、印は安物でよい、唯院で通ればよいと考える者に失敗者が多いのも天地の理であります。

 

悪人でも運が強ければ一時は栄えることがある如く、悪印でも不思議と好調な時があります。

しかし天定まって人を制すとか、その後に来る運命の恐るべき陥穽は到底これをふせぐことは出来ません。

この自己の運命の表現である印章を世の中には面白半分に無案に多く作って喜んでいる人があります。

この人らは印章を玩具扱いにするものであって、印章の本義に反する性格の不統一を暴露しているものであります。

この種類の人たちの多くは中産階級以上に見いだされる病的現象で、実印は自己の性格に適した良印を一個選べばよいのであって、流行りにより変遷する装身具のごとく朝変暮改することは、自分を辱めるだけでなく、家名をもてあそぶ愚かしいことです。

posted: 2013年 7月 19日

第2章 現代生活と印章・・・その3

<印章の威力>

不用意に捺印したためにその人の地位や財力が、一朝にして転落してしまった例は多く、誰でもその一、二の事例は見聞したことがあると思います。

捺印することの重大性と結果の重大性は知っていて、捺印することに注意を払っている人でも、印章そのものに対しては一向に無頓着で、その取扱いが軽率な方が多いのも事実であります。

ハンコみたいなもの、印鑑ぐらい・・・・そういう気持ちの延長線上には、いずれ捺印の軽率になって、悔いを千載に残す悲劇の始まりとなる可能性があります。

 

捺印機会も減るなか、却って重要場面に印章の重要性、必要性が高まった時に、これを捺印機会がないからと、普段より粗略に扱うことは、極めて危険なことであります。

 

昔は印章の押捺は重大な行為で、朝早くに行い、午後は捺印はしなかったと言います。

徳川中期の実印を調べると水牛材(牛の角)が多く、その価値も一顆(一本)二万円ぐらいのものが普通でありました。

また、これを収める印箱は印櫃(いんびつ)と称し、家の権威として、家人はこの印櫃に手を触れることを許されず、これを開く人は家長に限られたというぐらいのものでした。

 

このように大切に扱われ、慎重に捺印されてこそ「印が据(すわ)る」という感じです。煩雑な社会の今日においても、この精神だけは採用して丁重に対処したいものであります。

 

据わる印はおろか、印章をたたきつけるように捺印し、たたきつけるように投げ出す行動は、所詮軽輩の行為に他なりません。

「印章を軽んずるものは信を置けぬ」の諺通りに、いつかは印章による不覚で致命的損失を招くことになるのは明らかであります。

posted: 2013年 7月 19日

第2章 現代生活と印章・・・その2

<金融業者の人物鑑別法>

多くの人が印章を軽視し、粗末に扱っている今日においても、印章に対して針のごとく神経をとがらし、鋭き観察の眼を向けている一部の人々があります。・・・それが、金融業者であります。
銀行の在り方や存在意義が、ネット銀行が出現し、印鑑無用が横行している昨今においても、多くの銀行取引は印章を介して行われているのが現実であります。
金融業者は、その証文に押されたただ一顆(印章の単位)の印章によって幾数十、幾百万円の金融を取引しているのであるから、何物より印章を第一要点と目しているのは当然であるが、その印を押す場合、相手の行為に対して実に想像を超える鋭い眼を注いでいます。
その一例が藤本胤峯著・生田陽介編『財運と印章』に次のように記されています。
「一人の女性銀行員さんが、あるAなる人から融資を頼まれたことがありました。Aは、その借金をとり急いでいたので担保物件、連帯保証人の印は後日に回して、取り急ぎ証文を作製して所要の金額を融通することにしました。
証文ができ、それにAが署名し、いよいよ捺印するときに、Aは取り出した自分の印章に対して膝を正し軽く一礼すると、厳粛な態度で証文に捺印したのでありました。
今捺印する印章に対するその一例、態度の真剣さ、これぞ証紙に書かれた条項を誓って履行せんとする決意の表現でなくてなんであろうか。人を見る点において超人的な鋭さを持っている金融業者は、たちどころに、担保物件、保証人の連印を不要とし、即座に求めるところの金額を喜んで交付したのであります。
また、ある銀行の集金人は、集金に行った場合、あわてて印章をあちらこちらと捜す家、また使用した印章をぞんざいにタンスの引き出しに投げ込むような家庭に限って、決まって最終まで掛け金をした家はないと断言している。」

posted: 2013年 7月 18日

第2章 現代生活と印章・・・その1

第2章 現代生活と印章
(1)印章の重視
<人情に溺れる者>
「宣伝効果の上がる名刺」「捨てられることのない名刺」「高感度アップの名刺」と名刺の効用を説く宣伝を目にします。
一葉(一枚)の名刺が、その方の人格や職業への想いを適格に表現し、相手やお客様に思わぬ影響や効果を発揮するように、一生使用する印章が誤っているものであるならば、その印を使用する限り、その人の運命は決して開けず、病難、災難、事業不振などを生じ、次第に衰亡し、やがて人生の落伍者となることは自然の理であると言わざるを得ません。
名刺に誤りを発見する時は、ほとんどの人はすぐにこれを訂正し、印刷をやり代えることでしょう。
ところが、印章の誤りを発見する人は少なく、その誤りを指摘されてもすぐに破棄新調しなおす人はほとんどありません。
これはすなわち、印章に対する知識の不足が印章を軽視させている最大の原因であります。
100円ショップの印鑑やオシャレや流行りの和風という言葉に踊らされて、プリント柄のアクリル印を衝動買いし、机の引き出しにその類のハンコがゴロゴロしている状態を生むことも、それに起因することであります。
現代ほどモノにあふれ、かつ印章を粗末にする時代は未だ過去にはなく、その反面、現代ほど印章とその捺印行為が重要性を帯びている時代もかつてなかったと言えます。
その例の一つに、他人のためにする保障印があります。
それが金銭の保障であれば、さまざまな口実をもうけてお断りをする人がほとんどでありましょう。
しかし、対人的保障、すなわち就職される方の保証人になる場合、なかなかお断りすることが難しく、肉親知己の縁にいたっては9割以上の方が、判を捺してしまうことでしょう。
甚だしきにいたっては、一見再会の人に対しても、簡単に保証人の印を押しているのが常で、ハンコが手近にない場合、「ちょっと、100円ショップで買ってくる。」と安易に購入までして、押される。(100円だからという点にも注意が必要)
これは、人情にもろい日本人の美点が同時に欠点になることを如実にしめしています。
他日その保証をなした人間が問題を起こした場合は、対人的な保障印であるのと対物的な保障印であることとは、差異のない結果となります。
そして、それにより財産上に莫大な損失をきたし、生活に大きな破綻を生ずるとも、自らまいた種は自らこれを刈り取るよりほか道はありません。
保障印を押捺する時から、万一の場合は誓ってその責に殉ずる覚悟はあるべきはずですが、何人の人が自己の印章に対してそれだけの確固とした信念を持っているのでしょうか。
印章の濫用は、責任感の欠乏であります。
某大学の卒業時、実社会に巣立つ卒業生に向けた学長の餞の言葉をご紹介いたしましょう。
「保障印を円滑に謝絶し得るようになれば、その人間も社会学を立派に卒業したものであります。ご卒業、おめでとうございます。」

 

 

posted: 2013年 7月 18日

第1章 印章の意義と価値・・・その7

(7)印章無用論

<印章不滅>

国民背番号制の延長であろうか、国家監督権を強化するためにか、非合理とされた行政機関での押印廃止が施行されてからもう随分と経ちます。

また、金融機関において個人を識別する方法の進化により、目や静脈からの認証で、銀行印という粗雑な物を排除していこうという方向が一部にあります。

挙句の果てには、総合的に実印という印鑑登録制度の見直しまで声高らかに叫ぶ輩がいることも事実です。

この印章不要や無用とされる論は、実は今に始まったことではなく、藤本胤峯先生が「印章と人生」を執筆されていた昭和30年代においてもあったことを次のように話されています。

「印章無用論がある新聞に掲載されて、その反論文を求められたことがある。その論文は、印章に対する現代の認識は日用品の石鹸、ちり紙、雑貨品に対する物と異ならず、印章に重大な意義を持たすのは、唯煩雑に過ぎず無意味であるという趣旨であった。

あえて、この論文に反論はしなかった。なるほど、現代の印章の現実は俗印が横行し、社会機構は極端に形式のみを要請するのであるから、印章に関する現状から判断すれば、無用論の唱えられるのも無理はないと思う。

印章無用論は印章に代わるものとして、署名を以て要件を満たそうと考えている。

この署名の着想の根源は欧米諸国のサインにあると思われるのであるが、東洋において数千年の伝統を持つ印章の歴史性及び社会性は、そうやすやすと片付け得るものでない。」

その後、このようにも続けられています。

「しかし印章の雑品なみに普及し転落したのでは、無用論の肩を持ちたくなるような事態をも体験させられる。

例えば、仕入れの領収書に金額と氏名をペン書きして、仕入れの三文判(既製の認印)を押捺した紙片に対しては、ただただ不安を感じて、その三文判より、むしろペン字の方を頼りたくなる気持ちになる。

個性もなく品位風格はもちろんかけらもない駄作の印章と、さらに木屑に近い仕入印(おもちゃのようなアクリル樹脂の既成印)に信憑としての権威を与えるのは、まさに不自然である。

サイン制度になれば、欧米の真似をせなくとも、往年の花押かきはんがまた復活する。草体の花押の美しさと個性は三文判よりはるかに信頼と権威をもつであろう。

今こそ印章の品位を高め、真に信憑としての権威の象徴に応える計をそだてるべきである。」

この印章無用論プラス印章未経験者という大きな課題が藤本先生亡きあとの世に起こりつつあります。

その印章未経験による印章無用になってしまった人への一言。

立派な印章は美しく、そして楽しいものです。

それを使用することも喜びです。

全てを物質的便利主義や合理的に処理してしまう西洋やアメリカ的考え方と、森羅万象を精神的に観察する東洋思想とそのなかの日本的思考との相違でありましょうが、「伝国の璽」より伝わり継承発展してきた印章の制は、サインに勝る美学と信用の権威を保つ厳然たる存在であります。

信の表現たる印章を全く抹消された辞令、紙幣、証書、手形、賞状がもし現れた時、そこに何らの尊厳さも、信も魂もない淋しい一片の紙片にすぎないものを見出すことでしょう。

印章無用論こそ無用にしたい念願であります。

posted: 2013年 6月 2日

第1章 印章の意義と価値・・・その6

(6)陰徳は印徳

<英雄の印>

大工という職人の生き様を描いた『五重塔』の著者・・・明治の文豪・幸田露伴をご存知でしょうか。

その言に「陰悪ある家必ずしも亡びず、されど亡びる家十中八、九は必ず陰悪あり、陰徳ある家必ずしも栄えず、されど栄える家十中八、九は必ず陰徳あり」とあります。

この陰悪、陰徳なる文字を印悪、印徳に置き換えて考えると、印徳ある良印の所持者必ずしもみな栄えないとするも、十中八、九は必ずその恩恵に浴するのは疑いないところとし、古来よりこの印徳に恵まれるべく吉語印なるものがつくられて来ました。

別ページの図をご参照ください。

(一)は織田信長の吉語印であって「天下布武」と彫ってあります。

(二)は豊臣秀吉の吉語印で右に「寿比南山」左に「福如東海」中央に「関白」と記したものですが、秀吉はこの吉語官名が自分に適していたので常に愛翫使用していました。

(三)は徳川家康の吉語印で「福徳」・・・家康らしい好みの吉語を選んでいます。

一代の英雄と謳われた武将が、こうした吉語印を作って、自分の武運、開運を印徳に祈願していたのを見ても、如何に往昔から印章が畏敬されてきたかを知ることが出来ます。

posted: 2013年 6月 2日

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