技術空白の世になるなら、西鶴と同じ思い

何と世に桜もさかず下戸ならば
【作者】井原西鶴

大阪の感染者数が93と異常値をしめした昨夜のニュースを見て、今はステイホームで自分の身は自分で守らんといけないなと思いました。
その反面、音楽や演劇、映画などの文化や芸術、スポーツの鑑賞がネットやデジタル配信中心となっていることを憂います。
印章技術大競技会の審査会に東京に行く予定をしていたのですが、非常事態宣言を受けて延期となりました。
その競技会に出品者の努力と精進の賜物の作品をデジタルで審査は出来ませんし、デジタル画面で審査するのは嫌です。
作品にも技術者の想いが入っています。
作品と対面して審査をするという事は、出品者との魂と対面する事だと思います。
また、その審査会を準備されてきた東京の技術委員の苦労を考えると、延期はとても残念です。
私としては、延期された日に無事に審査が行われる事と、秋の大会に晴れて作品が展示されることを祈念するのみです。

文化や芸術は、出来た作品を見聞きするのみではなく、その作品へ関わった全ての事象と人を鑑賞することに意義を見出す一人です。
全てがデジタルであるという制限が加えられれば、もうそれは芸術文化の範疇を飛び出したものとなり、新しい次元の在り方だと思います。
そういう次元に対しては、私は西鶴同様に下戸になりたいと思います。
少し話が違うのかもしれませんが、江戸の世に「衣裳法度」のおふれが出されても、桜は咲きます。
そんなおふれの世であれば、桜も咲かずに、酒も飲めない下戸の方がよほどましかなと伊勢物語の歌を用いて西鶴は思いました。
私も時代や状況は違っても、西鶴同様の気分になるのは何故なのかと不思議な気持ちになります。
文化芸術の発表の場を失った人は、職業なら保証をされるのは当然の事とも思いますが、発表の場を失くしたそれらの停滞は、取り戻すのに2倍いや3倍の時間と苦労が必要かなと想像します。
いや、実際にこれを期して消滅するものもあるのだろうなと思います。
印章も・・・何もしなければそうなると私は思います。
そういう意味でも、印章技術大競技会の延期された審査会が無事に開催できますように、事態の収束を心より祈りたい。
収束後の文化芸術の在り方のみでなく、暮らしの在り方などが大きく変わり価値観もモノの見方も変わるのでしょうが、その本質をそれぞれが無くさないように今努力できることをすべきだと思います。
また、それを揶揄することは避けて頂きたいと強く願います。

posted: 2020年 4月 10日