足らずを感じる力
二月はやはだかの木々に日をそそぐ
【作者】長谷川素逝
大阪日本民藝館の展示室の最終渡り廊下を渡ると、階段下の小さなビデオ上映コーナーがあります。
4~5脚の椅子にゆっくりと座り画面を見ていると、バーナード・リーチのお孫さんフィリップ・リーチさんのお話が始まりました。
濱田庄司のもとに、若い青年が自分で焼いた陶器を風呂敷に入れて持参してきた。
その作品を濱田先生に見てもらいたいとのことでありました。
二人が、その陶器を中にはさんで、沈黙が流れる・・・傍には、柳宗悦やおじい様のバーナード・リーチが見守る・・・さらに沈黙が流れる・・・おもむろに席を立った濱田庄司は手に朝鮮の名も無き陶工の白磁を持ってきて、その青年の作品の横に並べた・・・更なる沈黙が続き、青年は再び自らが持参した陶器を風呂敷にしまい、「有難うございました」と一礼をして出ていった・・・
バーナード・リーチは、厳しすぎるのではと濱田に問うと、「いや彼は、自らの作品と美しい朝鮮陶器を見比べて、自らの足らずを認識できたのだ。これでよいのです。」と応えた。
孫のフィリップ・リーチさんは、日本的過ぎる伝え方(伝承方法)だと言いました。
昨日休養方々出かけた一番の収穫でした。
理路整然とした論理で伝える。
今の伝承方法だと思います。
それが良いと思ってきました。
しかしながら、最近少し違うのかな~と思い始めていました。
解剖学者の養老孟司さんもテレビで、理路整然とした論理や文章ほど、胡散臭いものはないと言われていたのを思い出しました。
見て覚える、見て感じて、足らずを知る
そして、見て、圧倒的な感動を覚える
それが一番なんじゃないかな
もの作りにとって
デジタルに対峙するよりも、そういう土俵にはいらない圧倒的な感動
それが求められているように強く思いました。
濱田のもとに教えを乞いに来た青年には、足らずを感じる力があったのだと、強く考えさせられました。
私も精進努力して、そういう力をつけたいものです。
posted: 2021年 2月 1日