職人たるべく視点を持てる年に

仕事始のスイッチ祷るが如く入る

【作者】啄 光影

 

今年は、息子たちも帰阪を自粛したので、夫婦二人の静かなお正月となりました。

三が日は、運動の為にと二人で氏神様や大阪城、少し離れたスーパーに出かけました。

後はテレビを見たり、昨年末に思いきって購入した本を読んでいました。

思いきって購入したとは、少し高額でありました。

税別4,500円・・・自分へのお年玉のような買い物です。

『刃物たるべく 職人の昭和』土田昇著(みすず書房)

はっきり言って、とてもマニアックな本です。

著者の土田さんは、東京の刃物店の私より少し年下の三代目店主です。

大工道具を作る鍛冶職人や砥ぎ屋の話、鏝鑿(こてのみ)・刳小刀という大工道具の中でもさらにマニアックな道具話が延々と続いています。

興味関心のない人にとっては、著者には悪いのですが、読むのも大変な代物かも知れません。

誰が買うのだろうかと、近所の本屋さんで半年ほど見続けましたが誰も買わないので、清水の舞台から飛び降りるつもりで手に入れました。

きちんとした刃物もそうです。

大量生産できないので高額です。

嘗ては、大工の日当の3倍から5倍くらいのものを購入するのが、上手くなりたいという大工の努力の目安でした。

私の20年前から現在も使用している仕上げ刀は、当時2万円しました。

東京東村山にある滝口製作所(ご主人は亡くなられたと聞いています)で、左用に打っていただきました。

 

私は左利きで、刃物には通常の職人さんの倍の苦労をし、また勉強もしました。

印刀は手打ちのものも持っていますが、機械打ちでもそれほど気になりません。

仕上げ刀は、片刃ですので、2万円(20年前)の左用です。

印刀も最初は何本も砥ぎ潰しました。

砥ぎ潰すとは、ドンドンと砥いでいっても刃物にならない、切れないので鋼部分がなくなり、砥げなくなるということです。

使い潰すとは、意味が違います。

初心の方や最近の技術者の印刀を見ると、先代からの物を継承されている人がほとんどで、きちんとした刃物の形になっていない物を使用されています。

彫刻以前の問題です。

刃がついていない棒で印面に傷をつけているだけ、刃物の仕組みも考えないし、身につけようと、何本も砥ぎ潰すと言う姿勢も感じません。

仕上げ刀は、東村山の名工に打って頂く前は、機械打ちの右利き用を左におろし直したり、他の鍛冶屋さんに打ってもらったものを相当の数、砥ぎ潰しました。

それは、印刀の比ではありません。(逆に言うと、印刀が砥げないのに仕上げ刀が砥げるわけがありません。)

 

土田さんの著書のなかにも砥石の話が出てきます。

著者のお父さんである土田一郎さんは、刳小刀を「六百時間」砥いだとあります。

また、自分に合った道具に仕立て上げるにはどれだけ大変な事であるのかを次のように語っています。

「道具のより良い調整には相応の時間を要します。切削そのものを受け持つ刃先をより鋭利にするために砥石で砥ぎ上げねばなりませんし、鋸や鑿であれば作業者が手で握る柄部を、鉋であれば鉋刃がすがる鉋台を製作、調整し、長時間の使用に支障が出ないものに仕立てることとなります。それら調整作業において、魅力的な工夫や洗練が、より高精度に、しかも比較的短時間にという合理に結び付く場面もありますが、それら発見、発明と呼ばれる類のものは、すぐに職人間にひろまり、共有され、さらなる技術精進にいそしむ時間に転用されます。すなわち、より良い道具調整を志向するかぎり相応の時間は短縮し得ないこととなります。遊ぶ時間、寝る時間を削ってでも、誰にも負けない道具調整をなそうとします。」

 

しかし、そうした職人はドンドンと減少の一途をたどっており、風前の灯火と言っても過言ではないと思います。

印章分野の道具においても、印刀が手に入らなくなっています。

勿論、特注で鍛冶屋さんに打ってもらう事もできますが、印章業界の問屋さんでもう10年以上前から扱わなくなったことが、それを如実に表していると私は継承現場より判断してきました。

仕上げ刀は、印章のみでなく、その他の細工物でも使用したりしますので、勿論問屋は扱っていませんが、探せば手には入ります。

印刀や仕上げ刀が印章をつくる作業をするのに必要でなくなったのです。

それはどういうことかを、印章業界は腰を据えて考えなければならない年となる事と思います。

認印がなくなると、更に道具がいらなくなる。

道具がいらなくなるという事は、手を動かさないということ。

手を動かす必要がないということは、職人がいらないということ。

著書のなかでも「もはや伝統的な木工具など現実には用を足さぬ時代にいたり、パフォーマンスの場で披露されるだけが役割と化した状況で、本当はどんなものを喪失した上で、現在の便利な、血肉がにおいたたない清潔な、そしてひそやかさが排除された文化が成立しているのかを輝秀(鍛冶職の名工)ともども、我々も考え直してみないといけないのかもしれません。」と書かれています。

印章を作製する世界においても、普段の仕事で使用しない印刀や仕上げ刀、砥石、名倉、筆、二面硯、字割り器などを、技術競技会や大印展の時、パフォーマンスの時しか使用しないという道具になり果ててしまっています。

 

今、仕事がある、それはそれで大切で、喜ばしい事かも知れません。

しかし、本義が生きている仕事を残すために、きちんとした足元「作りつづける」製作現場や継承現場を大切に考えないと、来年の仕事、3年後の仕事、5年後には、を考えていく事が、一人ひとりの職人たる印章人に問われる年となる事でしょう。

まずは視点をそこに移して、考え始めましょう!

そういう年にして頂きたいと強く願います。

 

posted: 2021年 1月 5日