個展に足を運んでいただき、有難うございました。

六月を奇麗な風の吹くことよ
【作者】正岡子規

 

 

 

 

 

 

 

 

 

個展の後片付けをして、三条の駅に向かっていると、終わりをまっていたかのような雨が降り出しました。
開催期間中は、雨もなく暑くもなく、過ごしやすい日をいただき、京の都の「おしでの大神」に感謝いたします。
多くの方のご来場を賜りまして、この場を借りまして、お礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
お寺や禅が大好きなオーストラリアからのお客様は、禅語「知足安分」という作品をご購入いただきました。
京都での大学生活の頃に勉強会をしていた高校生は、初日のシャッターが開くのを待ち構えてくれていました。
東京から仕事で来られたデザイナーの方は、表現方法をとても気に入って頂け、作品に押す印をご依頼くださいました。
京都新聞の記者さん。
文具業界誌の編集長さん。
三条大橋向こうの歯医者さん。
大学の同窓生とは、懐かしい話で盛り上がりました。
会場裏の同業者さんも会場を訪れて頂きました。
その方いわく、はんこ購入者の90%以上が外国人観光客だそうです。
大阪や名古屋の技術講習会関係者も駆けつけてくれました。
現在、大阪の講習会に通われている方は、作品が目の力で破けるかと思うほど熱心に見て帰られました。
中国からのカップルさんは、「和敬清寂」作品をご購入下さいました。
他の物とものすごく迷われておりました。
決め手は、「文字から見栄えの良いグラフィックへと上がっているような気がします。」(翻訳機によると)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クラウドファンディングにもご協力いただいた実店舗近くのお得意様ご夫婦も座右の銘を作品にしたいとおっしゃっていただきました。
京極で商われている老舗印章店の社長様とインバウンドについていろいろ意見交換もできました。
京都の和眼鏡の先生
その方のグループ展で知り合いました木彫り師の先生は福井から来てくださいました。
過去の自分を棄てて、新しい自分を見出すために京都に2週間の座禅修業にアメリカから来た若者。
オーストラリアでヨガのインストラクターをしている女性。
古くからお付き合いがあり、印章のデザインを残そうと考えるようになったきっかけを頂いた伝統デザイン研究家のJ先生ご夫妻・・・良いお知恵をいただきました。
写真家で京大名誉教授の先生は、これは冊子にすべきだと、ご自分作製の友人の冊子をわざわざ届けに再度ご来場くださいました。
まだまだ、多くの方のご来場を賜りまして有難うございました。
取り急ぎお礼まで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

posted: 2025年 6月 4日

【 三田村煕菴個展へのプロローグ①】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

印章を彫刻することを篆刻といった時代があり、ある時から篆刻と実用印章はその役割を別にしていった。

篆刻は、書道に内包されていき展覧会を中心とした芸術分野にその存在を求めている。

はんこや印鑑と呼ばれる印章は、本来の印章の本質を継承するために実用のなかに美を見出してきた。

400年前に全国の優秀な版木師がヨーロピアンスタイルの彫刻方法をポルトガル人から学び印判師となり、官から民に降りて行った印章。

そのヨーロピアンスタイルは、メソポタミアから分岐していった印の在り方が社会の求めに応じて活版印刷となり再び日本の印章と出会った。

写真製版が出来るまでの間、実用として写真画を彫刻していた方法である。

それがヨーロピアンスタイルの彫刻で、後には木口木版という芸術分野に存在を残した。

いろいろな時代的変遷と社会の要請が、複雑に絡みあい変化していった印章は、それぞれの分野の線引きとその役割を定めた。

ともあれ400年間続いて来た印章木口彫刻技術は、今後そのままのスタイルを維持できる状態では無くなってきた。

デジタル化していく社会の要請もあるが、内部からの変容にも原因はある。

手のみの彫刻ではなくなり、機械化が進んだというより、コンピュータが誰でも使えるパソコンとなり、それは流通を変えただけではなく、作り手の意識をも変容させていった。

押印廃止の号令だけでなく、そのような在り方が自ずと消費者に伝わり、印章の価値を低落させる要因となったのは事実である。

そこに大きく幕を引き、いにしえからの印章の在り方とそこに携わってきた名も無き職人たちを表面化させる工夫をもった新たな印章の息吹が求められている。

そこには、工人のプライドと技術の規範・道徳が息づき、新たな時代からの要請にこたえることのできる柔軟性をも含んだ芽吹きを感じる。

 

 

 

 

 

posted: 2025年 4月 10日

花園を荒らす者は誰だ!

毎年よ彼岸の入に寒いのは

【作者】正岡子規

 

 

今日は、春分の日の仏滅で、お彼岸の中日。

ゆっくりと起き、お昼近くのお墓参りでした。

お寺の裏手は公園で、知る人ぞ知る梅林です。

今日は天気が良いので、ベンチでお弁当を食べながら、梅を観覧しているご夫婦や写真を撮っている人がいました。

帰り道のお寺の境内から木蓮の良い香りがしていました。

梅もよいけど、木蓮の佇まいも好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日、お客さんと話していて、よい観点をいただいたので、話してみたくなりました。

悲しいことですが、現実として、これからハンコは無くならないであろうが、必要な場面が少なくなってきます。

押すか押さないのか分からないものなのですが、いい加減な物や自分が納得いかないものを持っていると、大切にしません。

また、こうも言われました。

いくら美しいものでも、読めないハンコは持ちたくないと・・・

だけど、印刷活字のようなものではなく、重要印章の書体である篆書のものがほしいと・・・

 

 

長い印章の歴史のなかで、篆刻が芸術分野に方向を定め、実用印章は印章の本来の在り方をたどって来ました。

篆刻は芸術分野でありますので、書と同様に文字学に忠実であらねばなりません。

そうでないなら、威厳と権威を示している篆刻とは呼べない別物だと思います。

実用印章は、使用者のお名前に責任を持たねばなりません。

ですので、漢字にない文字を工夫して製作しなければならない立場に置かれます。

平仮名やカタカナもそうですが、国字や俗字、お名前だけに使われる漢字、戸籍登録時における誤字や一部を草書で登録したために、その箇所だけを草書に当てはめた篆書を使用したり、ある意味文字を文様化して、しかも丸のなかにデザインしなければなりません。

それら実用の現実に対応せねばならないのですが、一定の規範がないと、読めない代物になり果てます。

横のレイアウトの基準も、右から左を崩してしまい、欧米化してしまった文章のレイアウトと同じく左から右に配置するのを自由とすると、「田中」さんと「中田」さんは混同してしまいます。

読めないハンコには、社会は信用をおきません。

そんなものは要らない、ほかの認証形態に席を譲ることになります。

「竜」の字と「龍」の字の語源が同じだからといって、「竜之介」という自分の名を「龍之介」と変えられたハンコを実印として登録するのは、私ならごめん被りたいものです。

文字の記載方法が左から右となり、尺貫法もセンチメートルとグラムとなり、そういう文化がひっそりと残ってきた花園を荒らす者は誰だ!と云いたい気持ちになります。

実用印章として彫られた名前は「文(あや)」であり、工藝なのです。

そこを遺したいと強く感じています。

 

 

posted: 2025年 3月 20日

うぶな心

四十二、今 見ヨ

イツ 見ルモ

 

四十三、見テ 知リソ

知リテ ナ見ソ

 

『心偈』は、「こころうた」と読む。柳が晩年に体が不自由になってから作った短文のうたである。(今井雅晴の解説から)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コロナになった時、リモートワークの邪魔者にされた認印、そして行政書類からの「押印廃止」となった時に、ああ!もう印章はダメだなと思いました。

印章は法により守られているというよりも、それらから派生した制度により「習慣」化したものであります。

その「習慣」を取り除くのですから、自然と認印は忘れられていくことだろうと予想されます。

今ももちろん要り様な場面はありますが、要らなくなった場面の方がはるかに多くなりました。

「習慣」が無くなれば、忘れられるのです。

そう思い込んでいました。

それは、もちろん誰の眼にもそうなのですが、柳宗悦の「直観」から学び直すと、案外と「押印廃止」の号令も悪いことばかりではないのではと、思うようになりました。

柳の「茶道を想う」という作品のなかに、次のような文章が見られます。

「・・・どう見たのか。じかに見たのである。「じかに」ということが他の見方とは違う。じかに物が眼に映れば素晴らしいのである。大方の人は何かを通して眺めてしまう。いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、ある者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める。・・・」

 

印章は身近な道具であったから、見慣れている・・・丸のなかに人の名前が彫刻されている・・・ただそれだけの物、そういうところから解放された次元に入っていける。

柳は、「今 見ヨ イツ 見ルモ」の補足説明のなかで次のように言っています。

・・・私は「どうしたら、美しいものが見えるようになれるか」とよく聞かれる。別に秘密はない。初めて「今見る」想いで見ることである。うぶな心で受取ることである。これでものは鮮やかに、眼の鏡に映る。だから何時見るとも、今見る想いで見るならば、何ものも姿をかくしはしない。たとえ昨日見た品でも、今日見なければいけない。眼と心が何時も新しく働かねば、美しさはその真実の姿を現してはくれぬ。・・・

 

 

「習慣」からの解放である。

とりわけ印章は、捺印という行為が人生の岐路にあたるので、いろいろな雑念が多く入る物であります。

必要だから捺すということも然りであったのですが、欲目が多く入り、運命学や易学ならまだしも、「儲かるハンコ」「縁起の良いハンコ」などなど、時により開運商法や霊感商法などとも結びついていきました。

それらからの解放は、印章に美をもたらす好機であるともいえます。

篆刻の美は芸術の美です。

実用印章にも美があります・・・それは文(あや)の美です。

実用印章を彫刻する手が考えた文字は、模様や絵のように伝統と社会により洗練された工藝であります。

それを伝えることが、今ほど求められている時はないと思います。

 

『HANKO KIAN』の美をあなたの「うぶな心」で受けとめ、眼の鏡に映して下さい。

 

https://hankokian.base.shop/

posted: 2025年 2月 15日

HANKO KIAN

今年の仕事始めに法人印のご依頼とともにいただいた『HANKO KIAN』のアクリル絵の具による「禅語」の作品づくりを休日の店のシャッターを半分にして、落ち着いた気持ちで仕上げきりました。

後は、額装をしてお渡しとなります。

社長室に飾って頂けるということです。

(写真はその作品ではありません。)

印面のデザインを発信するというと、古い職人さんには怒られそうですが、先生・先輩から教わった貴重な技術は、彫るという行為を提示するよりも、もっと大切な、その行為により仕上がった印面の布置配文の美しい印面にあるのではないでしょうか。

世のデジタル化がさらに進行していくと、印章が要り用な場面が、今よりもさらに少なくなっていくことだと思います。

印章を工藝と考える工人として、今までほとんど発露されなかった実印や銀行印などの実用品としての印面の美しさ・・・それは各お店、各工人により趣の違いがあり、篆刻のような芸術美ではなく、実用のなかから生まれた民衆的な美・・・すなわち工藝の美であります。

それを禅語や俳句などの和的な言葉を実用印章で培った氏名や社名などを輪郭円のなかに上手くレイアウトする技術を用いて表現するという姿に到るまでは、遠回りも致しましたが、コロナ前からの模索も含めますと、約5年の年月をかけました。

それが『HANKO KIAN』です。

現在インスタグラムで広告させていただいておりますが、BASEで販売しております。

どういうシーンに置いていただけるかは、私どももまだまだ模索中です。

冒頭の社長室に飾っていただくのも一つのご提案です。

お友達とお茶をたてる時に、茶掛けのお軸を飾る床の間のあるお家ばかりではないと思います。

マンションなどの洋風の部屋にも、禅語の『HANKO KIAN』はピッタリとくることだろうと思います。

玄関やリビングにインテリアの一つとしてご使用していただくのも一案です。

昇進や結婚、成人のお祝い品としてハレの日を飾って頂くご贈答品にもご使用頂けると思います。

『HANKO KIAN』の美は、パソコン画面でその機能やAIが思考したものではなく、先人の印章技術という実用の技を存分に用いたものです。

和のある暮らしとして、身近に置いてもらえますようにお願い申し上げます。

https://hankokian.base.shop/

posted: 2025年 1月 26日

人間の自由と他力

隠し持つ狂気三分や霜の朝

【作者】西尾憲司

 

 

俳句には、二つのルールがあります。

「五・七・五」の17音のリズムで詠むことと季節を表す「季語」を入れることです。

定型に囚われない自由律俳句もありますが、それは感情の自由な律動を表現するためにあります。

どういうことに於いても決まり事というルールがあります。

それを不自由と感じて、決まり事を破ることを「自由」だとする考え方は、チト違うように感じています。

昨日も某役所の印鑑登録担当の方から、「印章アドバイザー」へのお問合せがありました。

今年に入り実印のお名前の文字配置についての2回目のお問合せです。

今までは、フルネームなら右の行に苗字(名字)を、左の行に名(下の名前)を配置します。

ネットショップを調べてみると、これをきちんと説明しているところと、決まりはなく好きなように文字を配置してもよいというところとに二分されています。

好きなように配置してもよいというところがあるので、印鑑登録担当者が困り問い合わせがあるのだと思います。

昨日の問い合わせについては、えっと思わせるようなものでしたが、詳しく述べると特定されてしまいますので、ここでは述べません。

趣味のハンコなら、面白いで済まされますが、実印という正印に個人の「自由」を与えてしまうと社会的規範がなくなります。

規範無き社会だから、まあそれでも良いかとも考えてしまいますが、昨日のような問合せは増えてくるだろうと予想されます。

もちろん私は、職人哲学と道徳から、そのような印章の彫刻依頼はお断りします。

何故、きちんとした職人哲学と道徳を持っていた嘗ての多くの職人は、そのような「自由」な文字配置の印章を作製しなかったのだろう。

そのヒントを柳宗悦『手仕事の日本』第3章「品物の性質」《実用と美》から考えたい。

以前お話した文章からの続きとなる箇所からです。

・・・これに引きかえ人間の自由はとかく我儘で、かえってこれがために自由が縛られることがしばしば起こります。それ故人間の自由に任せるものは、とかく過ちを犯しがちであります。人間は完全なものではないからであります。これに反して自然は法則の世界でありますから誤りに落ちることがありません。仮令誤りが起こるとも、罪からは遠いでありましょう。実用的な品物に美しさが見られるのは、背後にあかる法則が働いているためであります。これを他力の美しさと呼んでもよいでありましょう。他力というのは人間を越えた力を指すのであります。自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、凡てかかる大きな他力であります。かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。なぜなら他力に任せきる時、新たな自由の中に入るからであります。

これに反し人間の自由を言い張る時、多くの場合新たな不自由を嘗めるでありましょう。自力に立つ美術品で本当によい作品が少ないのはこの理由によるためであります。

 

 

 

 

 

 

posted: 2025年 1月 23日

三昧

岡山の曹源寺で、銀座の個展でご縁をいただいた梶谷さんと再会しました。

そこで勧めて頂いたギャラリー円山ステッチさん発行の『禅と工藝』を読んでいて、『工藝とは何か』で読み流していた点に気づかされました。

梶谷さんのお勧めが無かったら、気づかないままであったので、改めて感謝いたします。

 

 

 

それは、「三昧」ということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

原田老師のお言葉をご紹介しておきます。

・・・歩行三昧、仕事三昧、三昧というのは自分の意識があるけれども、無意識状態になる。繰り返しですから。だから私ら小さいときには、草引きなんかもよくさせられました。だけど、草引き、あれが三昧に入るいちばんの近道。だからね、自分の視野に入るのは決まっていますからね、座っていますから。その視野に入ってくる草をチュッチュッチュッチュッ取っとるうちに、広い場所がいつのまにか草が取れとる。そういうふうにね、人間なにも考えない、考えないけれどちゃんと効率を上げとる。そういうのがほんとだと思いますね。昔からの仕事をなさる方は、その要領を身につけておられると思います。・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

赤木明登先生は、輪島塗りの職人さんで、一月に三百個、同じお椀を作り続け三十年、一万個単位のお椀を延々とつくりつづけると・・・

赤木先生は、次のように話されています。

・・・・最初は、自分の意思でお椀をつくっているような気がしていたんですけど、だんだんお椀の方が意思を持っていて、お椀がぼくを使ってお椀が勝手に増えていっているような感じになってきて、そのときに自分がなんか「空っぽのパイプ」のようで、お椀がぼくの中をドンドン勝手に流れていくような、そんな心境になったことがあるんです・・・

 

私も、今は仕事の数が極端に減りましたが、下請け時代などは、一月に二百個以上のハンコを夜なべ仕事で彫刻していました。

その時、印面に向かう自分は赤ちゃんのように無意識に腹式呼吸をしています。

息をすれば、手元が揺れます。

息をしなければ、手元はブレませんが、息が止まり死にます。

だから、数をこなしているうちに、自然と腹式呼吸になります。

このことを原田老師は「空っぽ」、「空っぽのパイプ」とかと表現され、赤木先生は「認識を離す」と言われています。

 

 

この「認識を離す」こと、「空っぽのパイプ」になるには、私の場合・・・「いまの在り方はあなたの居場所ではなく、あなたにとって大きな役割のある方向を目指しなさい」というとてつもない強制力・・・「おしでの大神」によるスイッチの切り替えが働きました。

最近、もう一つの力である伏見の石峰寺の「五百羅漢」のやさしい微笑があったんだと気づかされました。(そのお話は、改めていたします。)

人には、今までのやり方や生活史があり、生き方や仕事、人間関係、いろいろな事への固執があります。

そういう雑念が多いのが人間だからだと思います。

しかし、そういう雑念に囚われていたのでは、自らを向上させることは、いつまでたってもできないことになります。

「三昧」は繰り返し続けることのなかから生まれてくる素晴らしい境地です。

その繰り返しが働かなくなってきているのが、今の印章であります。

手の繰り返しは無くなり、既製フォントによるパソコンでの作製やパソコン機能を用いたデザイン化は、「三昧」からは程遠い商品であり、そういう仕事です。

そこには、職人から職人へとパイプを通しての伝達力は消え失せています。

例え、そこで素晴らしいデザイン判下が出来たとしても、そこには魂は見当たらない「必要」「押さねばならない」からという形式上の「約束」を行使しているにすぎません。

これからの時代、人と人とのつながりは、さらに希薄なものとなるだろと考えます。

そういう時に、背中を押して、スイッチを入れ替えてくれるものは、工藝により仕上げられたものであってほしいし、それを望む人の為に、そういう工藝としての印章「三昧」な姿勢を発信していこうと思っています。

そのためには、工夫がいりますが、強力な助っ人、その方曰く「ウルトラCがきっとある」とおっしゃってくださいました。

とても力強い励みになっています。

が・ん・ば・り

ます!

posted: 2024年 10月 17日

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