欺瞞印章工場との訣別

五月雨の降のこしてや光堂
【作者】松尾芭蕉

この芭蕉の句を岩波文庫では、「五月雨はすべてのものを腐らすのだが、ここだけは降らなかったのであろうか。五百年の風雪に耐えた光堂のなんと美しく輝いていることよ。」と句意を説明しています。
今日もそぼ降る五月雨の大阪ですが、やはり五月雨は大きな犠牲と共に多くを腐らせたように思えてなりません。
初夏を迎えているというのに、いやその前、コロナの前から印章は冬の時代を迎えていました。
印章自身の在り方を旧態依然の存在として、リモートワークの障壁であり、さらにデジタル化社会への社会悪のように、コロナ禍を利用して大宣伝が五月雨のように印章業界に降り続けています。
業界の内部では、様々な反論が様々な角度から業界人の私の目や耳に入ってきました。
しかし、社会に対しての返答をしているのは、ほんの一部であります。
そのこと自体に対して、私も反論の文章を作りは致しませんでした。
むしろ、業界内部での意見が滑稽に思えて仕方がありません。
いくら印章の本来の在り方を今の印章無用論に対抗して示したりしても、その印章自体を本来の価値ある物として、きちんと製作し消費者に届けてきたのかという疑問を逆にぶつけたくなります。
一部の、ほんの一部の業界人の中には、そう言う姿勢をもって印章を製作して販売されている方もおられます。
しかし、多くはパソコン印章やフォント印章を大量普及することに力点を置かれ、印章本来の存在価値を守ろうとする社会的役割を遠く昔に投げ捨ててきた人達が多いように感じています。
その表れが、印章技術への軽視であります。
印章技術の現場は疲弊し、そこへの力点が無かった証には、既に国(厚労省)により技能検定の存続要件に満ちていないと廃止を検討されるという、とんでもない事態を自らが招いてきたと言わざるを得ないのです。
技術者がいないのに成立しているのは、不思議でならない業界です。
ですので、印章は自らの力でもって冬の時代を作り出したと言って何ら過言でないと私は思います。
そして、消費者はそのことを知っているので、パソコン印章やフォント印章なら、そんな価値がないものなら、もう印章はビジネスに必要ないという運びになってきています。
パソコンやそのフォントで作製する印影なら、印影化することが不要であり、そんなものには価値がないということです。
当たり前の論理であります。
今や、大きな企業がこぞって押印廃止の声を上げ始めています。
そして、その対策が根本を見直す姿勢でなく、やはり経営論的な対処方法です。
その対処方法もこのコロナにより、上手く稼働していない、稼働どころか全国的にはその構想さえ見えてきていません。

文章が長くなりますが、興味がある方は引き続きお読み下さい。
コロナ雨という五月雨に腐ってしまった後、残るのは光堂です。
先日より、本来の印章を扱う人と、そうでない印章業界の人は区分されていき、きちんとした印章を扱う人は刀商のようになるであろうと予言いたしました。
そうすると、SNSというのは恐ろしいもので、刀鍛冶の藤原兼房さんの工房の広告が目に留まりました。
同じことを言っておられたので驚き、「いいね!」をさせて頂きました。
その方が書いておられた広告の記事をご紹介させてもらいます。

「何故、侍の居ないこの現代に日本刀を作るのか‬
国宝のおよそ一割が刀である。その中の半数以上が鎌倉時代の作品であり、後世に残る素晴らしい刀を数多く鍛えた。
それはもはや単なる武器ではない、究極の芸術作品です。
そんな鎌倉時代の名刀に勝るような、刀を打つ事、
それが現代の刀鍛冶の目標でもあります。
しかし未だ誰一人として当時の刀の美を、完全に再現出来た刀匠は、おりません。
正宗を、一文字を、まだ超えられない、何百年も昔の、名工達が、今も刀の中にいて、未だその背中を追い続け現代刀と言うだけで、すでに歴史には負けています。だからこそ本当の名刀を作って真っ向から、藤原兼房家は、勝負して行く覚悟です。
正宗や、一文字が、参ったと、唸るような名刀を、作る。彼らの向こうには、未だ誰も見た事のない世界があるかもしれない。」

刀は、現代では誰ももっていません。
ほんの一部の方が法律に基づき所有されていたり、美術館に所蔵されていたりするものとなっています。
実用印章と刀は違いますが、同じような道をたどっていく事のような気がしてなりません。
刀は、その道を明治以降長らく歩んできました。
印章は、明治以降に実用性を前面に出し、人々の暮らしと共に歩んできました。
その多くの人々に見限られているのが現状です。
何故、見限られたのか・・・
多くの人々が悪いのではなく、印章業者が悪いというのが私の論です。
印章を扱う人の生き残る道は刀商です。
職人は、刀鍛冶です。
それ以外の業界人は、印章を消した業界として、別な在り方を求めていく事だろうと思います。
それを印章と呼ぶならば、もう社会は黙っていないと思うのは、私の論です。

写真は、河井寛次郎の陶板「髙きに灯ともす 人間の髙さにともす」です。

posted: 2020年 5月 31日