強い工芸的な意思・・・その4

昨日は、早起きをして家内と一緒に菩提寺のお墓参りに行きました。

墓地の裏手は、高津神社の木が茂っていて、そこが鴉の寄り合い場所となっていました。

十羽以上の鴉の集団がカーカーとうるさい、まだ夜明け前で暗闇に近い空に黒い体が、「ここは自分たちの縄張りだぞ!」と飛び回っているようです。

それが嘗ての自分を見るようで、なんだか嫌な気分になりました。

それからすぐに仕事量調整のために職場に行こうと思っていたのですが、帰宅すると疲れて少し寝入ってしまい、職場についたのは11時くらいでした。

技術講習会や大印展準備、技能検定などの日曜日以外は、仕事量調整というか、仕事をする休日を多く過ごしてきました。

どうも元来の怠け者で、自分を律するには、自分なりの掟をもたないと、直ぐに自堕落になっていきます。

お客様に完成デザインのご提案を、個人印章は3点、法人印は2点をすると決めました。

鉛筆書きのラフなデザインではなく、完成品に近い状態まで手で書き上げ、赤コピーをし直して、お客様がイメージできるようにしてご提案する。

それは商売上云々ということではなく、自分を技術の場にきちんと据える、工芸的な自分であるためにそうしています。

完成デザインを3点、その人の情報からその人を頭に置き、篆書という印章文字を駆使していくことは、とても大変な事です。

すんなりと、布置配文(レイアウト)される場合もありますが、何日も頭の中をクルクルと文字が回り続ける時もあります。

そういう時は、どうしても仕事量調整をするために休日を使用しなければなりません。

齢62になると、他事が入ってくるととてもしんどくなってきました。

しかし、それを妥協するとダメになり、自分が工芸的でなくなることも自分はよくわかっています。

嘗て、少し怠けていたわけではありませんが、他所事が忙しくなり、考えが纏まらない時に、3点の内、1点だけ自分が満足するデザインにして、後の2点に力を入れなかった時があります。

何と、お客様が力足らずのデザインをお選びになられたのです。

そうすると、自分の中に悔いが残ります。

作製者に何らかの意図みたいなものがあったとしても、お客様は「直感」でお選びになります。

そこが大切で、芸術と実用が二分される理由なのです。

人が使用する物を、使用者をとおして工芸的な自分が作らせて頂いている。

使用者を通して、何か別の次元と繋がることが工芸であると強く思うようになりました。

 

今日も印面に向かえることに感謝。

posted: 2022年 1月 24日